odd_hatchの読書ノート

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フョードル・ドストエフスキー「白痴 下」(新潮文庫)第4編8-12 欲望を持たない天使人間は人間を理解しようと人間世界に入ると、多くの人を傷つける。

2024/11/22 フョードル・ドストエフスキー「白痴 下」(新潮文庫)第4編1-7 女好き、神がかり、金儲けの欲望を持たない天使人間が結婚することになり、世界が混乱する。 1868年の続き

 

 天使人間が人間を理解しようとして人間の関係の中に入っていくと、誰を選ぶのか誰の利害にかかわるのか彼は選択を迫られる。彼は誰かを選ぶことはできない。欲望がないのだから、誰か特定の人の利益や幸福になることはないのだ。それなのに、選択を迫る人は天使人間の顔越しに自分の嫉妬や憎悪を見つけてしまう。それは自分が認識していない感情なので人はムイシュキンをみて驚愕する。
 天使のささやきによる危機から逃れらるのは15歳の少年コーリャくらい。この聡明で大人びた少年はムイシュキンを「疑い深い人」で「嫉妬深い人」とみなす(第2編11章)。俺はコーリャの見立ては間違っていると思うが、ともあれコーリャはムイシュキンと用心深いつきあいをし、彼を利用する術に長けていた。なので、コーリャはムイシュキンに影響されない。

8 ・・・ 発作を起こしてからムイシュキンは体調がすぐれない。アグラーヤから伝言が来て一日外に出ないように、後で迎えにいくという。イポリートが最後の挨拶だと訪ねてきて、アグラーヤはガブリーラと交渉がある、今晩アグラーヤとナスターシャがあうことになっていると伝える。夜アグラーヤがムイシュキンを連れだし、ナスターシャの家に行く。そこにはロゴージンもいた。アグラーヤはナスターシャに憎悪をぶつける。それを聞いていたナスターシャも対抗する(二人がいいたいのは、相手がムイシュキンを愛しているのにそれを隠していて、私に憎しみをぶつけているということだ)。ついにナスターシャは「あんたが望むなら『ロゴージンでていけ』といって、この人と一緒になる」といい、ムイシュキンがどちらかを選べと迫る。その緊張に耐えられないアグラーヤが部屋を飛び出した。ナスターシャは「わたしのものよ」とわめき、「ロゴージン出ていけ」と叫ぶ。
(嫉妬する三人の地上の人間と、嫉妬の感情を持たない天使人間。選択を迫っても天使人間ムイシュキンはただ突っ立ってとまどうだけ。アグラーヤは自分の憎悪の激しさに驚いて逃げるし、ナスターシャは辱めを受けて自己評価が低い不幸な女と思っていたのが他人に屈辱を与える力を持っていることに狂乱の態になり、ロゴージンは二人の女がいずれも自分のことを思っていたことがないことに気づいて自分に絶望する。ムイシュキンは「純情、善良(イヴォルギン将軍評)」「子供、誠意(イポリート評)」なのに、そのせいで人を傷つける。傷つけた理由が自分にあることを理解していない。みなが幸福になればいいのにという戦略は嫉妬の渦のなかでは通用しない。)
(嫉妬から逃れるには「会わない」ことしかない。ムイシュキン自身が他の三人から離れていればよかったのに。天使人間はどこにでも行けるから、三人から離れることはできないのだが。あるいはこの四人を会わせないようにする大人がいればこのようにはならなかったものを。)

9 ・・・ それから二週間後。7と8章のできごとは村中のうわさになっていて、ムイシュキンの気まぐれとされた。事件後エパンチン家はムイシュキンと絶交。アグラーヤに会おうとしても、ムイシュキンを家に入れない。アグラーヤも病気になったり気分が急転換するので家族はみな引き払ってしまった。ムイシュキンをラドムスキーが訪問し、ムイシュキンをなじる。ムイシュキンが二人を愛しているのだというのにあきれる。ムイシュキンはナスターシャの顔を見るのが怖いといいだす(小説の冒頭でナスターシャの写真をみて心打たれたのがここまで変わる)。
ラドムスキーがムイシュキンをなじるのはアグラーヤとの結婚を考えているため。この章のムイシュキンの狼狽ぶりもエパンチン家に報告されるのだろう。それにあたり、ラドムスキーはムイシュキンをツルゲーネフ「父と子」のニヒリスト、デモクラート、婦人解放論者であるとする。1860年代のロシアではこれらは反政府主義、反キリスト教であると思われていた。ラドムスキーはムイシュキンにネガティブイメージを意図的につける。)

