「ヨブ記」を読んだが釈然としないので、簡単に入手できる「ヨブ記」解説書を読む。青空文庫にあったタイトルの書。1920年に断続的に講義したのを1925年に出版した。著者が内村鑑三なので「あちゃあ、やっちまったか」と思った(下記エントリー)が、ともあれ落ち着いて読むことにする。
趣旨は第一講に書かれている。ここを熟読すればOK。あとの章はヨブ記の注釈なので、熱心に読まなくてもいいな。メモを取る。
・舞台のウズは異邦地、主人公ヨブは異邦人。国家なきアラビア人で、イスラエルの地にはいない人。そこにユダヤの神を篤く信じる人がいた。(なるほど、なのでヨブは苦難にあっても共同体の支援を受けられず、ユダヤの教会はヨブの苦難を援助することがなかったのか。異邦人であるから、ヨブは苦難にあっても放置された。今なら亡命者や権力の迫害者に起きている事態)。
・神はサタンのそそのかしでヨブを試すことになるが、ここに関する批評はなし。
・ヨブの苦難は資産や家族を喪失すること、身体を損なわれること(かつ宗教集団からは罪人とみなされる業病を病む)であるが、内村は苦難は罪に対する罰と神による懲らしめと信仰の試みであうという。異邦人として苦難にあるとき、神を篤く信じることができるか。なぜ神を篤く信じることが試されるかというと、それこそが人生の意味であるからという。
・ヨブを訪れる3人の友人はオーソドキシーの立場。ヨブの苦難を信仰が薄いからととらえ、篤く信じろと説得しようとする。ヨブはそんなことの先を考えているので、友人の論は論破する。なので内村はヨブ記のクライマックスは19章にあるとする。
・しかし、ヨブは突如現れた神と直接言葉を交わすことによって、神への懐疑や呪詛を反省し、神への帰依を決意する。通常、ユダヤの神は人の前には現れない(ごく少数の預言者にしか語りかけない)。でもヨブ記では市井の信仰者であるヨブの前に現れた。この顕現こそがヨブ記の核心、なのだそう。神の顕現は人間の歓喜にほかならない。
なるほどなあというのと、それでいいのかという感想。神の言葉の理不尽さには目をつぶる(内村も神の言葉はヨブの苦難の意味を一言も語らないという)が、神の顕現こそが歓喜。神とのほぼ一回だけの邂逅の体験こそが信仰の証、となる。となると、人と神の関係は3人の友人らに代表されるオーソドキシーを間にかまさなくてもいいことになる。むしろ人の苦難を理解しないオーソドキシーなどないほうがいいんじゃない。好意的に見れば、オーソドキシーの説得が失敗したことから、オーソドキシーの対応を反省する機会にしろということか。でもそれだと、ますますオーソドキシーの存在意義ってなさそう。(という考えはルターに近いのかなあ。)
もうひとつは、神の顕現が在ること自体が重要で、理屈を吹き飛ばして、一方的に篤く信じることをする考えへの違和感。神がヨブの問いになにひとつ答えていなくても、ヨブが神を拝跪するのはそれが理由。となると、神が要求することは服従することそのもの。神の理不尽さに文句をつけずに、ただ神を信仰し続け服従しろと命令する。一方で人は神を篤く信じるというのは、人と神を同格とみている。神が姿を現さない間は神は人より下(複数の神から人間がどれを信じるかを選択するのだ)。だから懐疑や呪詛を言える。同時に苦難を受け入れる。神が一度姿を現すと、苦難を忘れ懐疑も呪詛も吹き飛んで人は神を信じる。判断の主体は人にある。でも神に服従する。この「絶対矛盾的自己同一」を成り立たせなければならない。それって理屈として苦しくないかい?
理不尽であっても不条理であっても苦難を受け入れ耐えるのは、信仰の篤さを証しすること時の権力や政府の弾圧や自由侵害にも耐える。神に服従する人は帝国の抑圧にも服従する。。いつまでも耐えなければならない。内村鑑三の立場だと、神への服従は容易に天皇を篤く信じるに転化する。大日本帝国時代にキリスト教(に限らず他の宗教も)は権力に反抗することがなかった。ときに積極的に翼賛した。その判断をした理由がここから見えてくる。
内村鑑三はヨブ記を聖書のキモ、信仰の核心を書いた文書とみる。おれは、それはどうかしらと首をかしげる。
まあ、100年前大正時代の内村解釈が21世紀にも通用するのかどうかは不明。
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