odd_hatchの読書ノート

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フリードリヒ・ニーチェ「ワーグネルの場合」「ニーチェ對ワーグネル」(角川文庫)-2 「パルジファル」は「愚かな形式に對し、最高度の、最も悪ふざけたパロディーの亂暴狼藉」のサテュロス劇、なんだって。

2025/07/11 フリードリヒ・ニーチェ「ワーグネルの場合」「ニーチェ對ワーグネル」(角川文庫)-1 20世紀以降のワーグナー論の基礎になった重要論文。 1888年の続き

  

 「ニーチェ對ワーグネル」の「貞潔使徒ワーグネル」という章で、ワーグナーの「パルジファル」に触れた文章があった。この論文は全集で読むしかないので、長いが引用する。1951年初版の角川文庫版(訳者は秋山英夫)なので、旧字旧かなです。

  この際もちろん囘避できないのは、例のもう一つの問題、即ちあの男らしい(あと、あんなにも男らしくない)「田舎者の愚直」が、一體ワーグネルに何のかかはりがあったのかといふ事だ。 即ち、きはめて如何がはしい手段で彼に依って結局カトリック教徒にされてしまふ、あの憐れな悪魔で自然兒のバルジファルが、ワーグネルにどういふかかはりがあつたのかといふ事である……如何がであらう? 一體この『バルジファル』は本氣のものであつたのだらうか。といふのも、世間が彼を笑ひ物にしてきたことに對し、いささかも異を立てたくないし、ゴットフリート·ケラーもやはりさうだからだ……つまりこちらからお願ひしたい位の話だが、ワーグネルの『パルジファル』は浮かれた調子を出さうとしてあるのではないか、謂はば切狂言、サテュロイ劇であつて、悲劇作家ワーグネルがこれに依って如何にも彼に應はしく似つかはしい仕方で、われらに、また彼自身に、とりわけ悲劇に別れを告げようとしたのではないか、即ち悲劇性そのものに對し、これまでの戦慄すべき地上の嚴肅と地上の悲歎全體に對し、禁欲主義的理想の反自然における、遂に克服されるに至った最も愚かな形式に對し、最高度の、最も悪ふざけたパロディーの亂暴狼藉をやらかしたのではないか。『バルジファル』はたしかにとびきり上等のオペレッダの題材である……ワーグネルの『パルジファル』は、彼の彼自身に對するひそかな優越の笑ひ、 彼の最後の、最高の藝術家的自由、藝術家的超越の凱歌ではないか……自分を笑ひ物にすることを心得てあるワーグネルなのではないか……先程言ったやうに、さうお願ひしたくなるのだ。何故かと言へば、本氣に考へられたパルジファルなんて一體何であらうか。彼の中に(人が私に反對して言ったやうに)「認識、精神及び官能に對する氣違ひじみた憎悪の産物」を見る必要が實際あらうか。感覺と精神に對する憎悪一色の、一息の呪ひを見る必要があらうか。キリスト教といふ病氣に罹った、非開化主義的理想への改宗と歸順とを見る必要があらうか。そして最後には、これまでその意志の全力をあげて正反對のものを、彼の藝術の最高度の精神化と感覺化を……そして單に彼の藝術のそればかりでなく、彼の生活のそれをすらも……志して來た一人の藝術家の側からの自己否定、自己抹殺までも見る必要があるであらうか。嘗つてワーグネルがいかに感激して哲學者フォイエルバッハの足跡を追ふたかを、想起して貰ひたい。「健康な感覺性」といふフォイエルバッハの言葉……それは三十年代と四十年代には、多くのドイツ人……彼らは自ら若きトイツ人と呼んだ……にとつてと同様、ワーグネルにも救済の言葉のやうに響いたのだ。彼は 結局そのことについて學び直したのであらうか。といふのは、彼は結局そのことについて教へ直さうといふ意志を持つたらしく見えるからなのだが……生に對する憎悪が、フロベールにおけると同様、彼に君臨するに至ったのではないか……何となれば、『バルジファル』は、生の諸前提に 對する奸計、復響慾、ひそかな害毒の作品、一つの悪質の作品であるからである。……貞潔の説 教は反自然への使験にとどまる。『バルジファル』を道德性に對する暗殺計畫と感じないやうなすべての者を、私は軽蔑する。(角川文庫、P220-221)

