odd_hatchの読書ノート

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金聖響「マーラーの交響曲」(講談社現代新書) 音楽への強い一体化を求めながら、パロディ・諧謔・冷笑で突き放す語るにめんどくさい〈現代音楽家〉。

 玉木正之(1952年生)が指揮者・金聖響(1970年生)にインタビューして交響曲の魅力を語るという企画第3弾。真打はマーラー。指揮者は神奈川フィルの常任指揮者だったころに、マーラーの作品を積極的に取り上げていたという。
 戦前のマーラー演奏を知っている柴田南雄(1916年生まれ)が「グスタフ・マーラー」(岩波新書)を出したのは1984年。それから30年たった2011年に柴田の孫世代(金聖響1970年生まれ)はどのようにマーラーをみるか。


 関心したのは、1990年代にたくさんでたマーラー関連書籍を熟読していること。以下の三冊が言及されている。俺も読んだけど、一度きりで手放してしまった。この違いが俺と指揮者の現況の違いになっている。
 アルマ・マーラー「グスタフ・マーラー」(中公文庫)
ナターリエ・バウアーレヒナー「グスタフ・マーラーの思い出」(音楽之友社
ド・ラ・グランジェ「グスタフ・マーラー 失われた無限を求めて」(草思社)

 

第1番 ・・・ 多感な若者が人生の美しさに目ざめ(第1楽章)、恋人を得て(第2楽章)、失恋して挫折し死んで(第3楽章)、天国に昇って新しい人生を始める(終楽章)青春の物語。冒頭の7オクターブのA音は衝撃的な効果をあげた。長い長い歌をオケが歌う。交響曲でこんな長い歌をオーケストラに歌わせたのは世界初。

第2番 ・・・ 第1番で死んだ英雄の葬送(第1楽章)。人生の振り返りと夢(第2楽章)。覚醒して人生の暗黒面(第3楽章)を見て、信仰の確信を得て(第4楽章)、最後の審判に向かい復活を遂げる(終楽章)。ベートーヴェン越えを目指した交響曲の大作。
(最近聞きなおして構造が分かった。著者の解釈に異論あり。生に大きな苦しみと痛み(第4楽章「原光」)を感じている〈主人公〉が葬送行進曲で地獄めぐり(第1楽章)。煉獄(第2楽章)で浄罪したあと、天の入り口で聖フランチェスコのありがたい(しかし聞き手がいない)説教を聞いて(第3楽章)天上に至るかを思ったら、天国はお前のいる場所ではないと叱責され(第4楽章)、地上へ落下(終楽章冒頭ファンファーレ)。天上のイメージを幻視(提示部)し元気を出して行進曲にのって山頂に向かう、途中で滑落しそうになる(終楽章冒頭ファンファーレが再現)も、持ちこたえて登頂に成功する(ここまで展開部。以後再現部)。天上から鳥の声、そして無伴奏の天使の合唱が聞こえ、続いてソプラノの天使が死んで甦ると伝えると、〈主人公〉の代弁者アルトが繰り返し、天使のソプラノと〈主人公〉のアルトが重唱して合体、天使のコーラスで「死んで甦るのだ」と唱和する。この〈主人公〉は第3番で蘇り、永劫回帰を実践する。第4番までマーラーは独身だったせいか、恋愛や男女の霊的合体のイメージはない。独身男性の〈主人公〉が霊的遍歴をしている。)

第3番 ・・・ 自然=愛=神を称える讃歌。(ここは片山杜秀の超人誕生描写説を取りたい。アルマと結婚してからグスタフはアルマが持っていたニーチェの本を捨てさせたという。指揮者はニーチェ思想に同意していなかったとみているが、俺はニーチェ反ユダヤ主義をグスタフが嫌悪したのだと解釈する/したい。)
(第1~3番は性格交響曲(sinfonia caracteristica)であると、俺はみた。性格交響曲(sinfonia caracteristica)はベートーヴェンの造語のようだが、器楽は性格(情念とか感情)を表徴するもので、気質(多血質とか憂鬱質などの4つの類型)を表現するというのは18世紀末では一般的な考えだった。この考えを継承したのがベートーヴェンであり、遠く離れてマーラーだった。性格交響曲は以下のエントリーを参照。)
ルートヴィッヒ・ベートーヴェン「音楽ノート」(岩波文庫)-2
柴田南雄「グスタフ・マーラー」(岩波新書)-2
片山杜秀の超人誕生描写説は下記エントリーを参照。
 笠原潔「西洋音楽の諸問題」(放送大学教材)-2 
(人間は死んで新しく生まれ変わる、それによって世界を変革できるというのは19世紀末に多くの人が共通に考えていた思想。ショウペンハウエル、ニーチェドストエフスキーなんか。WW1と2を経験することで、皆この考えを捨ててしまった。戦後生まれにはなんのこっちゃとなります。尚、一度死んで復活する別のタイプには、吸血鬼=不死者アンデッドがいる。こちらは神に見放されて人間に悪をなすもの。死んで復活するという思想はキリスト教信仰とセット。後者が欠けるととんでもないことが起こります。)
〈このあいだにアルマと結婚。他人の作品(ベートーヴェン、バッハ、シューベルトなど)を多数編曲。〉

第4番 ・・・ 「復活」のような大作を期待した聴衆への裏切り。皮肉がいっぱいで冷笑的な戯画(カリカチュア)にあふれた諧謔スケルツォ)。同化作用の「復活」に対して、曲への同化を拒否する異化作用の第1楽章。第2楽章は調子はずれのバイオリンによる「死の舞踏」。終楽章「天井の生活」の原題は「天国にはバイオリンがいっぱい」。狂った調子はずれがいっぱいの天国というイロニー。地上の悲惨な生活を嗤う天上の生活。(ここの解説は見事!)

