同時期に書かれた「罪と罰」のラスコーリニコフは金には淡白で手元に金を残さなかった。こちらは彼を逆に金にうるさく、汚い人々たちばかり。収入がなく借金をもつことは罰なのか。賭博に興じることは悪なのか。なぜ金は問題になるのか。
再読。前回の感想にストーリーを書いた。そのときは中盤のおばあさんのドタバタに注目していた。今回はその前後に注目。ときに「わたし」のSM志向と、二人の女性との関係について。進んで苦痛を望む男が「別の人間」になろうとしてあがく様子を見る。
語り手の「わたし」アレクセイ・イヴァーノヴィチ25歳は、ロシアの貴族「将軍」の家庭教師として、ドイツのルーテレンベルグに来ている。ただの家庭教師なので賭博町の観光客たちにはバカにされているが、饒舌と予測不能の行動の突飛さで他人を翻弄している。彼は他人を見下しているのだが、特定の女性を熱烈に愛していて同時に猛烈に軽蔑されていることを望む。サディズムとマゾヒズムが同居していて、他人に応じて行動性向を切り替えている。金に取り憑かれていて、手元には何もないのに、金を得ることには執着する。金があれば「別の人間」(どういう人間かはあいまい)になれるという確信があるのだ。それも勤労や勤勉、金貸しを憎んでいる。そうすると賭博をするしかない。ここでの賭博は神の掟、宿命への挑戦に思えたな。あらかじめ人間の行動は定まっているとしても、ルーレットの一振りは神の手からもれるはず。その一瞬に勝つことは神に勝つことなのだ。賭博に勝つことは神を超える人間であることの証明なのだ。
(その点において語り手の「わたし」アレクセイはラスコーリニコフに似ている。のちのロゴージン@悪霊も神の掟に勝つために、自殺をずっと考えていた。この語り手もラスコーリニコフも自殺を考えたことはないので、自己への罰として自殺をドスト氏が考えるようになったのは「悪霊」から。)
この男は、他人のための賭博は負ける、自分のための賭博には勝つという信念をもっていた。でも実際はその逆のことになる。SM関係の主人であるポリーナの経済的危機を救うための賭博では大勝したのに、なけなしの金で生活費を工面しようとする賭博ではすってしまう。神の掟に挑戦したものの、返り討ちにあったのだ。もちろん自分のための賭博が負けたのは、自分を「滅んだ人間」であると自任したからにほかならない。勝つことの目標である他人も自分も失ったのであれば、意欲はあっても仕事はぞんざいで集中力もきれるであろう。「わたし」にはこの挫折のあと立ち直る気配はない。「明日だ、明日こそは何もかも片がつくのだ!」の決心で小説は終わるが、さて彼にはラスコーリニコフのような待ち焦がれる明日はあるのだろうか。
その金であるが、他人のための勝負で手に入れた金は主人であるポリーナに拒否される。それも札束で頬をひっぱたかれるという屈辱。この屈辱に相当するのは、ナスターシャに結婚の持参金10万ルーブリを燃やされたロゴージンくらい。思うに、この愛しているのに憎くてたまらない相手から強烈な拒絶を受けたことで「わたし」アレクセイには生の意味が失せた。なるほどそうであれば、そのあとの自分の生存のための賭博に負けるのも意味はない。マゾヒストのアレクセイにとって必要なのは、屈辱的な命令や見下しであって、相手に無視されることではない。
なので、その次に現れたフランス人の令嬢(「将軍」の婚約者)ブランシュに侮辱されると唯々諾々と彼女の命令に従うのである。すべての金を巻き上げられ、そのうえパリまで連れていかれる。1860年代のパリはまことに世界の中心である華やかさを持っている(「カンカン踊り」に魅了されているが、もとのオッフェンバック「天国と地獄(地獄のオルフェ)」は1858年に初演された後、大当たりをとっていた)。そこは金の集まるところであり、あらゆる快楽と悪が集まるところ。そんな背徳の街に女に連れられてロシア人が堕落させられる。パリは地獄なのだ。そこに連れ込むブランシュ嬢は、地上に住むものを地獄に送る堕天使そのもの。
ポリーナの拒絶で愛を失い、ブランシュ嬢のサディズムで金を巻き上げられ、「わたし」アレクセイは生の意味を失う。この体験は痛烈であるが、おれはスタヴローギン@悪霊を思い出した。「悪霊」ではスタヴローギンがヨーロッパやアメリカを放浪していた数年間何をしていたのかほとんど語られない。それはこの「賭博者」に書かれていたのだ。「わたし」アレクセイの末路はスタヴローギンと同じになるだろう。
(この小説では、ロシアの外国人であるポーランド人、ドイツ人、フランス人、イギリス人は醜悪な描写と役割が与えられている。ドストエフスキーの汎スラブ主義と反ユダヤ主義が強く表れているところ。ここは気分がよくない。)
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