odd_hatchの読書ノート

エントリーは3200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2024/11/5

フョードル・ドストエフスキー「白痴 上」(新潮文庫)第1編1-5 女好き・神がかり・金儲けの欲望を持たない天使人間が汽車にのってペテルブルクにやってくる。

 前作「罪と罰」では、神を超える人間になろうとするラスコーリニコフを描いた。神を超えるために、ラスコーリニコフは女好き、神がかり、金儲け(修道僧ラキーチンがカラマーゾフ家を評したことば)の欲望を自らに禁止した。でもラスコーリニコフの試みは失敗した。そこでドスト氏は、あらかじめこれらの欲望を持たない人間がいたらどうなるだろうと考えた。そこで生まれたキャラがレフ・ムイシュキン公爵
 このエントリーの下に堀田善衛の感想を引用したが、ムイシュキンは天使人間または人間天使。欲望を持たない人間は社会に存在しないから、彼は外国・外部・異界からやってくることになる。欲望だらけの人間とはコミュニケーションが取れないから、彼の存在は浮きまくる。人は彼を理解しようとして挫折し困惑して、結局は自分自身の醜さを知らされるのかもしれない。そのような天使人間が地上に降り立った半年を描く。

1 ・・・ プロシャからペテルブルグに向かう汽車。車中に3人が同席している。スイスのサナトリウムで4年間療養していた文無しのムイシュキン公爵とがっちりした体格のパルフォン・ロゴージン。互いに感心を持つようになると、あばたずらの役人レーベジョフが口をはさむ。ロゴージンには最近親の遺産が転がり込み、親の金を横領してダイヤの指輪をナターシャ・フィリポヴナにプレゼントしたが、無視されたのでよりを戻したいのだと。汽車が停車すると、ロゴージンはレーベジョフを手下にし、ムイシュキンにいずれ会おうとあいさつする。
(ドスト氏の小説は本筋が始まるまでが長いのだが、「白痴」はすっきりと始まる。ムイシュキンは癲癇持ち、ロゴージンは好色であぶく銭がある。ドスト氏のテーマである女好き、神がかり、金儲け(「カラマーゾフの兄弟」のラキーチンの発言)がもう提示されている。)

2 ・・・ ムイシュキンはエパンチン将軍(56歳)の屋敷に向かう。将軍には3人の娘(アレクサンドラ25歳、アデライーダ23歳、アグラーヤ20歳)がいる。教育を受けていて、才能を発揮。秘書はガヴリーラ・アルダリオノヴィチ(28歳)。「おばかさん」のムイシュキンは初見でも他人に好かれるのだが、取次の召使は疑い深い(二人のらちの開かない会話は笑える)。話の接ぎ穂で、ムイシュキンはリオンでギロチン処刑を見物し、希望を確実に奪い取り絶対に逃れられない死刑はむごたらしい苦しみだという。

3 ・・・ エパンチン将軍が登場。将軍の妻がムイシュキン侯爵家の出なのであいさつをしてかえろうとしたが、ムイシュキンの笑顔があまりに純なのでひきとめる。特技は筆写というムイシュキンが書いた書類のできに感嘆する(日本の書道のような技能があったんだね)。そこにガブリーラがナスターシャの写真を持ってきたので、彼女を知っているというと将軍とガブリーラはおどろく。ムイシュキンが気に入った将軍はガブリーラの家に下宿するよう勧めた(秘書からするとほぼ命令)。
(好色な人たちによる結婚の画策が進行している。ガブリーラはナスターシャと結婚したがっていてアプローチしているがはかばかしくない。将軍は長女のアレクサンドラをエパンチン将軍と金融事業を共同経営しているアファナーシィ(55歳)に嫁がせようとしている。そのアファナーシィ(トーツキイ)は過去のナスターシャを強姦したことがあり、征服したと思いきや突然男に威圧的に変貌してしまった。このもつれた関係に、ロゴージンがナスターシャに興味を持っていて、後日ナスターシャは「おばかさん」のムイシュキンに興味を持ち出すようになった。それぞれの思惑はごしゃごしゃになり、男たちはうわべはニコニコしながら角突き合わせることになる。ムイシュキン一人を除いて。)

4 ・・・ 前史。ナスターシャの父は火事を起こして全財産を失い発狂して死んでしまった。残された娘をトーツキイが預かり田舎の別荘で育てる。日々美しくなるナスターシャ。あるときトーツキイは彼女を凌辱する(と直接的に書かれていないが、前後の婉曲表現からわかる)。そこからナスターシャは強い自己主張をする自尊心を持つ女性に変貌。トーツキイはナスターシャを恐れ、結婚するのあきらめ、エパンチン将軍の長女に目を付けた。エパンチン将軍は金がないわけではないが、娘三人の結婚に持参金を持たせるのは至難の業。三女アグラーヤが絶世の美女なので、持参金をつけて名家に嫁がせたいのだった。ガブリーラがナスターシャと結婚したいというのは噂で知っていたが、彼のDV体質も聞こえてきたので、ナスターシャは理由をつけて遠ざけていた。
(好色と金儲けしか頭のない男たち。こういう男ばかりで社会を作ると、万人の幸福のために弱いものを犠牲にして恥じないのだろう。)

