2024/10/29 フョードル・ドストエフスキー「悪霊 下」(新潮文庫)第3部3.4 火事を見た人たちは血を欲し、会議は踊り決定には逆らえない。 1871年の続き
「悪霊」は「数あるド氏の作品のなかでも、その深刻さにおいて、深刻度最高ということになってい(堀田善衛「若き日の詩人たちの肖像 下」集英社文庫、以下同じ)」るのであるが、この章は「ド氏にあってはその深刻度最高、思想的にも深度最高最深の場面が、読んでいてまことに爆笑を誘うほどのユーモアをともなって描かれていた」ところでもある。さらに、堀田氏は「深刻一方な大方のドストエフスキー研究者というものも、余裕のない田舎者に見えた」とも言っている。「田舎者」(堀田氏は漱石や鴎外の小説を田舎者の文学と言っている)の読み方にならないように注意して、堀田氏の指摘を踏まえながら読んでいこう。堀田善衛の「悪霊」の引用は戦前にでた米川正夫訳。今回読んでいる江川卓訳とは異なる。
第5章 旅の女 ・・・ リーザへの暴行やマリヤの死を知って、シャートフは意気消沈している。深夜(すでに午前)に突然、旅の女が部屋に転がり込んできた。25~6歳の疲れた女はマリヤ・シャートワで、元妻。妊娠してこの町に就職しようとやってきたのだ。そこに五人組の若僧エルケリが来て、明日午後7時に印刷機を受け取る」と呼び出しに来て、スタヴローギンが逃亡したことを伝える。妻マリヤは産気づいてしまう。
「本当に神をもたなくなった悪魔のスタヴローギンの親友で、同時に敵でもあるスラヴ主義者のシャートフの、その細君が、三年ぶりで外国から夫のもとへ戻って来る。しかもこの細君はスタヴローギンの子を孕んでいていまにも産れそうである。ところがこの細君も夫のシャートフも一文なしで、お産の用意どころか、金ダライさえもありはしない。あわてたシャートフはキリーロフの部屋へ金ダライを借りに行く。ところでこのキリーロブなる人物は、神を否定した人間が神たるためには、自殺によって人間を克服し、新たな自由を人間に示さなければならぬ、という思想の持ち主である。
『キリーロフ君、家内がお産をしてるんだ!』
『といふと、何のこと?』
『お産をしてるんだ、子供を産んでるんだ!』
『君……思違ひぢやない?』
『いや、さうぢやない、陣痛が始まってるんだ……』
『どうもたいへん気の毒だが、僕はお産をすることが下手でね』
深夜、若者はもうひとりで、それこそ腹をかかえて笑っていた。(略)これを笑わないでいられるものではない。男であるキリーロフ、自殺=入神主義の思想家であるキリーロフがお産をすることが下手であるとは!」(堀田善衛、前掲書P102-103)
どうにか借りることができたシャートフは今度は産婆を手配し小金を都合付けるためにピストルをもって、ヴィルギンスキーとリャムシンの家を廻る。時刻は午前3時過ぎか、どの家も寝静まっているのに、シャートフはかまわずドアをたたき、開けろとわめく。まじめで潔癖で純真と称される男が動転している様子のおかしなこと。
「つづいて二度目にシャートフが今度は枕を借りにとび込んで行くと、キリーロフ先生が言うのである。
『枕か、持って行きたまへ。それから、何だね?ああ……ちょっと待ち給へ、シャートフ君、君はときどき永久調和の瞬間を経験することがあるかね?』
キリーロフとの長年の友人であるシャートフ君でなかったら、細君のお産用の枕を借りに行くという危急の際に、徹底して悠遠な「永久調和」の論や、おまけに、
『まるで、とつぜん全宇宙を直感して『然り、そは正し』といったやうな心持なんだ。……自的が達しられた以上、子供など何になる、福音書にもいってあるぢやないか、復活の日には人々生むことをせずして、良く天使の如くなるべしって。君の細君は産んでるんだね?』
なんぞというハナシを聞かされたら、大抵の人は怒り出してしまうだろう。しかもこの日の次の夜、シャートフは秘密の『仲間』一党によって殺害され、キリーロフは「仕方なしの神」となって自殺し、この風通しのわるい鬱陶しい男の死骸は、通風口に頭を向けて横たわることになるのだ。(略)このシーンは、『悪霊』のなかでも深度最高に近い思想的場面なのであったが、そこがかくも見事にトンチンカンなユーモアを湛えているのだ。」(堀田善衛、前掲書P103-104)
キリーロフは「永久調和の訪れ」「地上の姿の人間には耐えられない(略)五秒間」「この五秒間のためになら、ぼくの全人生を投げ出しても惜しくはない」「十秒間もちこたえるためには、肉体的な変化が必要だ」という。この意味付けはあまり興味がないなあ。せいぜいラスコーリニコフが考える「新しい人間」の在り方を予言しているとか、このあと西洋で流行る市民社会行き詰まりから脱却する超人の思想を先駆しているのだろうとか、シャートフのいうように癲癇の症状なのだろうとかくらい。
マリヤの陣痛は激しくなって、「生きたい、死ぬのは恐い」といいだす。産婆であるヴィルギンスキーの妻が介護して出産にいたる。動物的な叫び声が聞こえ「小さな赤いしわだらけのもの」が「泣き叫んで自分の存在を告げ知らしている」のだ。それを見たシャートフは「なんてかわいい」と讃嘆し、「新しい生の出現の神秘」を感じるのである。
(自己懲罰的なところがあるシャートフが生の誕生に喜ぶ姿は、キリーロフの「永久調和の訪れ」と対比されている。キリーロフも数日に一回訪れる「永久調和の訪れ」「五秒間」を「すさまじいばかり明晰で、素晴らしい喜び」という。その五秒間と、赤ちゃんの存在の喜びは同等なのだろうか。神秘は超越的な瞬間や観念にはなく、日常の繰りかえしや存在そのものにこそあるのだね。そしてマリヤとの和解と子の授かりがあったシャートフは産婆のヴィルギンスキーから「今夜のあなたくらい滑稽な人は見たこともない」とからかわれるほど、幸福なのである。)
明け方に眠り込んだシャートフはエルケリに起こされ、指定の場所にむかう。「あなたは幸福そう」とエルケリに不審がられるほどに生を楽しんでいた。
(シャートフが浮かれている最後の数行があるために、「会」による陰謀で何が行われるか知っている読者は彼に起こることを予想して、りつ然とするのである。ドスト氏の見事な技術。)
シャートフとキリーロフの対比は、もちろんこの章を読んで「トンチンカンなユーモア」を楽しむ読者と「深刻一方な大方のドストエフスキー研究者というもの」の間にもあるのだ。
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2024/10/25 フョードル・ドストエフスキー「悪霊 下」(新潮文庫)第3部6 取り憑かれた人々の「労多き一夜」。凡庸な人間が愚劣なまま敵を殲滅する「最終計画」を行う。 1871年に続く