2024/10/28 フョードル・ドストエフスキー「悪霊 下」(新潮文庫)第3部5 シャートフとキリーロフの「トンチンカンなユーモア」 1871年の続き
前の章がドタバタととんちんかんなユーモアに彩られ、希望と信頼のうちに終わるのであったのが、次の章では一転する。最初から最後まで陰惨で醜悪なシーンが続く。
第6章 労多き一夜 ・・・ 公園のはずれでピョートルと五人組がシャートフが来るのを待っている。これから起こすことを反芻するので、彼らは興奮し無口でありピョートルだけがおしゃべりである。そこでマリヤ・シャートワが生んだのはスタヴローギンの子であることが告げられる。
(シャートフはスタヴローギンを殴りつけたほどに彼を嫌っていたのであるが、「新しい生の出現の神秘」に感動している。言っても詮無いことではあるが、生き延びたシャートフがその事実を知ったうえで、赤ちゃんを養育したかと想像してみたい。当然育てるであろうが、子を見るごとに苦痛が生じるだろう。苦痛を抱えながら生きることのひとつの事例になり、これはラスコーリニコフの構想を崩す事例になるだろう。)
五人組のひとりシガリョフが「殺人は時間の浪費であり、正常なコースからの逸脱」と批難して、リンチ殺人から抜ける。
(シガリョフはフーリエ主義者といわれる。アソシエーションを作って共産主義を実践しようとする考え。なので上のような評価を下せる。しかしピョートルと他の五人組はシャートフの「密告」を恐れる。ピョートルの全体主義運動はアソシエーションやコミューンのような自分で考え行動することを許さず、組織=全体と個人を一致させることを要求する。その違い。またこのような比較をすることで、ピョートルと五人組に宿った「悪霊」は全体主義運動そのものであることがわかる。「悪霊」を共産主義運動やテロリズム、ナショナリズムなどに見立てるとのは間違い)。
エルケリの先導でやってきたシャートフをリプーチンが出迎え、トルカチェンコとエルケリがうつぶせに押さえつける。ピョートルがピストルを側頭部に向け発射した。死体をロープで結び重りをつけて、池に投げ込んだ。リャムシンが発狂し、ハンカチを口に入れて拘束する。ピョートルが演説し、各人がばらばらになり地下に潜行するように指示した。
(殺人シーンが事細かに描写される。その迫真さに圧倒されよう。熱に浮かされたような人びと(ほとんど亡霊のよう)が無我夢中になりながら、計画を遂行していく様に慄然としよう。全体主義運動の参加者は自分の命や価値を軽く見るように(なのでシャートフに子供が生まれたことに無関心)、他人の生命を軽く見て、棄損することを躊躇しない。五人組も計画の直前まではただの市民であったのだから、組織や集団の命令を深く自分で考えることをしないで、指示のまま殺人を犯す。彼らはナチスの強制収容所の運営を取り仕切ったアイヒマン同様に、凡庸な人間が愚劣なまま敵を殲滅する「最終計画」を行ったのだ。)
(ここでドスト氏は書き方を変える。これまでは執拗にキャラの内面に入り、彼の内話をテキストに起こしていたのだが、いっさいなくなる。まるでハードボイルドのように行動と発話だけで起きていることが書かれる。シャートフがピストルを突き付けられ一瞬ピョートルの顔を認めたときに感じたことはわからない。ピョートルがピストルの引き金を引くときの感情も書かれない。五人組は事態に狼狽し動転するが、何を考えているかはわからない。ヴィルギンスキーは「それは違う」と繰り返すのが聞こえるだけ。人間や神の掟を「踏み越え」るときに、人は感情や理性を失いテキスト化できる言葉を失う。そういえば「罪と罰」でもラスコーリニコフの犯行やスヴィドリガイロフの自殺でも同じ文体になった。)
