2025/01/07 フョードル・ドストエフスキー「罪と罰 下」(岩波文庫)第5部4 ソーニャはラスコーリニコフにどうすればいいかを伝える 1866年のつづき
物語も終盤にはいる。すでにキャラクターの性格付けは終わっているので、くだくだしい説明はいらなくなり、彼らは単刀直入にしゃべり、動き回る。第5部は章ごとに、動と静、明と暗が交替する。この対比がとても鮮明なので、とりわけ印象深い。多くの識者が「カーニバル」と名付けている名シーン。


5.レヴェジャートニコフが飛び込んできて、カチェリーナの気がふれた、半狂乱になっているという。長官の家に押しかけ追い出された後、こどもらを引き連れて大通りに出て、歌を歌わせたり、踊らせたりして、周囲の人にくどくどとかきくどいて物乞いのマネをしている。毎日長官の家の前でするんだと息巻いている。ソーニャは飛び出し、ラスコーリニコフは部屋に帰る。孤独感を感じ「懲役の方がまし」という。ドゥーニャがきて「何もかも知っている」。ラスコーリニコフ「ラズミーヒンはいいやつだ」。ドゥーニャ「永遠の別れをするみたい」
(もちろんドゥーニャは殺人のことを言ったのではない。ルージンをやり込めたことをそういった。ドゥーニャは「あれ」の告白を聞いて持ちこたえられるかとラスコーリニコフは思う。)
ふたたび街をさまよっているとレヴェジャートニコフがラスコーリニコフを見つけ、カチェリーナの状態を伝える。カチェリーナはついに喀血し倒れてしまう。ラスコーリニコフは巡査らといっしょに彼女をソーニャの家に運びこむ。すでに瀕死。カチェリーナ「わたしにゃ、罪なんかない」。そして「みなでやせ馬を乗りつぶしたんだ」と言って息絶える。
(ここはマルメラードフが馬車に挽かれて死亡した時のシーンの繰り返し。カチェリーナのいう「やせ馬」は第1部のラスコーリニコフの夢に対応。カチェリーナのいう「みな」とはだれか。当時のロシアやヨーロッパでは貧乏は罪とされていたが、カチェリーナが「罪なんかない」という罪は人類の掟や宗教心などに背いていないという意味だろう。ソーニャが罪人である職業についているが、そのことも「罪がない」と言っているのか。「罪なんかない」カチェリーナが貧困と病苦のあげくに死に、自分に罪があることを自覚しているラスコーリニコフは「生きる資格がある」という強烈な対比。)
後から部屋にやってきたスヴィドリガイロフがカチェリーナの葬儀費用と残された子供の養育費用を出そうという。まえにプリヘーリヤらに贈ろうと言っていた金だ。ラスコーリニコフに「私とならばけっこういっしょにやっていける」。
(ラスコーリニコフはソーニャと別れた後孤独と猜疑におそわれ、といって母や妹のもとにも戻れない。「踏み越え」ないでも「あれ」「醜悪な計画」をやってのけるスヴィドリガイロフだけがラスコーリニコフに近寄ってくる。スヴィドリガイロフはラスコーリニコフの「分身(二重人格)」だから「いっしょにやっていける」。ラスコーリニコフは前に自白するか自殺するかの二者択一を考えていた。ソーニャは前者を薦めたが、スヴィドリガイロフは何を薦めるか。スヴィドリガイロフの誘いは悪魔の誘惑なのかもしれない。)
この章はドストエフスキーの小説のなかでもとりわけ悲痛で悲惨なシーン。人間の尊厳が損なわれている様子がこれでもかを執拗に描かれる。喋り声は聞こえないが、カチェリーナに歌や踊りを強制されるこどもたちがとりわけ哀れだ。
しかしこのシーンはとても演劇的。まるで群集劇をみているかのようである。
彼女の興奮状態はまだおさまらず、むしろ刻一刻とますます神経をたかぶらせているようだった。彼女は子どもたちに向かってとびかかり、おどしたりすかしたりしながら、公衆の面前で踊り方や歌い方を教えたり、なぜこういうことをしなければならないのか、そのわけをくどくどと説明しはじめるかと思えば、子どもたちの呑みこみが悪いのに業を煮やして、彼らをなぐりつけたりしていた …… それから、その途中でこんどは見物人のほうへ飛んで行き、ちょっとでも服装のいい人が立ちどまって見物したりしているのを目にとめると、『いい家の、貴族の生まれと言ってもいいほど』の子どもたちのこの落ちぶれようを見てくれと、さっそくくどきはじめるのだった。見物のなかに笑い声やひやかしの言葉を聞きつけると、たちまちその無作法者にくってかかり、口喧嘩をはじめる。本当に笑っているものもあったし、首を横に振っているものもあったが、だれにしても、おびえた子どもたちと狂女の取りあわせはおもしろい見物にちがいなかった。(P151-152)