10 ・・・ ムイシュキンは町の人たちから奇異な目で見られるようになった。ナスターシャとの結婚式が近づいているが、ナスターシャは落ち着かないし怯えている。イポリートが警告したようにロゴージンがナスターシャの周りをうろついているのだった。結婚式当日。教会に向かう馬車にナスターシャが乗ろうとしたときに、ロゴージンがナスターシャを拉致し、ペテルブルク行きの汽車にのってどこかに行ってしまった。
(ムイシュキンは花嫁がいない花婿になるというまぬけをさらしてしまう。9章のころからムイシュキンは放心したり、考え事をずっとするようになり、病状が悪化していると思われている。この結婚式の前にはイヴォルギン将軍の葬儀が行われている。婚と葬はドスト氏の小説では不吉なできごとで、厳粛とどたばたが同時に起こる現場。)

11 ・・・ 翌日、ムイシュキンはペテルブルクのロゴージンの家を訪ねる。部屋の窓は閉ざされ、ロゴージンもナスターシャもいないと返事された。ムイシュキンは町中を駆け回って二人を探したが、行方は知れない。白夜の夜にでると街角でロゴージンが接触してきて、家に行こう、ナスターシャがいるといってきた。ろうそくもつけない真っ暗な部屋。なにかが寝ている寝台。ムイシュキン「君がやったのかい、あのナイフ(第2編5章でムイシュキンを襲った時に使ったもの)で」。ロゴージンはふたりでずっといっしょにいようといって座り続ける。次第にロゴージンは訳が分からないことを言って昏倒する。人々が部屋に押し入ったとき、ロゴージンの手を握るムイシュキンを見つけた。すでにムイシュキンの意識はそこにはなかった。
(ロゴージンもあのナイフを使ったときに、「一瞬が至高の調和」「時を超越する」「祈りの気持ちに似た法悦」を感じただろうか。少なくとも今後15年は忘れられない瞬間を覚えることになった。痴情のすえに愛人を殺すことは起こるのであるが、たいていのばあい、死体は隠そうとする。見えないようにする。それは死体があることは自分の行為を思い出させるから。無言ではあるがその身体はつねに殺人者を告発する。その恐怖から逃れるために、たいていの殺人者は死体を隠す。捨てる。損壊する。でもロゴージンは死体とともにあろうとする。ムイシュキンを連れてきたのは、この恐怖を紛らわすためか。それともムイシュキンを共犯者に仕立て上げて責任を分割するためか。いずれにしろムイシュキンも死体を見ることは厳しい試練であり、彼の症状は一気に進み、現実と幻の境がわからなくなるのである。)

12 ・・・ ロゴージンは脳炎から回復すると裁判にかけられ15年の懲役になった。ロゴージンはずっと無口で受け入れた(彼を追いかける女性はいない。ラスコーリニコフにもドミトリーとも違う)。アグラーヤはあるポーランドの伯爵と電撃結婚カソリックポーランド人はロシアでは差別の対象)。ムイシュキンはコーリャとラドムスキーの手配でかつて入院していたスイスのサナトリウムに収容される。アグラーヤを除くエパンチン家の人々はしばらくサナトリウムに滞留してムイシュキンを見舞った。
(現実と幻の区別がつかなくなったムイシュキンは人間世界から離れて、善悪の彼岸にある天使にもどったのだ。)

 

 ロゴージンの加虐と被虐の同居は、「地下室の手記」の語りが参考になりそうだ。第1部3と4が良く分析している。自分のまとめを再録。

自意識過剰が自分の意見を主張しようとすると、侮辱に対する復讐心だけ。悪意に身を浸し、虚構で「己をからかい苛立せ」、みみっちいことを匿名でこそこそ隠れた場で行う。その熱病状態を快楽と思い込むのだ。自分の周りにはどぶ水やぬかるみがたまっている。自意識過剰な人間は壁にぶち当たってようやく止まる。壁とは不可能であり、自然法則・数学である。不可能は2+2=4は真理であると命じるが、それが不快でならない。/このような自意識過剰な人間は苦しむことが快楽になる。自分のなぐさめに自分を傷つけようとする。でもやっていることは自分と同じように苦しんでいない他人を攻撃し傷つけること。自意識過剰なものは自分を尊敬できない。
フョードル・ドストエフスキー地下室の手記」(光文社古典新訳文庫)-1 19世紀のネトウヨ分析