(通常、全体主義運動のテロルでは計画をたてるものと実行するものは別なのであるが、ピョートルは計画を立案し実行する。めずらしい例のように思えたが、計画はスタヴローギンの使嗾で開始され、ピョートルは細部を詰めただけのようだ。実行するきっかけになったのもシャートフが公衆の面前でスタヴローギンをげんこつで殴ったことに起因している。ピョートルはスタヴローギンは首領となって、「幾百の五人組」に命令することを望んでいる。そうすると、ピョートルはスタヴローギンの操り人形であるのだろう。)
別れる直前に、リプーチンは「五人組は世界に一つなのか、幾百の五人組があるのか」とピョートルに問う。「そんなことはどうでもいい」とピョートルに返事され、闇の中に消える。
(「闇の中」という言葉に、彼もまたシャートフの行った先に行くのかもしれないという暗示がある。リプーチンも「党派観念」に取り憑かれていた。)
2015/07/22 笠井潔「テロルの現象学」(ちくま学芸文庫)-3
ピョートルは深夜になってキリーロフを訪れる。口をつけていない食事を見つけたピョートルはむしゃぶりつく。
(「今晩自殺する」と考える人が口にしない食事を代わりに食べるピョートルのなんといやしいか。他人の尊厳に無関心であることの異常性。)
(このあと、「シャートフを殺した」と書かせたいピョートルと書きたくないキリーロフのピストルを向け合ったせめぎ合いがあったり、キリーロフが夢中になって人神論を説いたり、ピョートルが遺書を口述させたり、小部屋にこもったキリーロフがいつやるのかをピョートルが焦燥しながらまったり、確認にいったらキリーロフに小指を思いっきりかまれたりするシーンがあるがサマリーからは割愛。「悪霊」の解説書には必ず書かれるシーンだし、アンジェイ・ワイダの映画「悪霊」1988年に克明に映像化されているのでそれをみればいい。おれからすると、どうしてもラスコーリニコフの犯行シーンの二番煎じの観がしてしまうのだ。でもキリーロフのこのセリフは引用しよう。)
「この人(明示していないがイエスとわかる)は地上に置ける最高の人間で、この大地の存在の目的をなすほどの人だった。全地球が、その上のいっさいを含めて、この人なしには、狂気そのものでしかないほどだった。あとにも先にも、これほどの人物はついに現れなかったし、奇蹟と言えるほどだった。このような人がそれまでにも現われなかったし、今後も現われないだろうという点が、奇蹟だったのだ。ところで、もしそうなら、つまり自然の法則がこの人にさえ憐れみをかけず、自身の生み出した奇蹟をさえいつくしむことなく、この人をも虚偽のうちに生き、虚偽のうちに死なしめたとするなら、当然、全地球が虚偽であって、虚偽の上に、愚かな嘲笑の上にこそ成り立っているということになる。つまりは、この地球の法則そのものが虚偽であり、悪魔の茶番劇だということになる。なんのために生きるのか、きみが人間であるなら、答えてみたまえ」(P531-532)
なるほど「カラマーゾフの兄弟」の大審問物語は、キリーロフの問いに答えるものだったのか。「地上に置ける最高の人間」である「この人」がそうであることを見抜けない、見抜いたとしても虚偽である全地球をそのままにしておきたい欲望が強かったときにどうなるかを考えてみたのだろう。とはいえ、シャートフに生まれた子が「地上に置ける最高の人間」になりうる可能性に思いをいたらせないのであれば、キリーロフもピョートルも虚偽で「悪魔の茶番劇」を生きていることになりそうだ。
ピョートルは
「キリーロフは「仕方なしの神」となって自殺し、この風通しのわるい鬱陶しい男の死骸は、通風口に頭を向けて横たわることになる(堀田善衛「若き日の詩人たちの肖像 下」集英社文庫P104)」
のを見届け、ピョートルは逐電する。見送ったのはピョートルに心酔するエルケリひとり。
なお、スタヴローギンはこの時期行方をくらましている。