第5番 ・・・ 暗から明への古典的な展開。でも第3楽章はワルツのパロディ、終楽章では批評家をバカにする自作歌曲を引用。(終楽章では前楽章の旋律を猛スピードで演奏する諧謔もある。全体として第2番「復活」のセルフパロディみたい。)

第6番 ・・・ スケルツォからアンダンテかアンダンテからスケルツォか。「明」から「暗」への実験。(勉強家の指揮者にしてとらえそこねました。俺みたいに「英雄の死から地獄落ち」という性格的交響曲とみれば無問題。楽章の順番問題もアレグロ(人生の春と暗雲)→スケルツォ(英雄の死)→アンダンテ(過去の回想)→フィナーレ(地獄の苦痛)と解決してしまうのだ。)

第7番 ・・・ 「暗」から「明」へ。「夜」から「昼」へ。わけのわからない音楽。(サブタイトル「夜の歌」の連想から、ワーグナー「トリスタン」の夜を考察しているが、引用されたド・ラ・グランジェはこの交響曲「夜」は「《トリスタン》における贖罪の『夜』、恋人たちの避難場とは似ても似つか」ない、「超-明晰な夜」「光の啓示よりも根源的な」夜であり、「目覚めない眠りのイメージ、死のイメージで」「この世の存在の前とあとにある夜」といっているのだ。そこは俺みたいにダンテ「神曲」三部作の第2「煉獄」とみればいい。第6番で「地獄」行きになった英雄が葬送され(第1楽章)、過去を回想し(第2楽章)、悪魔に嘲笑され(第3楽章)、地上を思い出し(第4楽章)、煉獄を抜けて天上に行く(第5楽章)のだ。なので終楽章の唐突な長調もストーリーにに即した適切な選択。2番「復活」をパロディにした5番のさらなるセルフパロディ。)
(第7番の特長。不気味と諧謔。真摯よりアイロニー。普通の裏を取る音楽。たとえば不気味なワルツ、大げさなノクターン、自虐する求愛の歌。明るい葬送行進曲。引用とパロディ。)

第8番 ・・・ 宗教を超えた汎神論的祝祭音楽。パロディ、諧謔、皮肉、冷笑、難解な比喩などがない素直な音楽。(非マーラー的音楽に戸惑うのと、ゲーテの「永遠に女性的なるもの」がわからないとのこと。そこは俺(略)第3「天国」とみればいい。天国では「パロディ、諧謔(略)」などの人間的なことが起こらない。信仰に包まれているので、正と反が対立する弁証法や対位法は存在しない。同じところを旋回・上昇するだけで、変化もない。音量と光の強弱がつくだけ。だから長いのに静止したような音楽になる。冒頭の「Veni」の音型は第2部のコーダで再現して、円環的な構造になっている。これも天国を現わしている。以上の特長から、この曲だけブルックナーとフランクの交響曲に近しい。)
〈このころにウィーンフィルとの折り合いが悪くなって、音楽監督を辞任。ニューヨークのオペラハウスと契約を結ぶ。年に何度も大西洋を横断し、休暇中に交響曲を作曲するというエネルギッシュな活躍をしていた。報知されたアルマが別の男と付き合うようになり、苦にしたマーラーフロイトの治療を受けたりする。〉

大地の歌 ・・・ 仕事と私生活が激変しエネルギッシュな暮らし。テキストに書かれた東洋的「彼岸」への憧憬。(楽曲分析より「大地の歌」はコルンゴルト、ツェムリンスキー、ショスタコーヴィチらをインスパイアしたという指摘が重要。イギリスでも20世紀前半に歌手複数名とオケの作品がたくさん書かれたが、マーラーの影響かしら。)

第9番 ・・・ 特別な人の舞台上の死ではない普通の人間の普通の死の瞬間を描く。
(ここの解説は表層的。俺からすると、「大地の歌」で青春を謳歌した人間(キャラ)が郷愁と諦念のうちに死んだのを受けて、葬送され(第1楽章)、人生を自嘲的に回想し(第2楽章)、死の舞踏に翻弄され(第3楽章)、あがきながら「死に絶えるように」消える(第4楽章)。この続きは第10番交響曲で。第3楽章ロンド・ブルレスケは死の舞踏なのだが、途中から第4楽章の無がちょっかいを出し、抵抗するがついに飲み込まれる/引きずり込まれるという流れ。次の楽章の楽想を先取りする趣向はめずらしい。他にはラヴェル弦楽四重奏曲の第2楽章くらい。)
〈第10番の第一楽章総譜と大量のスケッチを残して死去。死の三日前にも指揮をしていたので、とても突然の死だった。享年51歳。〉

