2025/02/24 フョードル・ドストエフスキー「家主の妻(主婦、女主人)」(河出書房)-1 思いがけずに遺産を受け取り引きこもりになったオルディノフは「地下室」の人。 1847年の続き

ドスト氏のたいていの小説は三人称一視点。三人称で客観性を持たせながら、実際はその章ごとにある特定のキャラにずっとよりそう。キャラの観察が報告され、内心も吐露される。でもこの「家主の妻(主婦、女主人)」は三人称に徹し、オルディノフの内面はほとんどかかれない。オルディノフ自身が雄弁饒舌ではないので、しゃべらないし内面もよくわからない。それがこの小説をなぞめいたものにし、カフタン帽をかぶるトルコ系で去勢派らしい老人を怪物めかしている。ドスト氏にはたくさんの悪人、犯罪者が出てくるが、饒舌な会話と内面吐露でよくわかるのだが、このムーリンをなのる老人は理解も共感も不能。ドスト氏の小説の中ではとてもユニーク(小説もキャラも)。
家主の妻(主婦、女主人) 1847 ・・・ 第2部に相当。熱病に浮かされるオルディノフを絶世の美女カチェリーナはかいがいしく介抱する。オルディノフの部屋にいって二人きりになり、添い寝するようなことまでする。すっかり惚れてしまったオルディノフは彼女を奪おうとするが、カチェリーナは「恋人にはなれない」「私は傷もの」「今のような愛し方で私を愛さないで」と拒絶する。身の上話を聞きたがるオルディノフにカチェリーナは恐るべき話を語る。すなわち父は工場を経営していたが、カチェリーナが12歳の時火事で工場を失い死んでしまった。母も重傷を負っていたが、「おまえは不義の子」と言われていたのでよそよそしく感じる。そこにやけどを負った男がやってきてカチェリーナを連れ出してしまった。カチェリーナは今わの際にある母を見捨ててしまった。「私は母を殺した」「大地に埋めた」。以来、カチェリーナは誘拐した男、今のイリヤ・ムーリンと暮らす。老人は強い力で彼女を束縛し、逃れることができない。カチェリーナは男の奴隷であると自認し、それを好ましく思っている。この「殺人」の告白を聞いてオルディノフはさらに愛するようになり、情欲を感じさえする。
(ここの心理はのちのラスコーリニコフの告白を聞いたソーニャを思わせた。ソーニャはそうはいっていないが、エピローグの行動をみると、ラスコーリニコフの「女奴隷」に進んでなったようなのだ。「女奴隷」のテーマは「ネートチカ・ネズヴァーノヴァ」や「虐げられた人々」のネルリを端緒に、後期長編にはたくさんでてくる。彼女らは母を象徴的に殺し、父や父権的な男に無条件で従属する。彼女らが選ぶのは世界の変革や自己革命を欲望する目覚めた男性。この「女奴隷」は同時に男に馬乗りになって罵倒し侮辱する、その直後に自己嫌悪で反省する、という複雑な行動性向をもっている。)
(このあと「白痴」を読んだら、カチェリーナはナスターシャのほうがふさわしい。ことにオルディノフの求愛を断る言葉がそう。また「私は母を殺した」「大地に埋めた」という絶望は、「悪霊」の「告白」にでてくるマトリョーシャが「私は神を殺してしまった」と嘆いたのに重なりそう。)
(米川正夫はオルディノフとカチェリーナをムイシュキンとナスターシャになぞらえている。どうかな。俺はラスコーリニコフとソーニャのように思った。カチェリーナはオルディノフと一緒にならなかったので、ソーニャとの親近性は薄いかもしれない。)
彼らの仲を知ったのか、ムーリンもオルディノフの部屋に入るようになり、酒を飲んだりする。ロシア人二人がいる中で、トルコ系で去勢派のムーリンはおとなしい。しかしその言葉や雰囲気は二人を威圧している。気圧されるような気分と夫婦への嫉妬でオルディノフは揺れる。カチェリーナはムーリンから逃れられないと確信している。
(卑屈なのに威圧的。滑稽そうなのに厳粛。無知のようにみえて博識。バカにされるのを受け入れて他人をバカにしている。そういう矛盾した行動性向にあるのがムーリン。こんな人物には恐怖を感じると同時に従属しそうになる。のちのフォマー・フォミッチ(「スチェパンチコヴォ村とその住人」、ワルコフスキー公爵(「虐げられた人々」)、スヴィドリガイロフ(「罪と罰」)、ロゴージン(「白痴」)、スタヴローギン(「悪霊」)、ヒョードルとスメルジャコフ(「カラマーゾフの兄弟」)らの先駆。彼らには神がかりの気があって、宗教的情熱が人を誑し込んだり、おのずと服従するようにさせていく。)