 ロゴージンは会話が苦手で、エパンチン家のサロンなどでは人の話を聞いているだけ。でも内心ではこのようなモノローグを延々と連ねていたのかもしれない。なにしろ征服したいが馬鹿にしてくるナスターシャと同居するのは、屈辱であり苦痛であり、他人を傷つけることなのだ。「地下室の手記」の語り手は、娼婦を小ばかにして挙句の果てにレイプした。ロゴージンも思考がどん詰まりになり、感情が爆発した時、同じようにレイプを試みたのかもしれない。あいにく彼の男根は勃起しないので、いつも勃起しているナイフを代わりに突き立てたのだ。

 

 人間のルールや掟を知らないものがやってくる。彼の言動には悪意はない。しかし、彼の言動は周囲の人を困惑させる。なかには愛する人もいれば、憎む人もいる。でも異邦人はその感情を共有しないし、理解もできない。つねに友好であろうとする。すれ違いが増えるごとに、彼はやっかいものになってしまう。ときに人間の問題を解決することがあっても、それよりも困惑や反発のほうが大きい。いつまでたっても人間は異邦人の存在になれることはできない。すれ違いが臨界点を超えれば、異邦人は人間世界から追い出される(もしくは殺される)。
(異邦人の追放といっしょに、強欲に取り憑かれた人々も処罰される。主人公4人(ムイシュキン、ロゴージン、ナスターシャ、アグラーヤ)はいずれも幸福や利益から離されてしまった。欲望は行き場を失い、自分を傷つけてしまった。それを見ると、人間は悲しいなあと人間は馬鹿だなあという感想しかでてこない。)
 「白痴」はそういう物語と読んだ。ドスト氏は「完全に(または無条件に)美しい人間」を書きたいのが創作のモチーフだといっている。ムイシュキンを美しい人間にみせるのは、ウソをつかず、誰にでも共感する姿勢があるというところからだろう。でもムイシュキンが他の人間と異なるのはそのような表層にあるのではない。すでに指摘済のように、ムイシュキンは人間らしい欲望がないから、「美しい人間」のように見えるのだ。自分の利益や幸福を最大化したい気持ちはない。共感する人々を集めて共同体をつくる気持ちもない。見栄や肩書を増やして他人を支配したい気持ちもない。だからロシアの上流階級の人々を困惑させる。それだけ。こんな人間は存在しないので、ムイシュキンをどう分析してもなにもでてこない。
 前作「罪と罰」との関係をみると、ラスコーリニコフは人間と神の掟を踏み越えるために、自分の欲望を制限して「新しい人間」になろうとした。その試みは二か月程度で挫折してしまった。地上の重力にとらわれている人間は欲望を消滅することはできないのだ。なので、ドスト氏は次作の「白痴」ですでに欲望から解放されている人間を想像してみた。彼は善量で誠意を持っていて公平であるが、欲望の世界の中に入ってしまうと、かえって人間の欲望を解放させ、嫉妬と憎悪に満ちた世界に変えてしまった。努力して「新しい人間」に変身することも、欲望から解放されることも、世界を救済する手段にならなかった。どうすれば世界を変えることができるのか。ドスト氏は考える。個人が生まれ変わるのではだめなら、集団が変わればよいのではないか。その構想は次作「悪霊」で社会主義集団と、最後の作の「カラマーゾフの兄弟」のキリスト教友愛団体で検討される。

 

〈追記〉
 ドスト氏はムイシュキン公爵のまえに、「完全に(または無条件に)美しい人間」を書いてしまった。どこからも文句のつけようがないくらいに「完全に(または無条件に)美しい人間」だったので、そのキャラを超えることができなかった。すなわち、「罪と罰」のソーニャ。その「美しさ」に犯罪者のラスコーリニコフもひれ伏す。
 ムイシュキン公爵とソーニャの違いは、他者のために自己犠牲ができるかどうかと、この世の地獄を体験したかどうかにある。ムイシュキン公爵はどちらもなかった。どころか、二人の婚約希望者がいてどちらを選ぶかという選択ができる立場にあった。すでにこの社会で高い下駄をはかされ、ガラスの天井に守られている男のムイシュキン公爵は「美しく」はなれない。

 

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