「白痴」を二週間かけて読んだので、答え合わせのように読み達者のエッセイを読む。評論や研究は元の作品を読んでから参照するのがよい。元の作品を読み直すのは、評論や研究をいったん忘れてから。
1 「美しい人」の屍 ・・・ 小説全編が死にまつわるエピソードに満ちている。たとえば、ロゴージンに家にあるホルバインの「キリストの屍」の複製絵。ロゴージンを形容する「死人のよう」、ナスターシャは(性の地獄から)清らかなまま復活したもの、トーツキイにはドイツ語の「Tod(死)」が隠されていて、地獄の支配者で死神の役割。たくさんの死者がでる。ムイシュキンは不能であることが暗示されている。「本当に美しい人」の運命はどうなるか。
2 驢馬と「哀れな騎士」 ・・・ ムイシュキンは驢馬好き。イエスも驢馬に乗っていた。また驢馬は繁殖旺盛で大きな性器をもっているので、不能のムイシュキンを揶揄してもいる。「哀れな騎士」はプーシキンの詩で、「白痴」と同じ終わり方をしている。タイトルからドン・キホーテを連想させる。
3 黒馬と緑の衣 ・・・ ドスト氏は黙示録好き。「白痴」でも数回言及している。なかでもレーベジェフがナスターシャに話した時が強烈。ナスターシャは10万ルーブルでロゴージンのものになり、トーツキイの地獄から逃れたが、地獄に戻れとレーベジェフは暗示したのだった。黙示録にでてくる黒馬は秤を持った騎士を載せている。黙示の際に人の魂を量るのであるが、ここでは物質文明(おれはヨーロッパと思うが)の貨幣と契約を意味している。黒に対抗するのが、聖母の衣の色である緑。とくにムイシュキンとアグラーヤが逢引する緑色のベンチが印象的。
(ロシアでは緑は聖母の衣の色。ヨーロッパでは緑は不吉な徴。文化圏で色の象徴は異なるようだ。)
4 白痴と狂人 ・・・ 「白痴(idiot)」のムイシュキンが来たことで、ナスターシャ、ロゴージン、アグラーヤは精神に変調をきたして「狂人」と呼ばれるようなふるまいをし、全員が悲劇的な結末に至る。(著者は原因を彼らが二人を同時に愛することの不可能性に見ている。俺は嫉妬とみたのだがなあ。)
5 生命の源泉と死の源泉 ・・・ 死期を知っているイポリート。彼は悪魔学に興味を持っているが、議論は途中で中断され、続きは「大審問官」で行われる。
6 「復活のナスターシヤ」 ・・・ ナスターシャには鞭身派の、ロゴージンには去勢派であるらしいイメージがつけられている。ナスターシャはさまざまな人に「気が狂っている」とみられているが、去勢派の巫女からの連想かも。ムイシュキンはロシア人の信仰に深い関心を持っている。
7 世界を救うのは「美」… ・・・ エパンチン家の三姉妹はギリシャ神話の三美神。貞節、愛、美の象徴で、アグラーヤは美にあたる。でも、美はムイシュキンが写真を見ただけで愛するようになったナスターシャのほう。このエピソードはナスターシャの写真を聖像画にして、ナスターシャをマグダラのマリアになぞらえているよう。ムイシュキンは嫉妬しない異常性格の持ち主。
8 ドン・キホーテの再来 ・・・ ムイシュキンはドン・キホーテになぞらえられている。アグラーヤは「哀れな騎士(プーシキン)」だと揶揄する。
9 病める獅子の放浪 ・・・ ムイシュキンは病める獅子に例えられる。彼は死刑、自殺、さまざまな死を見聞きし、語る。他のキャラも死の象徴を掲げている。
10 ロゴージンの謎 ・・・ ロゴージンはナスターシャと一緒にいても、トランプ遊びをしている。どうやら彼は心因性の不能であるらしい。ナスターシャはトーツキイの凌辱によって「男なしではいられない身体」になっているのに、ロゴージンは応えらえない。そこでナスターシャはロゴージンを辱め、ロゴージンはナスターシャに恐怖を感じている。
11 悲劇の重奏 ・・・ 「白痴」は悲劇的な結末を迎える。主要キャラは殺されたり、病死したり、気が狂ったり、懲役刑になったり、ロシアを離れてしまったり。でも、「不思議と明るい心やすい読後感」になる。
(ムイシュキンを「美しい人間」とみると、彼に深くかかわった人たちが不幸になる理由をとらえそこねるのではないかしら。ムイシュキンを「美しい人間」とするために、ロゴージンやナスターシャらが不幸になるのもかまわないとみると、不幸になった人たちを社会が幸福になるための手段で犠牲者としてしまう。読者は「不思議と明るい心やすい読後感」をもてるけど、それは不幸になった人たちを踏みつけているから。)
著者はこれまで二冊のドストエフスキー謎とき本を書いていたが、「白痴」では息切れがしたのかしら。小説の長い引用で文章を埋めることが多く、一方勉強で参照した本の話は少ない。語源やロシア正教にまつわる発見も少ない。なので、前の二冊とはちがって拍子抜け。
本書では「白痴」の象徴界(@亀山郁夫)をほとんど問題にしない。そこが小説をとらえそこねた原因になったとおもう。ドスト氏も、死の話を深めることがなかったし、宗教に絡めた議論もさせなかったし。そうすると、キャラを研究することになるが、恋愛や三角・四角関係や嫉妬などを突っ込まないので、物足りなさが残るだけだった。
(追記: 順番が後先になったが、江川卓「ドストエフスキー」岩波新書1984を読むと、本書で指摘したことは先に出した新書と同じ。その先に追加したアイデアはほとんどなかった。どうしちゃったのかなあ。)
江川卓「謎とき『白痴』」(新潮社)→ https://amzn.to/4dt88SM
フョードル・ドストエフスキー「白痴」(新潮文庫)→ https://amzn.to/46Dhfyg https://amzn.to/3Adf20e
(光文社古典新訳文庫)→ https://amzn.to/3Ag4Gwz
https://amzn.to/46yKi5Q https://amzn.to/3SCka4c https://amzn.to/3T0Kup9
(河出文庫)→ https://amzn.to/3SE0tJg https://amzn.to/3YxpkSM https://amzn.to/3SC1stA
(岩波文庫)→ https://amzn.to/3yfXqjO https://amzn.to/3SFNffk