5 ・・・ 朝食の時間(といっても10時すぎか)になったので、将軍は夫人と娘たちにムイシュキンを紹介してそそくさと外出してしまう(将軍の不倫を夫人は知っているせい)。3人の娘たちはいつまでも敬語をつかいなれなれしくならないムイシュキンを気に入る。何か話を、とねだるとムイシュキンはスイスやフランスで見聞きしたり、空想の話をする。
 ムイシュキンの話は大きく二つ。最初は銃殺刑が執行される直前に恩赦になった男の話。生きていられる時間が5分しかない。その時に明るい日光に気が付き、「自分の新しい自然」「何らかの方法でこの光線と融合してしまう」「一分一分を丸百年のように大事にして、何ひとつ失われないようにする」という神秘体験をする。もうひとつはギロチンが落ちてくる一分前の死刑囚の話。十字架に接吻し続け、首が離れる瞬間を体験する(ユーゴ―「死刑囚最後の日」が終わった後を書くというドスト氏の執拗さ)。そういう絵をアレクサンドラに描いてみては勧める。
(天使人間だからといって、彼は世の中の汚いところを見ずにすませることはできない。むしろ、どこにでも行けるから、人間の欲望が表出されるところに遭遇するのだ。彼は欲望のために他人の利益を奪ったり、権利を侵害したり、身体を既存するところを見てしまう。天使人間だから、欲望する人間に介入できない。ことばで事実を伝えるか、感情を吐露するか。天使人間には悲しみと無力感が詰まっている。)

 

 戦時中に学生だった堀田善衛は「白痴」を好み、英訳仏訳米川正夫訳の3つを対照しながら読み返していたという。そのときのことを作家はこう回想する。

 「(冒頭を)書き写していて、あのロシアの平くったい平原の、ところどころに森や林や広大な水たまりなどのあるところを、汽車がひた走りに走って行く、その走り方のリズムのようなものが、この文章に乗って来ていることが、じかに肌に感じられる。」
「最初の登場人物の描写、あるいは紹介であった。それはよくよく読み込んでみると、これほどにも相互に矛盾したものをよくもよくも一人の人間(ロゴージン)に詰め込んだ、あるいは押しつけた、としか思われぬほどのものである。目は小さいけれど火のように燃えていて、鼻は低くて高慢らしい――高慢らしいと来れば大抵は鼻筋通って高い、ということになりそうなものなのに……。粗暴な薄笑いがあって、しかもなお悩ましいまでに熱情的であるとは、これ如何に。/乱暴至極にも、そういう滅茶苦茶な、どうにも想い定めがたい人物をのっけにひっぱり出して若者に押しつけ、さて、ド氏は次の人物(ムイシュキン)にとりかかるのだ。」
「この二人の主人物が、かくまでも矛盾だらけな者どもであるということが、とりもなおさずこの小説の進行のための馬力のもとになっている、汽車でいえばカマの火になっている、と思う。」
「ド氏は、ここに汽車に乗せてムイシュキン公爵をロシアに、すなわち精神の劇のなかへつれ込むについて、明らかに、幾分かの滑稽化を行なっている、と思う。/滑稽化を、とそう思いつくと、ある鋭い痛みが、走るような悲しみが若者の胸を衝いて来た。人神、あるいは神人ということがありうるとすれば、ムイシュキン公爵は人間天使、あるいは天使人間である、というのが若者の考えであり、そういう不可能な天使人間を、天使のような人物を、ロシアという現実のなかへ、人間の劇のなかへつれ込むのに、汽車という、当時としての新奇なものに乗せた、あるいは乗せなければならなかった、そこに、ある痛切な、人間の悲惨と滑稽がすでに読みとられるのである。いまだったら、多分飛行機ということになるだろうと思う。」
(冒頭でムイシュキンとロゴージンが乗っている汽車 → 小説を進行する汽車のカマの火の馬力 → 外界から天使が現場の現実に入るために必要な汽車。イメージをつないでいく「汽車」の比喩が見事。)
「このド氏の場合は、それは違う。新物好きなどではない。汽車にでも乗せなければ、到底、この不可能な白痴の天使を、阿呆天使、バカ天使を小説のなかにさえつれ込むことが出来ない、この不自由で限りのある人間の世界というものについての、刺すような悲しみが若者にとりついていた。たとえ小説のなかでも羽根をつけて飛んで来るわけには行かないから、天使は、やはり、外国、すなわち現場の現実に生れうるものではなくて、外国、すなわち外界から汽車にでも乗せて入って来ざるをえないのだ。」
「小説を読み通じて行って、その終末にいたって、天使はやはり人間の世界には住みつけないで、ふたたび外国の、外界であるスイスの痛狂院へもどらざるをえないのである。表題の“イディオト”は、文字通り白痴であり馬鹿であり阿呆である。白痴、というと何やら聞えはいいかもしれないが、天使は、人間としてはやはりバカであり阿呆でなければ、不可能、なのであった。/左様――ムイシュキン公爵は汽車に乗って入って来たが、ランポオは、詩から、その自由のある筈の詩の世界を捨てて出て行ってしまい、おまけに生れのヨーロッパからさえも出て行ってしまった」

以上、堀田善衛「若き日の詩人たちの肖像 下」集英社文庫から抜粋して引用。

 

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2024/12/03 フョードル・ドストエフスキー「白痴 上」(新潮文庫)第1編6-11 天使人間、ナスターシャを中心にする三角関係に巻き込まれる。 1868年に続く