2025/02/18 フョードル・ドストエフスキー「ネートチカ・ネズヴァーノヴァ」(KINDLE)-3 ダメ男の父を慕う幼女はむごい目に合う 1849年の続き

第2部。両親に死なれたネートチカはH公爵家に引き取られる(お伽話のようなありえないできごと)。公爵が陰気で引きこもりな人なので、屋敷の中は沈鬱。そのせいか、ネートチカもなじめず(なにしろ極貧から一気に貴族の家にはいったのだし)、熱を出してはうわごとをいう。あるとき、屋敷でバイオリンを弾く老人を見かけ、お父さんと叫ぶも、別人と分かり失神してしまう。両親のネグレクトを受けてきたネートチカが誰にも相手にされなかったのが、このできごとで過去を埋葬することができたのかしら。バイオリンが悪魔の楽器であることを思いだすと(ケラー「村のロミオとジュリエット」)、心が持って行かれそうになるのを阻止されたのかしら。
公爵には姉妹がいて(長女はすでに家を出ている)、妹のカーチャにネートチカは弾かれる。恋をしていると10歳の娘が言うほどに熱烈な感情をもつ。カーチャは最初は気味悪がって、邪見にしたり、無視したりするのだが(その時ネートチカはカーチャのハンカチーフやリボンの匂いを嗅ぐようなフェティシズムを持つ)、ある老婦人へのカーチャのいたずらが露見し罰を加えられそうになるとき、ネートチカが代わりを務める。半日以上閉じ込められていたのが救出されたら、カーチャの意地悪は止み、ネートチカのキスを受け入れるようになった。10歳同士の娘なので性的衝動はない。この家は陰気な公爵、厳格で気まぐれな母と子供たちは親の愛情を知らない。ふたりとも神経症を持っていて、時に発作を起こすような、線の細い子供たちなので、姉妹のような感覚になったのじゃないかな。しかし一日に100回もキスするような子供に母は恐れをなして、カーチャを寄宿学校に入れてしまう。
書かれなかった第4部以降を妄想すれば、カーチャが18歳になって屋敷に戻り、ネートチカをいじめ、しかしすぐに謝罪しまたいじめを繰り返す。それをネートチカは従順に耐え忍ぶ。「罪と罰」のソーニャの若いころを思わせるような展開を考えてみた。 カーチャは「カラマーゾフの兄弟」のリーザになるかしら。
(追記。このテーマは自作の「ステパンチコヴォ村とその住民」1959年で結実した。)
第3部。カーチャの姉アレクサンドラが嫁いだ先に寄宿することになる。大きな図書室があり、ネートチカは秘密に鍵を手に入れ、人目を盗んでは読書に励んだ。そこでネートチカはアレクサンドラにあてた告別の手紙を見つける。アレクサンドラの影はここにあるのだろう。それを図書室に家蔵する本に封じ込めていた(まるでヴァン・ダイン「グリーン家殺人事件」の前史を見ているよう。アダもこうやって本を読んだのだろう。図書室に封じ込められた怨念が読んだ女性に取りついたのだった)。数年の間、手紙を隠していたが、ネートチカが16歳のある日、手にしていた手紙をアレクサンドラの夫が取り上げてしまう。男の恋文がネートチカ宛と誤解した夫はネートチカのふしだら(なにしろ未婚女性の恋愛はご法度の時代)とアレクサンドラの教育不行き届きを糾弾する。ふだんは孤独で無口な男が家族の在り方に口を出して(普段は家にいつかないのに)、陰気な家が一気に暗くなる。
この家族の問題は夫にあるが、とりあえずネートチカに話しを寄せよう。この病的体質の娘は似たような行動性向と病質をもつものに近づいてしまう。この家でもアレクサンドラが空想家で孤独で憂愁を持った人。しきりに発熱し失神してしまう(19世紀ではこういう虚弱体質が「美女」につきものだったらしい。強いジェンダーバイアスがあったのだ)。似たような特徴をもつカーチャにはネートチカは熱烈な賛美と恋情をもったのに、その姉アレクサンドラには距離をおいてしまう。二人は近づいたり離れたりを繰り返す。この感情と心理の移動が男の俺にはよくわからない。それは夫もそうであるらしく、とくにネートチカにはよい感情をもっていない。もともとの人間嫌いや女性嫌悪が高じ、恋文事件で爆発してしまう。どうにもネートチカの行動性向は人を苛立たせ、怒りを誘発させてしまう傾向があるようだ(自分もそうなので、この娘にはなかなか感情移入がしにくい)。こうしてネートチカは意図せずして、自分を不幸に導くようにしてしまう。
夫に家を出ていけと言われた後、夫の助手オブロフがネートチカに近づく。スヴィドリガイロフかスタヴローギンかスメルジャコフかのような犯罪の匂いをぷんぷんさせた男が思わせぶりに登場したところで、小説は中絶する。思うに、この男がネートチカを操って、公爵家をぐちゃぐちゃにするのかも。発熱したアレクサンドラは夫への殺意をもつようになるかも。いくつか筋を思いつくが、この先を展開するのは容易ではなさそう。
「ネートチカ・ネズヴァーノヴァ」はドスト氏の小説の中で唯一女性のナラティブで書かれている(追記。「百歳の老婆」の冒頭も女性が語り手)。ドスト氏のとらえる女性は、男である俺からするとかなり奇矯な人格。そのうえ本人自身がいうように病気を抱えている。そのせいか、他人とのコミュニケーションがうまくいかない。他人との距離の取り方も独特で、キスを繰り返すほどに密着するか、泣いて他人の接触を拒否するか、ひとりで閉じこもって数時間をすごすか。他人と対等に付き合うことができなくて、相手を上から見下すようにするか、下から従順になるか。不思議な人だ。でも、ドスト氏のほかの小説を思い返せば、ネートチカのように頭が良くて観察力があり、孤独であることになれていて、他者との交通がうまくいかない人はたくさんいる。それこそ「白夜」「地下室の手記」の語り手だし、「罪と罰」のラスコーリニコフだし、「悪霊」のシャートフだし。なるほどネートチカを想像することで、「地下室の手記」の語り手のような偏屈な中年男がありえたのだ、と感心する。(その前に、「虐げられた人びと」のネリを思いださないと。)
(第2部のカーチャとの「百合」関係にしても、そこは彼女らが両親から疎外されている、愛されていないところに原因がありそう。それは凡百の「百合」小説とは違うようだ。彼女らは家族に居場所がないうえ同世代の友人を一人も持っていないので、とくに父がみな孤独で憂愁で笑うことがなく家中が沈鬱になっているので、疑似家族を作ってそこに安逸な場所を見出そうとしたのではないか、と思うのだ。その発想は幼いもので、彼女らが思春期を迎えるとともに、四散霧消してしまう。未完の小説の続きではネートチカとカーチャの再会は重要なテーマになるはず。そこではとりあえず対等であった幼少時の「百合」関係は復活しないだろうという漠然と予想する。)
前の読書では「ドスト氏の書いたものの中で最もつまらないものではないか」などとほざいてしまったが撤回します。この未完の失敗作でもドスト氏はドスト氏。この先の大長編や後期の短編に通じる重要なテーマをもっていました。まえは全集版で読み、今回はKINDLEで読んだ。文字が大きくなるだけで、こんなに印象と感想が変わってしまった。)
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