ムーリンと二人きりになったとき、ムーリンは「カチェリーナは気がくるっている(だから信用するな)」とくぎを刺した。そのうえでこう語る。
弱い人間にいっさいのものをやってごらん、自分のほうからやって来て、何もかももとへ返してしまうから。弱い人間に地上の王国を半分やってごらん、どうすると思う。お前さん?すぐ靴の中に身を隠してしまう。それほど小さくなってしまうものさ。弱い人間に自由をやってごらん、自分でその自由を縛り上げて、返しに来るから。
まるで大審問官がしゃべっているよう。スヴィドリガイロフもこんなことをいっていたかも。この発言を1846年(雑誌連載時)に発した後に、チェルヌイシェフスキーが地上に「宮殿」を作るというのを読んだら、なるほどドスト氏は怒り心頭に発しそう。
(人間が獲得した自由を持て余し服従や奴隷化で安心する心理機制とそこから脱出する自由のありかたは、ヘーゲルの議論に基づく下記の自由論を参照。ドスト氏は人間の自由意志を信頼していない、ないし神抜きの自由はないという考え。だから選ばれた人間が他人を支配して幸福を分け与える仕組みにするべきだと主張する。加えて彼は汗を流して「宮殿」を作るのは嫌い。他人の好悪は激しく共感に乏しい。でも宗教的ユートピアを夢見る。ムーリンの言葉はこういうドスト氏の思考を如実に示している。)
苫野一徳「『自由』はいかに可能か 社会構想のための哲学」( NHKブックス)
オルディノフの部屋に普通人の友人が訪ねてきたのを機に、オルディノフは元の下宿に戻った(ロシアで差別されているドイツ人の部屋:オルディノフはなぜマイノリティのところばかりに行くのだろう)。後日友人が言うには、ムーリンらがいたのは盗賊団の首領が経営していたアパート、下宿屋なのだという。警察の手入れがあって全員逮捕された。ムーリンとカチェリーナは盗賊団ではなく、手入れの前に自分の国に帰ったという。
(というわけで、カチェリーナが母親を殺したのかどうかはわからなくなった。実際にあったこととも狂った頭で妄想したこととも決定できない。ドスト氏の小説はたいてい起きた出来事の決着がつくものだが、「家主の妻(主婦、女主人)」はそうではない。何も解決しないままキャラたちが小説の外に出ておしまい。なんともウソ寒い気分になる。)
(あとムーリンがトルコ系らしいところもドスト氏の小説にはない不思議な設定。ドスト氏の小説には外国人が登場するが、多くはポーランド人とドイツ人。彼らはロシアの被差別者なので、汎スラブ主義者で反ユダヤ主義者のドスト氏は彼ら外国人を冷笑的・侮蔑的に描く。でもこのトルコ系の異邦人はどこか親密さを感じる興味をもっている。どうしてだろうねえ。1860年代の露土戦争のあと、ドスト氏はトルコに悪意を持つようになる。「カラマーゾフの兄弟」でイワンがトルコ兵の悪行を並べ立てるのが典型。これも不思議。)
初読の時は米川正夫の解説に引きずられて、ムーリンを単なる狂信者で詐欺師のように思ってしまった。前回の感想は全部取り消さないと。プロットとキャラはほとんど「罪と罰」のプロトタイプ。他の小説とたくさんのリンクを張ることができる。ドスト氏がこの長めの短編からどんな小説世界を創っていったか、とても興味がわく。それをデビューの翌年に書いているという驚異。
ペテルブルクの街を逃げ出したムーリンとカチェリーナ。どこでどうして暮らしているのか。二人の道行きは出獄後のラスコーリニコフとソーニャに重なるのではないか。人たらしで他人を支配する力を持つムーリンはそこかしこで去勢派の集まりを開き、女奴隷で巫女のカチェリーナが予言を発する。そういう運動の積み重ねで、ムーリンらの異端運動が全国に広がっていく。そういう運動をラスコーリニコフとソーニャは行ったのではないか。「罪と罰」読後にこの長めの短編を読んで妄想した。
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