自殺の原因には、貧困、病苦、強制・強要、逃避など様々な理由があるが、ここでは懲罰の場合だけを取り上げる。というのは、「罪と罰」でラスコーリニコフは人間や神の掟を踏み越えた罰として自白・自殺・狂気を考えていたから(売春のような「呪われた罪」から逃れるにも自殺・狂気・快楽をあげていた。「地下室の手記」の語り手もそう)。ラスコーリニコフは自殺を考慮にいれたこともないので、小説では検討されていなかった。スヴィドリガイロフが「アメリカに行く」といってピストルを使ったが、何を検討したのかは書かれなかった。その代りがこの「悪霊」にある。
自殺を正当化するために、キリーロフはとても極端な思想を作り上げる。ドスト氏はそこまでしても、自殺を美化することはできなかったのではないかな。スヴィドリガイロフにしろキリーロフにしろ、強者が自己懲罰の末に行う自殺は陰惨ではあるが、どこか滑稽にみえるのだ。そこまで思想を積み上げても、苦悩が募っていても、その行為はどこかばかばかしくて、その無意味さに空虚な笑いをあげてしまうような。ドスト氏の筆もトンチンカンなドタバタを加えていて、キリーロフを相対化しているようだ。
タイトル「悪霊」は第3部第7章でステパン氏が聖書売りのソフィヤに読んでもらったように、ルカ福音書に基づいている。該当部分の全文はリンク先。「レギオン」の名とともに有名な節だ。
さて、ピョートルやキリーロフが取り憑かれた観念は悪霊やレギオンのように外部から来たのであろうか。聖者やメンターによる説教や悪魔祓いで追い出すことが可能であろうか。そうではない、と思う。思想やイデオロギーを受け入れる前に、他人の言葉を聞いて「真実に目覚めた」という体験があるのだ。他人のことばの内容と自分の感情やルサンチマンなどが合致して、他人への攻撃をするようになる。これは前のエントリーで紹介した全体主義運動と合致するし、最近では下記のテロリズム研究にもあう。
注意しておきたいのは、全体主義運動参加者は洗脳されているわけではない。なので、脱洗脳のプログラムは不要だろう。彼らは、全体主義運動が挫折したときに、ようやく運動から離脱する。自分が逮捕されたり、リーダーが不在になったり、運動全体が外部の力で消滅させられたりして、そこでようやくイデオロギーが抜けるのだ。暴力や説教ではイデオロギーから抜けることはできない。暴力や説教はときに殉教者をだしてしまうし、元の組織や集団に戻ると回復してしまうのだ。
ドスト氏は1871年というとても早い時期に全体主義運動を正確に把握していたが、原因と対策には不備があった。ドスト氏はおそらく異端宗教をモデルにして考えていた。そこから「悪霊」付き、悪魔付き、全体主義運動とずれが生じてしまったのだ。
(シャートフとピョートルはいがみ合いの末にスパイリンチ事件になったのだが、二人の間の差異はどの程度のものか、と言うと大きな違いはないようにみえる。政府や権力を転覆するという欲望については同じであり、イデオロギーの扇動によって大衆を動員するという手法も似ているのだ。秘密結社か労働組合のいずれを取るかはさして重要な選択ではない。それは「敵」の権力がどの程度の弾圧をするかで決まるくらいなのだ(ペテルブルグの公安警察が監視しているから、ピョートルら「五人組」は地下に潜んだに過ぎない。国家奪取の際に、シャートフは民族を中心にし、ピョートルは資本を中心においた。近代国家が、国家=資本=ネーションの絡み合いでできているとき、どこを結集軸にするかの些細な違いでしかない。ラスコーリニコフが計画した一割の新しい人間が残りを支配するという仕組みは、二人とも共有していた。)
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2024/10/24 フョードル・ドストエフスキー「悪霊 下」(新潮文庫)第3部7.8 ステパン氏とスタヴローギンの終わり、そして誰もいなくなった 1871年に続く