odd_hatchの読書ノート

エントリーは3400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2025/9/26

溝田悟士「「福音書」解読」(講談社選書メチエ) マルコ伝でイエスの捕縛と復活に登場する「若者」とは誰か。そこが福音書の「謎」の鍵。

 最初に自分がうかつだったと知ったのは、最初のキリスト教文書は福音書ではなく、ペトロの書簡だった。そこに書かれたキリスト教の核心は、1.イエスが私たちの罪のために死に、2.7日目に復活し、3.ケファ(「岩」の意)の前に出現して多くの人の前に現れた、ということだった。ずっと以前にペトロの手紙をいくつか読んでぜんぜんわからなかったので、このあと読みます。
 この核心を明らかにし普及するために、4つの福音書(外伝を加えれば大量にあるが、ここでは正典とされる4つだけ)が書かれた。でも福音書の記述は異なる。なぜか。それを解くために、史的イエスは問題にしないで、テキストだけを参照することで、これまでの読み方の不備を明らかにする。取り上げるのは最初に書かれたマルコによる福音書


 その中で以下の記述に焦点を当てる。まずイエスの捕縛の場面。

「ある青年が素肌に亜麻布をひっかけて、イエスについて来ていた。人会が捕えようすると、亜麻布を人々の手に残して裸で逃げていった。(14・51-52)」

 マタイ伝とルカ伝にはこの若者は登場しない。
 つぎにイエスの復活の場面。

「墓に入ると、白い衣をきた一人の青年が右手の方に坐っているのを見たので、ぎょっとした。青年は彼らに言う、「驚くに及ばない。あなた達は十字架につけられたナザレ人イエスをさがしているが、もう復活されて、ここにはおられない。そら、ここがお納めした場所だ。さあ行って、弟子たち、とりわけペテロに、『イエスはあなた達より先にガリラヤに行かれる。前にあなた達に言われたとおり、そこでお目にかかれる』と言いなさい(16・5-7)(以上ふたつの引用は塚本虎二訳岩波文庫)」

 従来、この二人の若者(引用では「青年」)は別人とされた。また、マタイ伝では天使と輝く衣を着た二人の人となり、ルカ伝でもかがやく着物をきた二人の人になる。マタイ伝もルカ伝もマルコを参照して書かれたのだが、なぜ差異が現れたのか。(というか、俺はここを読んでも「若者」の存在に全然引っかからなかった。そこが福音書の「謎」の鍵であると発見したことに驚愕。テキストを読むとはそこまでの徹底さが必要なのか。)
 結論だけいうと、マルコ伝に現れる二人の若者は同一人物であり、かつペテロである(ということを世界で最初に発表したらしい)。それを突き止めるまでの論証の過程がおもしろい。ただし探偵小説風の論理ではなく、テキストを読解する論理学や記号論を用いるものなので、素人からすると記述はくどかった。
 それよりも驚きなのは、福音書の読み方。福音書にはイエスの生涯と言行が書かれているだけではなく、殉教伝も含んでいる。殉教者は名が隠されている。しかし記述内容が不明であっても、同じ福音書の中にほぼ同じ言葉が使われていれば、そこでの意味が内容不明の記述にもあてはまる。マルコ伝は物語が唐突に切れていて完結していないが、それは再読を要求しているため。もう一度読み直し、内容不明の記述に相当する箇所を見つければよい。そういう円環状の読書をするのだ。
(たとえば若者がまとう亜麻布はのちにイエスの死体をくるむ布として現れる。すなわり死の象徴。かわりに白い衣はイエスがペトロとヨハネだけを連れて高い山に登った時にイエスの姿が変わった時に来ていた服(マルコ・9・2-3)。なので白は天使やイエスの左右に座るものが着ている。またイエスの左右に座るには受苦、すなわち殉教、と栄光をもたないといけない。ということは若者は殉教したのだ。マルコでは殉教者は一人だが、マタイとルカでは二人の人であるのは殉教者が二人であることを示している、など。)
 2000年もあとの俺のようなものが福音書やペトロの書簡を読むときに忘れてしまうのは、これらが書かれ読まれたときには、イエスを知っているもの/見聞きしている者が存命であった、あるいはそのような者の話を直接聞いている者がいたということ。同時にキリスト教徒はユダヤ人やローマ帝国から激しい弾圧を受けていたこと。そして福音書や書簡の朗読を聞いている者の中には、家族や隣人、友人などに逮捕者がいたり、ときに虐殺されたりしたものがいた。あるいは家と故郷を追われて放浪しているものもいた。そのような難民を結びつける紐帯として福音書や書簡があった(なので、文書が「敵」の手に渡ることを想定して殉教者や生者の名は隠さなければならないが、よく読めばわかるような書き方をした。ここを強調しすぎると、バーバラ・スィーリング「イエスのミステリー」のようなトンデモ解釈になってしまうので注意。もちろん文書の構成と書き方と文体は信仰の核心を示すものである)。近親者や仲間のむごたらしい死を見て、いつ自分もそうなりかねないという恐怖を持つ人にとって、イエスの肉体的な復活はとても重要な信仰であり、生きる希望を見出したのだ。と著者はいう。
 なるほどそこまでの想像力を働かせることによって、福音書とペトロの書簡は意味が生まれてくる。これまでは福音書はイエスの言行録が重要で、イエスの死と復活は荒唐無稽なこと(あるいは旧約聖書の引用で、伝承)だと思っていた。少し認識を改めないといけない。そういう気づきの機会になりました。

 

付記
 エピローグのまとめを引用。

「損傷を受けた殉教者の身体に直面したことで、生命を創造した「はじまり」である神という存在をもう一度認識し、復活による死者との再会への希望を持つことで、ようやくなお無意味に見える現世に生きる希望を見出そうとした人たちがいた、ということを示しているのが福音書なのかもしれません。」

 ここのところに感動したのだが、落ち着いてみると、初期キリスト教徒がいた「乱世」で信仰を維持・確保するのに、このような教団の配慮は必要だったのだろう。だが、あくまで現世の生が厳しく死がいつ降りかかってくるかもしれない中での話。平和になったり、教団の力が強くなって宗徒たちの生活を縛るようになると、「無意味に見える現世に生きる希望」を見出す方法が、今度は宗徒への強制になり、個々人の生の意味を教団が決めつけ押し付けるようになりそう。ことに「殉教することで、来世ではイエスの左右に座ることができ、滅んだ肉体は復活する」という名目で他人に死を強制しかねない。
 キリスト教では自殺は罪(ユダがそうしたのが一つの理由)なので、他人に殉教を強制する事案はなかった(はず)。しかし極東の島国ではイエスの復活信仰とは別の理屈で、他人に死を強制する事案が大量に起きた。死を克服する思想は重要であるが、死が生の規範になるのは危険。

 

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