第10番 ・・・ 未完作品を他人が補筆することの是非。第10番は興味深い復元版がたくさんでている。(聞いてみると、第7番以前の書法に寄せているので、大地の歌や第9番のような音響の革新性はあまりないけど。第3楽章のタイトルが「煉獄」なのでダンテ「神曲」に言及がある。俺みたいに大風呂敷は広げていない。第9番を受けて、虚無から人間が再生する。無から自然が生成するのは第3番と同じ、でも第3番のような喜びや輝きはない。まるで墓場でゾンビが蠢きだしたかのよう。以後も葬儀や墓場のイメージがつきまとう。)

 

 指揮者によるマーラー交響曲の分類。柴田などの先行研究者や評論家の分類を改変している。
1. オペラや交響詩でなく「交響曲作家」として出発(一番)
2. ベートーヴェン「第九交響曲』 への強い意識と、それからの離脱(声楽付きの二~四番)
3.新しい交響曲に対する模索と実験 (五~七番)
4.過去の交響曲の集大成 (声楽付きの八番)
(3と4で「アルマ交響曲群」という呼び方も可能?)
5.新しい交響曲(音楽)の始まり(大地の歌、 九番、クック版十番)
 音楽への強い一体化を求めながら、パロディ・諧謔・冷笑で突き放す語るにめんどくさい〈現代音楽家〉です。
(俺は、1.「英雄の死と再生」という物語を持つ性格交響曲(sinfonia caracteristica)の第1~3番と「さすらう若人の歌」、2.パロディとアイロニーの4.5番と「亡き子を偲ぶ歌」、3.第1次「神曲」三部作の第6~8番、(大地の歌はオケ付き歌曲だけど、性格交響曲の一種)、4.第2次「神曲」三部作の第9、10番、未着手の11番)という風に見てるんだ。そこらへんは柴田南雄「グスタフ・マーラー」(岩波新書)-2でも書いてた。)
 先に二人に言われてしまったが、マーラーは印象的なイントロの大家。出だし1分で聴衆にフックを打ち込みます。彼の技を分類すると、(1)不思議な和音(第1番、第2番、第9番の冒頭)、(2)大音響ファンファーレ(第1番、第2番、第6番の終楽章、第8番第1部)、(3)極端な弱音(第5番アダージェット、大地の歌終楽章)、(4)意表をついた楽器法(ティンパニソロで開始:第2番3楽章、第7番終楽章。金管楽器ソロによる開始も多数。ソロ・トライアングルの開始なんてのも。)、(5)出だしからわかりやすいサビ(第3番冒頭、ほとんどのスケルツォ楽章)。イントロと同じくエンディングでもこれらの技を使って聴衆の記憶に残らせる。新しい、うるさい、わかりやすいの三つを駆使して新音楽であることを示しました。長い曲でもイントロとエンディングが素晴らしすぎるので、感動が倍加します。彼の技に匹敵するのはベートーヴェンだけです。

 第9番の初演では専門の音楽家もとまどったらしいが、時間が経つとマーラーの音楽に反発することがなくなっていく。どころかろくに知らないでも、いきなり聞いて感激する人が増えてきた。古くは第6番の日本初演を聞いた柴田南雄だし、本書のふたりもそう(玉木はバーンスタイン指揮「大地の歌」のレコードで、金は第6番のコンサートで)。感激した時の感動は記憶に残る。でもそれを分析したり言語化しようとすると困難。これはベートーヴェンJ.S.バッハなどとは異なるところ。なので、マーラーはよく聞かれ、かつ語られることも多い作曲家になった。なので、こういう企画に人が集まる。
 マーラーを語りたくなるのは、生涯に何度も作風を変えてるため。違いが大きいので、「なぜ」と「どこが」を詮索したくなる。ブラームスシューマンでは交響曲作品が少ないので語ることが少ない。ブルックナーでは作風の変化を見るのは難しいので、編集者による版の違いを語る。あまりに些末なので、マニアでなければ関心を持たない。ショスタコーヴィチミヤスコフスキーになると社会主義と国家を調べないと語ることが生まれない。その点、マーラーはCD15枚くらいでほぼすべての創作作品を聞ける。手軽だし、時間がかからない。生涯はほぼ調べつくされ、モラビア人、ユダヤ人、世紀末、三角関係、フロイト、ヨーロッパとアメリカなど語りやすいテーマがいろいろある。怠惰な消費者には、マーラーは好き勝手言うのに都合がいい手ごろな愛玩物なのだ。俺がやってきたみたいにね。
 でもマーラーの死んだ年齢を大きく超えると、音楽に同化するのが難しくなって、年々興味が薄れるようになってきた。最近マーラー関連本をいくつか読んで、考えをまとめることができたので、もう十分。
 マーラーは青年のための音楽です。

 

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