ことにカチェリーナの言動。彼女の錯乱ぶりは大げさで、悲惨のくどきとやじうまへの罵倒が交錯し、当る相手が次々と入れ替わる。怒っていたのが泣きにかわり、次々と立っている場所を変え、立ったり座ったり、倒れたりと運動も激しい。心情の悲惨や悲痛と、アクションの激しさが同時に起こっているので、それぞれに打たれる感情が増幅されるのだ。エイゼンシュタインや黒澤明なら「対位法」というような効果が現れている。ドストエフスキーの技術が最高に発揮された章だ。
(というようなことを大江健三郎が「新しい文学のために」「文学再入門」で詳細に書いているので、参照してください。以下の感想では大江の読み方までは触れていません。
2014/01/15 大江健三郎「新しい文学のために」(岩波新書)
2014/01/03 大江健三郎「文学再入門」(日本放送出版協会)
亀山郁夫「罪と罰ノート」(平凡社新書)に、マルメラードフの行動と一家の状態について優れた解釈があったので、メモしておく。
着目するのは、ソーニャが「黄の監定」を交付された日からしばらくしてからマルメラードフが飲んだくれを始めて、そのあとソーニャがマルメラードフに30ルーブリの大金を渡したこと。マルメラードフの葬儀で家を追い出されたカチェリーナが年金をもらいにマルメラードフの元上司のところに押しかけ追い出されたこと(マルメラードフは役所を退職したり復職したりしていたので年金受給の対象者になる資格がない)。
ここから類推できるのは、マルメラードフがソーニャ18歳に「黄の監定」を交付させる手続きをした際に、最初の客として元上司にソーニャを差し出した。その代金として法外な金を上司は支払い、ソーニャはマルメラードフに渡した。すなわち、マルメラードフ(とカチェリーナ)はソーニャを売ったのだった。
このように解釈すると、マルメラードフがソーニャの金でひと月近く飲んだくれていたわけがわかるし、そのことをひどく後悔しながら止められず自己嫌悪におちいるのもわかるし、カチェリーナが他の子どもにはきつく当たるのにソーニャには何もいわないわけがわかるし、マルメラードフが馬車に轢かれたのも自殺であるように思えるし、カチェリーナが元上司の家に押しかけたわけがわかる。彼らの突拍子もない、非常識的なふるまいや多弁は貧乏で追い詰められただけではなく、娘の人体・人格・人権の尊厳をむしり取った己の行為から生まれているのだった。その苦痛はとても深い。
(これも神の掟の「踏み越え」だった。踏み越えを耐えられないものは、自首か自殺するか(カチェリーナの言動を見れば狂気に陥るという選択肢もあった)というのがソーニャの答えだったのだが、それは両親を観察しての発言でもあったわけだ。リザヴェータとの宗教的体験だけではない。)
(「罪と罰」の男たちは女性を虐げ辱めるものばかりであった。女性を殺害するラスコーリニコフであり、凌辱して自殺に追い込んで恥じないスヴィドリガイロフであり、若い娘を金で買おうとするルージンでありm実の娘を上司に差し出して娼婦にするマルメラードフだ。女性の尊厳を奪うのは罪である。その結果、彼らは自分の行為に対してそれぞれが罰せられる。)
この解釈からマルメラードフとカチェリーナのふるまいを「イスカリオテのユダ」に例える。マルメラードフが受けたったルーブリの「30」はイエスを売ったユダが受け取った金貨の数と同じであるのもその傍証になる。第1部第2章でしきりにキリストのことを話していたわけもわかる。訳者の江川卓は解説や「謎解き「罪と罰」」(新潮社)で、ラスコーリニコフにはキリストのイメージが付きまとっているというので、マルメラードフとの関わり合いはイエスとユダの関係にあてはめられる。同様にスヴィドリガイロフにもユダのイメージが付きまとっている。第3部まではマルメラードフが、第4部以降はスヴィドリガイロフが登場することによって、キリストイメージをもつアンチキリストのラスコーリニコフがユダの誘惑や裏切りを克服していくという物語が仕込まれている、ことになる。
フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」
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2024/12/27 フョードル・ドストエフスキー「罪と罰 下」(岩波文庫)第6部1.2 ポルフィーリィ、ラスコーリニコフに謎をかける 1866年に続く