前回と訳を変えて(米川正夫訳から小笠原豊樹訳)再読。前回の感想は以下。
2020/02/04 フョードル・ドストエフスキー「虐げられし人々」(河出書房)-1 1861年
2020/02/03 フョードル・ドストエフスキー「虐げられし人々」(河出書房)-2 1861年
2020/01/31 フョードル・ドストエフスキー「虐げられし人々」(河出書房)-3 1861年

再読の感想もだいたいこの線に収まるので、別に気付いたメモを残しておこう。
・原題をそのまま訳すと「虐げられ辱められた人々」となるという。再読では「辱められた」ことに注目してみた。そうすると、登場人物のほとんどが「辱められた人」に該当する。するとそこには侮辱する人がいたわけで、たいていは上流層の男が下層の男を、男が女を、大人が老人と子供を侮辱しているのだった。「虐げられた人」の中に入るイフメーネフ老人ですら、家の中では妻や娘を辱めていたのであった。この何層にもなる侮辱の連鎖が人々の自尊心をなくし、自己を不当に低く評価することになる。ナターシャやネリーが泣いてばかりでいるのは、何重にも侮辱されているため。
・そうなるのはドスト氏によると、キリスト教的友愛が不足しているためであって、第4部にもっとも「虐げられ辱められた人」であるネリーの物語を聞いた時に、ようやく友愛が復活するのである。イフメーネフ老人がつねに虐げ辱める側であったワルコフスキー公爵と精神的に対等になれたことがきっかけだった。この老人一家を中心にした友愛の輪が広がることで、辱められた人たちに援助が差し伸べられる。ここで彼らは精神の安定を持つのであり、この数年間の重荷や憑き物から解放されるのだ。
(そのかわり、小説の冒頭と終幕では人が死ぬという悲劇が起こる。下の問いも、人びとの幸福はこのような「虐げられ辱められた人びと」の犠牲の上にあるのかもと想像すると、答えを出すのがむずかしい。というか21世紀の日本はさまざまな「虐げられ辱められた人びと」の犠牲の上で「繁栄」を謳歌しているのだ。括弧付きにしたのは実態と想像が一致していないから。)
・このあとドスト氏は「罪と罰」1866年を書くが、物語の構造やキャラの配置などは本書を引き継いでいる。語り手が身内の恋愛問題に振り回されるとか、極度に貧困な家庭の面倒を見なければならないとか、語り手の友人が問題解決に一肌脱いで駆けまわるとか、語り手も貧困をどうにかしないといけないとか、語り手が悪や正義の具現者から彼らの「哲学」を長々と聞かされるとか。もしかしたらテーマも。「虐げられた人々」は友愛の関係性を持つことで解放され、そのサークルの中では人間らしく扱われるようになったが、ペテルブルグ市やロシアの社会を救うまでにはいかない。徹底的に不足しているのはキリストの精神だ。というわけで、「罪と罰」ではロシア正教のキリストがいかに人々の中に浸透するかが問題になる。
・訳者の小笠原は解説で、マスロボーエフは「思想的なバランスの上ではワルコフスキー公爵と同等の重要性をもつ」「この男も金と快楽に生きる人間」と指摘する。そして拝金主義が政治的反動と一緒になっているのが公爵、反権力志向を持ったのがマスロボーエフという。おおむね同意の指摘。「金と快楽」としているところを俺は「他人を支配する欲望」としたい。公爵はいわずもがなであるし、マスロボーエフも行動の原動力は公爵を圧倒したいという欲望だった(なので、公爵に秘密を突きつけたら買収されたことを大いに恥じる)。この欲望が他人を虐げ辱めるという行動を生む。行動したことが他人にとがめられないと、「欲望は正しい」と思うようになる。そこで他人の非難、制止、叱責がない限り、他人を虐げ辱める行動は継続する。長年続くとマスロボーエフはワルコフスキー公爵のような怪物になるだろう。
・「他人を支配する欲望」は最も弱いものであるネリーにも見られるかもしれない。この何をするかわからない衝動的な少女を理解するのは俺には困難だが(必要なのは医学的治療と思うが19世紀半ばにはそんな知識もシステムもない)、彼女の癇癪の理由の一端にはなるだろう。
・ネリーはディケンズの「骨董店」1841年から「もってきた」というのが大方の判断。それは正しいのではあるが、「主婦(女主人)」のカチェリーナ、「ネートチカ・ネズヴァーノヴァ」などに萌芽があり、「罪と罰」のマルメラードフ一家に継承されているのかなと妄想した。でも、その後の長編では姿を消す(「カラマーゾフの兄弟」でリーザになってでてくる)。その代わりに、次の問いの主人公として現れる。
「さあ、答えてみろ。いいか、かりにおまえが、自分の手で人間の運命という建物を建てるとする。最終的に人々を幸せにし、ついには平和と平安を与えるのが目的だ。ところがそのためには、まだほんのちっぽけな子を何がなんでも、そう、あの、小さなこぶしで自分の胸を叩いていた女の子でもいい、その子を苦しめなければならない。そして、その子の無償の涙のうえにこの建物の礎を築くことになるとする。で、おまえはそうした条件のもとで、その建物の建築家になることに同意するのか、言ってみろ、うそはつくな!(カラマーゾフの兄弟 2」光文社古典文庫P248」
抽象的な「少女」で考えるのではなく、ネリーで考えると、イワンの問いは難しくなる。
(とはいえ、中村健之介「永遠のドストエフスキー」(中公新書)をみると、ドスト氏は社会問題の解決に汗を流すのは願い下げな人だった。そうすると、ワーニャがネリーの養育を最後にイフメーネフ家に頼るのは、ワーニャが父子家庭を全うするのは解決ではないとみたせいかしら。)
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