odd_hatchの読書ノート

エントリーは3400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2025/9/26

ジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ I」(集英社文庫)1-8 第1巻は午前の章。聖務日課のパロディで始まると、スティーブンは宗教と労働の意味を懐疑する。

 20世紀文学の大作を再読。今回の方針は、脚注をいっさい見ないこと。本文と注のページを行ったり来たりすると、読書のスピードが落ちるし、ストーリーがわからなくなるし、キャラの心理の進行具合がわからなくなるし。いいことがないので、注をみないことにした。
 前回の感想に章ごとのサマリーを書いたので、自分の居場所を確認するときに参照した。
2023/10/26 ジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ I」(集英社文庫)1.2.3  1922年
2023/10/24 ジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ I」(集英社文庫)4.5.6 1922年
2023/10/23 ジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ I」(集英社文庫)7.8 1922年

 この小説を知ったのは、20代前半に本屋で二巻本を見た時。二人の男が双方をもとめてダブリンの街を一日中さまようという話に少し魅了された。俺が妄想したのは、ドストエフスキーの「罪と罰」第1部のような観念小説か、グレアム・グリーンのスパイ小説か。とてつもなく高い峰にある小説ではないかと思った。なので勉強してから挑戦することにした。しかし存在を忘れて幾星霜。60歳をすぎてSNSに闘病中に本書を読んでいるという投稿を見つけて、過去の因縁を思い出し、「ダブリナーズ」「若い芸術家の肖像」といっしょに「ユリシーズ」全巻を買ったのだった。結局、二年間にどれも二回読むまでになった。
 
 再読中に思ったのは、ここに登場するキャラは今(21世紀)にはもう生きていないのだ、すでにこの世を去ってしまったのだということ。この感覚はとても奇妙で、たとえばドスト氏のラスコーリニコフやソーニャにそう感じることはない。もともとラスコーリニコフやソーニャは架空の人物で、この世に似ている人がいたことはないと確信しているから。でも、「ユリシーズ」に登場するキャラは上のような喪失感、死去を悼む気持ちを持ってしまう。彼らは特に文章で描写されているわけでもないし、登場するときに性格付けされているわけでもないし、強烈なエピソードを披露しているわけでもない。当時の言葉で、当時らしいふるまいをしているだけだ。それもとても卑俗で、欲望を隠さないで、自分のダメなところを隠さない。それなのに/だからこそ、彼らは20世紀初頭のダブリンにいた。ダブリンの街と人々にしっかりと根を下ろしていたと感じるのだ。まるで、素人がカメラで撮影したフィルムをみているかのよう。演出がないし、写すほうも写されるほうも知り合いだから緊張することもない。それだからフィルムに映っている人は今はもういないという感じになるが、ジョイスの「ユリシーズ」のキャラもそう。
(こういう感覚は「ダブリナーズ」と「若い芸術家の肖像」では持たない。「ユリシーズ」になってから作者が獲得した技巧なのだろう。)
 注を見ないことにしたので、なぜキャラがこんな難しいことをしゃべっているのかと思ったが、この時代は大衆娯楽産業はないし、ギムナジウムの古典教育が徹底していたので、彼らがしゃべることはいわば「常識」だったのだ。21世紀の日本人がエンタメやテレビ番組の話をするような気分で、当時の常識と流行をしゃべる。そうすると、引用されたのは古典だけではなく、当時のダブリンの流行もそう。注には出てこないような流行り歌やエンタメや時事問題を口にしている。この翻訳の注はブッキッシュでアカデミックなので、これらの流行までは調べつくしていないのではないか。
(西洋古典音楽にも訳者たちの知識は心もとない。このころ(1904年)、ポンキエッリが作曲した歌劇「ジョコンダ」が流行っていたと思えるが、とくに有名なナンバーを「時間の踊り」と訳されると興が覚めてしまう。通常は「時の踊り」。)
 そんなこんなで注をみないで、ストーリーにのめりこむようにするのもよい。著作権切れなので電子書籍では安く買える原文を見ると、ほぼすべてに注がない。日本の翻訳のようにアカデミックでないところで楽しもう。

 

 第1巻は午前の章。1の冒頭で朝起きたバック・マリガンが、ボウルや髭剃りなどをささげて、ぶつぶつつぶやく。

「重々しく、肉付きのいいバック・マリガンがシャボンの泡立つボウルを捧げて階段口から現れた。十字に重ねた鏡と剃刀が上に乗っかっている。はだけたままの黄色いガウンがおだやかな朝の風に乗って、ふわりと後ろへなびいた。彼はボウルを高く掲げて唱えた」(P15)

 カソリックのミサの真似事なのだが、それをイギリス国教会のマリガンがやっているのは問題。やはりスティーブンらカソリックへの揶揄があるのだろうなあ。あとこのシーンはワーグナーの楽劇「パルジファル」第1幕冒頭のパロディと俺は読んだ。

「――あがって来い、キンチ。あがって来いったら、このべらぼうなイエズス会士めが」(P15)

というのはグルネマンツの下記のセリフをとても荒っぽくしたものだ。

「おい!こら!そち達は森番のくせに・・・眠りの番までしておるのか・・・いい加減に朝ぐらい起きたらどうじゃ。」

 元神学生のスティーブンは、この日(1904年6月16日)、聖務日課のパロディで起こされ、その後宗教と労働の意味を懐疑する。この後のできごとでスティーブンはどんどん人嫌いになり、その一方で目立つような行動をとりだす。いまなら承認欲求行動といわれそう。

 

「7.アイオロス」は新聞記事か広告を模した文章。ヘッダのコピーがあって、そのあと文章が続く。初読のときにはそのように読んだが、再読では別の見方もできると思った。ストーカー「吸血鬼ドラキュラ」のような書簡体小説のパロディなんだ、と。すでに当時には、書簡体小説は古いスタイルになっていた。それでもストーカーは電報や新聞記事、日記、筆記したのや楼観蓄音機に口述した文章の書き起こしなど多彩な文体を使った。複数の視点を導入することで、キャラが把握していない事態の全貌を明らかにしようとしたのだね。それをジョイスはさっそくパロディにする。

 

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2025/08/21 ジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ II」(集英社文庫)9-13 第2巻は昼の章。理性の光が注ぐ昼から陽が落ちるにつれて、差別があちこちで顔を出す。 1922年に続く