odd_hatchの読書ノート

エントリーは3400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2025/9/26

フョードル・ドストエフスキー「家主の妻(主婦、女主人)」(河出書房)-1 思いがけずに遺産を受け取り引きこもりになったオルディノフは「地下室」の人。

 前回は「主婦」のタイトルで読んだ「家主の妻」をKINDLEで見つけて再読した。亀山郁夫は「女主人」と呼称していて、タイトルは一定していない。今回の再読では「家主の妻」がふさわしいと思った。
 さて、この長めの短編はほぼ無視されているが、よく読むと注目するべき作品。後年のドスト氏の主題が明確に表れたほぼ最初のものだ。後期長編の問題を先取りしてもいる。これはよく読み込まないといけない。

 その前にメモを残す。ロシアのキリスト教について。ロシア正教会は古代にローマの教会から分離した。ロシアでは教会の聖権力のほうが王権の世俗権力よりも強い時代が続いた。それが転換したのは18世紀末からの近代化・西洋化政策。ここで王権が教会権力よりも強くなる。また近代化・西洋化は青年たちの知的好奇心を刺激する。その際にロシア正教会の教育方法では彼らの要求にこたえることができなかった。そこで教会は国家の命令もあってカソリック化(教義を明確にし、司祭を教育するシステムを作るなど)を開始する。これは正教徒を動揺させ、反発を生んだ。というのは正教会の教えはこういうものだから。
ドストエフスキーギリシャ正教古野清人)1963 ・・・ ギリシャ(ロシア)正教の特長は、「キリスト中心」「秘蹟的・境界的」「苦悩を強調」「聖像を通じて聖霊の世界のビジョンを受ける」「罪悪感が強い」など。メンターについて一緒に生活しながら秘蹟的秘教的な教えを体験していくもの。
2019/11/18 河出文芸読本「ドストエーフスキイ」(河出書房)-2 1976年
 そこで正教会カソリック化に反発する人は、分離派という分派をつくる。カソリック化前の正教会に戻れと言う運動。分離派はそのなかから分派がでる。去勢派、鞭身派という異端が登場する。
 ドスト氏は分離派の考えに近い。ドスト氏は敬虔なロシア正教徒。小説には霊的体験、苦悩の要請、憑かれた人々などがみられ、神の存在(をめぐる懐疑と信仰)がテーマ。神なしに生きられない人の苦悩を描く。上にあげた異端にも関心を持っていた。「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」には分離派の異端の信者が多数登場する。
 これを踏まえて、「家主の妻」が重要なのは、分離派の異端が登場する最初の小説だから。トルコ系らしい老人イリヤ・ムーリンは人を集めて宗教的な催しをし、ときに神がかりになって予言をすることもあった。すなわちムーリンは去勢派に属し、もしかしたら司祭の役割を果たしていたのかもしれない。妻の神懸かりな雰囲気や情緒不安定さは去勢派の集まりで巫女のような存在だったのかもしれない。この夫婦のサディズムマゾヒズムは神懸かりになる異端であることが影響していそうなのだ。そのうえムーリンは癲癇の持主。彼の自尊心と卑屈さの同居は癲癇持ちで去勢派のスメルジャコフ(「カラマーゾフの兄弟」)に共通していそうだ。

家主の妻(主婦、女主人) 1847 ・・・ 第1部に相当。大学生オルディノフは曽祖父から数年は暮らしていける遺産を受け取り、修道院に入ったかのように引きこもっていた(これは「地下室の手記」の語り手と同じ)。1年ぶりに外に出ると、他人から基地外か変物かのように見られる。そこで下宿を変えて学門や学術をやると計画した。ある時教会にいくと、カフタン帽をかぶった老人と絶世の美女を見つけた。信心深い老人はイリヤ・ムーリンという名であり、美女はカチェリーナという妻であることが分かった。オルディノフは彼らを尾行しているうちに、熱病になり失神したら、美女カチェリーナに介抱されていた。老人もそこにいて突如ピストルを発射し、てんかん発作で倒れる。彼ら夫婦に受け入れられたオルディノフは、彼ら夫婦の下宿に間借りすることになった。
 以上第1部。オルディノフの現在は、上にあげた「地下室の手記」の語り手だけでなく、「白夜」「罪と罰」の主人公と同じ空想家の系譜にある(その最初)。美女を尾行するのは「貧しい人々」のマカールや「分身(二重人格)」のゴリャートキン氏に続く。これらの人と比べると、オルディノフは他人に影響されやすい。強い自尊心を持っていたり、強い観念を持っていたり、世界を呪詛あるいは変革する意志をもっていたりはしない。教養はあるけど、使い方を知らないモラトリアムにある。他人には強い関心を持っていて、ことに絶世の美女が「運命の人」であるかのように思い込んでしまう。のちの人から見ると弱い性格だが、その分彼の状態に共感しやすい。
 そのような「弱い心」の持ち主であるオルディノフが老人と美女を見つけて後を追いかけて、現代の地獄を見ることになる。謎めいた女を追いかけて青二才の青年が大人に成長するのは、ロマンス劇の常套なのだが、オルディノフの冒険と地獄めぐりはそのような成長にいたったか。

 

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2025/02/21 フョードル・ドストエフスキー「家主の妻(主婦、女主人)」(河出書房)-2 プロットとキャラはほとんど「罪と罰」のプロトタイプ。 1847年に続く