odd_hatchの読書ノート

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イワン・ツルゲーネフ「父と子」(新潮文庫)-2 主張がなく政治参加もしない若者のニヒリズム

 ドスト氏の「悪霊」1871年ツルゲーネフの「父と子」1862年によく似ているなあ、と思いついた。そこで、同じ新潮文庫だが工藤精一郎訳で再読した。前回の感想はリンク先。

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 まずドスト氏の言い分を聞いてみよう。「悪霊」第2部第1章のステパン氏の発言。
「私はどうもツルゲーネフが腑に落ちない。彼の書いたバザーロフ(ツルゲーネフの『父と子』の主人公。ニヒリストの典型。)は、なんだかまるで実際にいない架空の人物みたいだ。今の若い連中も当時自分たちの口から、全然成ってないもののように言って、その価値を否定してしまったくらいだ。あのバザーロフという人物は、なんだかノズドリョーフ(ゴーゴリの『死せる魂』の登場人物)とバイロン(一七八八—一八二四。イギリスの詩人、作家。)を一緒にしたような、わけの分からないしろものだという評判があったが、c'estlemot.(けだし、名言だね。)しかし、あの連中を注意して観察してみたまえ。あの連中は、まるで犬の子が日向ぼっこでもするように、うれしそうにころげまわって、きゃっきやっと言っている。実に幸福そうだ。まったく勝利者だ。ね、一体どこがバイロンに似てるのだろう? おまけに、まあ、なんという月並みさかげんだろう? まるで料理女かなんぞのように、見得坊の怒りん坊で、そしてfairedubruitautourdesonnom(自分の名を担いで騒がれたいという)下劣な欲ばかり張ってるんだ。しかも自分の名が……その、なんだということにはお気がつかないのだから、もう実にもう漫画だよ! 私はあいつに言って、怒鳴ってやった——おいおい冗談じゃないぜ、一体お前は現在のままの自分を、キリストの代わりに人類へ薦めようと思ってるのか、ってね。」(引用は米川正夫訳)
 ドスト氏が怒るのもよくわかる。というのは、ドスト氏の小説を読んだ後だと、ツルゲーネフの小説はとても平坦で、物語に葛藤がなく、キャラもこしらえものじみている。読み通すのに骨が折れました。
 モスクワから離れた田舎村、1859年5月に地主ニコライの息子が帰ってきた。同伴するのはバザーロフという医学生1855年クリミア戦争の敗北後、ロシアは変わりつつある。西欧化と工業化が進められ、農奴制もなくなるらしい。そこで老年(といっても50代)の地主は農場改革を始めたがはかばかしくない。土地を分配したり西洋式の機械を導入しても、農民たちは働かない。迷妄から覚めようとしない。40年代のブルジョア自由主義者の地主は、自分は老いぼれであると感じている。そこで息子に事業を継承したいと思っている。でも23歳になって大学を卒業した息子はなんとニヒリストになっていた。ニヒリストはこのあとさまざまな意味が加えられていったが、ここでは「何事も批判的見地から見る人間」であり、科学技術には信頼をもつが、信仰心は(ほとんど)ないというくらい。彼らの言動は世の中の流行りを述べ立てることと、親の世代を冷笑することにつきる。でも、彼らはなにかの目的をもっているわけではなく、夏の休暇をだらだらと過ごすだけ。息子の世代は何もせずにしゃべっているだけで、何をするのかを探しているモラトリアム(という言葉は当時はない)世代なのだ。これを見る農民たちは道化とみなすが、若僧なので、放置しているし、主人の地主よりは親密な気分をもっている。
 1859年に成年になったばかりの二人は政治的主張はとくにない。国家の近代化要請に応じた大学で最新の科学を学んで、神抜きで物事を説明できると考えているくらいだ。神がいなくてもいいと思っているから、神を抜きにしては哲学も政治もできないと考えている親の世代とはあわない。積極的にバカにする。議論したり批判するのではなく、あてこすりと冷笑するくらい。ドスト氏が「うれしそうにころげまわって、きゃっきやっと言っている」と言わせているのも無理はない。まあ他人の複数性を無視する姿勢では、彼ら若者がこのあと流行する「社会主義」という全体主義運動に巻き込まれていくのも無理はない。
 主人公は、積極的にニヒリストを名乗るバザーロフ。田舎の人たちとの交流は面白くなく、親世代や使用人、農奴にも関心を向けない。そこで招待された家を出て田舎を放浪すると、二つの事件が起こる。
 ひとつは土地を持っている未亡人アンナへの思慕。夫なきあと西洋で暮らしたことがあるので、開明的な意見をもっているし、婦人解放の思想がある(チェルヌイシェフスキー「何をなすべきか」がでたのは1864年)。とはいえ、田舎に閉じ込められ(おそらく男性社会の抑圧があるので)、自由でない不幸な女と思っている。似たもの同士という感情でバザーロフは近づくが、年増(29歳だけど)であるアンナはバザーロフの恋に答えない。失意のバザーロフ。
 もうひとつは、軍人として西洋を渡り歩いた男(地主の兄)との決闘。一度、議論したがバザーロフの冷笑にキレて決闘を申し込む。人の来ない草むらで二人はピストルを撃ち合う。元軍人の弾はそれ、バザーロフの銃弾は足を貫通した。そこで決闘は終了。和解はしないが、元軍人がバザーロフに怒ることはない。
 この出来事があってもバザーロフは変わらない。せいぜい友人のアルカージィに結婚を薦めるくらい。アルカージィは都会暮らしに特にあこがれを持つわけでもなく、ニヒリストを気取るも徹底するつもりはなく、心弱くなった親が家督を譲る決心を聞いてひとかどの男になれる道筋がみえると、結婚はとんとん拍子に進む。そして学問を生かして農奴制廃止に対応する農場経営を行って、傾いた家を建て直した。取り残されたバザーロフは医学生としての知識を生かして農場内の医療を行うのであるが、チフスに感染してあっけなくなくなってしまう。因果応報とみるべきか、他人に無関心な男への罰とみるべきか。
 バザーロフの浅さは、親がかりの学生生活をしていて、苦労をしていなさそうなところ。決闘を申し込まれて作法通りに執行できるくらいの学生生活の知恵はもっているが、当時の学生にはあたりまえ。都市の暗黒面である愚連隊や暴力組織に関わったり、社会主義者や組合活動家と交際したり、貧民窟に入り浸ったり、「秘密好色クラブ」の会員になるようなことはしなかった(ドストエフスキー「悪霊」のスタヴローギンは全部やっている)。それに医師の勉強は父の農場で役立つ。彼の知識と技術は農場や村の人々を救うことができる。いままでなかった事業を起こして他人に感謝される立場にたつことができる。バザーロフは封建制からも資本主義からも脱落していないし、上流階級の一員としてアイデンティティを持っている。なので、かれがさまざまな主義を相対化し冷笑して「ニヒリスト」を自称しても、世間や社会から疎外された意識をもっていない。
資本主義や社会から孤立化アトム化していないから、自意識を強く持たないし、深い懐疑にとらわれることもない。自分が存在することに気持ち悪くなったりしないし、新しい人間になろうという欲望も生まれない。頭のいい人に良く見られるタイプだなあ。なので、父との対立はたんに若者の反抗期くらいにみえてしまう。
 西洋派のツルゲーネフなりの社会把握なのだろう。近代化、科学技術の導入によって旧弊を一掃すること、テクノクラートによって行政を合理化すること、それが停滞したロシアを救う道であるのだ。

 

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