odd_hatchの読書ノート

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フョードル・ドストエフスキー「悪霊 下」(新潮文庫)感想-3 ツルゲーネフのニヒリストと「悪霊」のニヒリスト

2024/10/21 フョードル・ドストエフスキー「悪霊 下」(新潮文庫)感想-2 雑感:神懸かり、好色な男の地獄行き、分身 1871年の続き

 


 第1部を読んだところで「悪霊」はツルゲーネフの「父と子」1862年を意識しているのではないかと思い付き、第2部第1章でそのタイトルが出てきたことに驚いた。全編を読み終えると、意識するどころではない。ストーリーからキャラまで「父と子」の設定をかり、パロディに仕立て上げていた。
 まずツルゲーネフの「父と子」を読んでみよう。リンク先を参照。
2017/12/14 イワン・ツルゲーネフ「父と子」(新潮文庫) 1862年
イワン・ツルゲーネフ「父と子」(新潮文庫)-2
 ツルゲーネフ「父と子」の骨格をリストアップ。このストーリーはドスト氏が「悪霊」でも採用したところ。
1.子の世代が大学を出て田舎の実家に帰ってくる。
2.親の世代は1840年代のブルジョア自由主義の薫陶を受けたもので、皇帝の近代化政策の支持者。この世代は1860年代の新思潮の影響を受けている。
3.主人公の若者は、恋愛に翻弄される。
4.主人公の若者は、決闘を申し込まれ、相手を圧倒する。
5.主人公や周辺の若者が、結婚を勧められる。
6.主人公が死亡する。
 ツルゲーネフの小説ではキャラが深掘りされていないうえに、個々のエピソードの連携に乏しい。そこでドスト氏は、「父と子」の世代断絶と思想の対立という主題を、ほぼ同じストーリーで展開したと見た。ドスト氏は「父と子」を再話しただけではなく、ツルゲーネフの主張や意匠に対する批判も込めている。決闘や結婚の相手を手の込んだ背景や人格を加えただけではない。いくつかをあげてみよう。
・科学技術: ツルゲーネフは信頼している。ドスト氏は疑心暗鬼。
・恋愛: ツルゲーネフはキャラの一人に婦人解放を主張させている。19世紀の制約があるけど、男女は対等。ドスト氏はホモソーシャルな社会を前提。男による女性暴力が頻出する。望まない結婚、幼児虐待や凌辱がある。
・場所: ツルゲーネフは田舎に注目。農場経営、農奴制に変わる雇用システムに関心をもっていて、ミール(ロシアの農村共同体)に期待している。ドスト氏は都市に関心を持つ。「悪霊」では工場の争議と学生運動に注目している。秘密結社による陰謀が起きているという都市伝説や公安のうわさに乗っかっている。ドスト氏はゲルチェンを小馬鹿にしているので、当然ミールには無関心。
・親子の対立: ツルゲーネフでは親の世代は農場経営を近代化することで、社会の変革をもくろんでいる。しかしうまくいかない。子の世代は何もしないでしゃべってばかりいる。親は子の世代の知識に劣等感を感じていて、彼らの家督や経営権を譲渡し、彼らの世代に期待している。ドスト氏では、親の世代は何もしないでしゃべってばかりいる。農奴制撤廃などの改革には懐疑的で、労働争議学生運動には警戒している。子の世代は秘密結社による全体主義運動で社会の転覆をもくろむ。親と子の世代には断絶があり、互いに理解しあえない。
・神: ツルゲーネフでは、いてもいなくても大きな問題にはならない。信仰の有無を他人に問わない。ドスト氏では、神を愛せるかは大問題。社会の変革よりも神をどう思うかを他人に問う。神に見放されている人は生きていく資格がない。
 これらの対立は「父と子」のバザーロフと「悪霊」のスタヴローギンに集中している。バザーロフはいいとこの坊ちゃんで、その立場から逸脱することはなかった。彼は自分の存在理由だとか神や人間の掟を乗り越えようとする意思はなく、階級の違いを乗り越えようとはしない。なので、「何事も批判的見地から見る人間」であると自称しても、彼がやっていることは親への反抗期くらいにしか見えなかった。
 ところがスタヴローギンになると、強い自意識と反省能力のために、自分の存在理由にも懐疑的になっていた。なにしろ小説の時間からは過去である学生時代に、自堕落・淫蕩・悪所通い・犯罪を繰り返しているという男だ。そこに人を扇動するという生来の能力が加わって、たぐいまれなモンスターになった。自分が特に気になるのは、指導者の位置に安住して陰謀にかまけることがなく(それはピョートルが一手に引き受ける)、自己破壊衝動や自分の命を軽く見るところ。何かを成し遂げても、すぐに棄ててしまう。スタヴローギンもバザーロフのように「何事も批判的見地から見る人間」であるが、批判的見地から見る人間そのものも批判して否定してしまう。
 彼らの違いは、それぞれの小説のラストシーンではっきりする。バザーロフは自らの不注意でチフスにかかる。死を目前にして、彼はショックを受けないし否定や怒りをあらわにしないで、悄然と受け入れる。彼は神を信じているかどうかを明かすことはなかったが、ごく普通の人間のように死を受け入れていった。一方、スタヴローギンの最期に何を考えていたのかはわからない。しかし「精神錯乱の疑いを強く否定」されるような手順で、自分の生をおしまいにした。スタヴローギンは命を軽く見る。自分のも、他人のも。スタヴローギンの人のとらえ方がどこに由来するかは置いておくとして、彼のカリスマ性は周囲に同じように命を軽く見る人たちを集めた。それが「秘密結社」や「五人組」など。彼らに共通する自己評価の低さや他人の命の軽視が「悪霊」のさまざまな殺人の原因になった。
(なので「悪霊」をイデオロギーや狂信などに帰すのではなく、全体主義運動としてみるべき。通常、全体主義運動から離脱したり脱退したりするのは、運動が失敗したことを外部から指摘された時。単純にはリーダーや幹部が暗殺・逮捕されたり、自分が逮捕されるたりした。あるいは逮捕拘禁されるかもしれない犯罪に加担することになったときにも、運動から覚める。ここでもシャートフを殺害した「五人組」は、結集する意欲が瓦解し、それぞれが孤立化して、運動から覚めた。でもスタヴローギンはそうなるはるか前に運動から覚めていた。まあ、決闘で二人殺して収監されたという経験や、少女を凌辱する犯罪発覚の可能性や、重婚しかねないという状況がスタヴローギンを虚無的にしたのだろうな。思想や精神の問題と見るより、彼の行動に原因を見るほうが思考の隘路に踏み込まずに済むと思う。)

 

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