 サテュロス劇(「サテュロイ劇」)は、古代ギリシャの演劇の一種。ディオニソス大祭で悲劇が競演されるが、一日に同じ詩人による悲劇が3本とサテュロス劇が1本上演されたとのこと。酒の神ディオニソスが登場する笑いありの演劇だったらしい。なにしろ1本しか残されていない(ほかに断片もいくつか)のでよくわからないらしい。古代ギリシャの文献学の俊英であったニーチェの説明は、この内容にそっているようだ。
 サテュロス劇を知らなくとも、ニーチェの揶揄はよくわかる。この「舞台神聖祝祭劇(ワーグナー命名)」はそれ自体が手の込んだ冗談。ワグネリアン聖典としてまつりあげるだろう作品そのものが、彼らの期待を裏切る仕掛けを施しているというのだ。
 エッシェンバハの「パルチヴァール」では、タイトルロールは神話の主人公らしく冒険をし、恋をし、戦闘を行い、遍歴において知恵をつけた。ときに子供っぽい言動が聞き手(多くの人はテキストを読むより朗読や朗唱を聞いたに違いない)を笑わせる。世界に笑いと救済をもたらすトリックスターの資格が十分にあるのだ。しかし、ワーグナーではまったくの木偶の坊。行動もしなければ言葉も発しない。すべてに受け身で他人の言われるがままに流される。そんな無能であるものが、「清らかなる愚か者」であるだけで、聖杯城を救済するのは全くの滑稽。あるいはそんな木偶の坊を教主にいだいて満足するアンフォルタスと聖杯守護の騎士たちも無知で無能。あるいはクンドリーも「ヒステリー(ママ)」。アンフォルタスもティテゥレルもクリングゾルも喜劇のキャラとみなすことができる(コンメディア・デ・ラルテのストックキャラにあてはめられそう)。オッフェンバックの喜歌劇「天国と地獄(地獄のオルフェ)」や「美しきエレーヌ」などに登場する神話キャラと同じく滑稽なキャラなのではないか。

2023/06/06 ヴォルフラム・フォン・エッシェンバハ「パルチヴァール」(郁文堂)-1 13世紀初頭に成立したドイツ騎士物語の最高峰 1210年


 そうすると、識者が「パルジファル」について延々と語ってきた高尚な哲学も、「最も悪ふざけたパロディーの亂暴狼藉」に他ならなない。
 引用した一節はそのままニーチェ台本によるサテュロス劇のようだね。これを読んで哄笑して、踊って、人間になろう。
(小宮正安「ベートーヴェン《第九》の世界」(岩波新書)によると、バイロイトはとても辺鄙な街。馬車で行くにもとても大変。周囲には娯楽施設がない。そこでワーグナーの楽劇を聞くために行くことは、巡礼や修行のようであり、宗教的要素をもっていたとのこと。そこで音楽祭を主催するワーグナーは宗教行事における司祭に似ている。ニーチェバイロイトという仕組みを嫌ったのはここにも理由がありそう。)
(よくいわれるように、ワーグナーの楽劇は幕の初めはおもしろいのに、退屈なところ・ドラマの動きなないところが延々と、時に一時間以上続く。うんざりしかけたところに、最後の10分に目覚ましい高揚した音楽になる。退屈という苦悩を経て歓喜にいたる。宗教的体験に当てはまるし、ロマン主義の神髄を体験することになる。)

(どうでもいいメモ。ジーバーベルクが監督した映画「パルジファル」のVHSについていた岩淵達治の解説を読みなおしたら、ニーチェが「パルジファル」をサテュロス劇といっているという指摘をみつけた。てもとに「ニーチェ對ワーグネル」が収録された「偶像の薄明」があるので、確かめることにした。手にして勝手にページを開いたら、まさに引用したところが即座に開いた。しおりを挟んでおいたとか、書き込みをしたとか、このページが開くようなことは何もしていないのに(別エントリーで全く触れていないのが証左)。こういうことってあるんだね。)

 

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