2025/08/28 テア・フォン・ハルボウ「メトロポリス」(中公文庫)-2 大人の主人公たちの欲望はアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」と同じ死んだ女への追慕。 1926年の続き

映画第3部になると、3つのモッブが現れる。人造人間マリアによる指嗾で、都市の秩序を壊そうとするものたちだ。第一には、ヨシハラにいるエリート層の独身男女。
(人造人間マリアに欲情する男たち)
人造人間マリアを担いで、ヨシハラを飛び出し路上で踊り騒ぐ。

第二には、地下層にいる労働者たち。人造人間マリアのアジにのっかって、生活を苦しくしている機械を破壊せよとデモを始める。
(人造人間マリアの扇動に興奮する労働者)
彼らは工場長グロートが管理する操作盤を破壊する。

するとエネルギー供給がストップし、地上層が停電になると同時に、地下からの揚水を止められなくなり、地下層が水没する恐れがでてくる。第三は労働者とその配偶者がデモにいってしまったために取り残された子供たち。親と支援を求めて、彼らはさまよう。

三つのモッブがかってに動き、狂騒し、怒号を発し、アジをするのだが、臨界点を超えると彼らは一瞬で覚める。それは子どもたちがいないことが分かった時であり、秩序と安定を破壊する扇動をした人造人間マリアを火炙りにしたら(ここに中世ドイツの異端審問の記憶が再現されていることに注意)、人間の皮をかぶった機械が現れたとき。機械の扇動に乗せられた自分らを意識し反省の気分が現れると、大衆運動の熱気は覚めるのだね。そのような覚醒は独裁者ヨーにも訪れる。フレーダーが行方不明であり、痩せた男も見失ってしまったから。すでに都市の停電や騒乱を最上部の執務室から見ていたヨーは息子の喪失で虚無感に襲われる。彼は息子を探しに路上にでて、本当のマリアを拉致しようとしたロードヴァングと息子フリーダーが鐘楼の上で格闘するのをむなしく見届けるしかない・・・
そして全てが終わった後に、ヨーとグロートがフリーダーの仲立ちで握手する。冒頭に掲げられた格言(?)「頭脳と手を繋ぐものは心でなければならない」が実現されるのであった。
めでたしめでたし、といいたいところなのだが、初見の時から引っかかる。ハルボウとラングは映画の数年前にアメリカを訪れ、大量消費とマスメディアの社会を見てきた。その嫌悪感が小説と映画に反映していると見た。反資本主義、反機械が全体を貫く主張で、そのようなモダンに対抗するのが古層にある宗教と民族の歴史であるわけだ。現在は、地上のエリート層と地下の労働者層に分断されているが、それは「心」の仲介によって一つの共同体になることができる。息子フレーダーの仲介が頭脳である父ヨーと手であるグロートら労働者を結びつけ、家族的な関係を持つことによって。
新しい社会から排除された人々(ヨシハラに入り浸っているエリートの独身男女とか、ヨーの秘書たちなど)の行く末が気になる。それにまして「心」がエリートと労働者を仲介して共同体になるというところ。彼らの階層はまざらないし、生活や所得の格差は埋まらないし、社会保障も整備されない。それでもメトロポリスに集結し統合する。映画の出来た1927年の数年後にはナチスができた。ナチスによる国家統合のやり方や理念は小説と映画の「メトロポリス」にそっくりなのだ。フリーダーがヨーとグロートを握手させるのは、ヒトラーがビスマルクと労働組合をつないでいるように見えてしまう。
小説と映画のメトロポリスをしっかり読む/見ると、1920年代のドイツ知識人が全体主義運動に取り込まれていくのがよくわかる。アメリカは空前の繁栄ではぶりがよいが、その素行はどうにも見苦しい。しかしドイツは多額の賠償金支払いのために投資が進まず、インフレが続き、生活が一向に楽にならない。政治家は無駄話ばかり、労働組合は仕事をしないでデモとストライキ。こんな国には未来がないしそこにいる〈おれたち〉には価値がない。そういうところから「心」や「民族」で統合される古代ゲルマンの偉大な姿を夢想し、実現してほしいと願うようになる。こういう心理の過程と政治運動のシミュレーションを見ているようだった。
ハルボウの書き方はとても独特。映画の脚本ではないし、小説でもない。全体状況を説明するパラグラフがなく、キャラクターたちの議論もない。なので、映画を参照しないと、筋がよくわからない。きわめて好意的にみれば、ジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ」の第1部の文体で書いたアクションストーリー。
テア・フォン・ハルボウ「メトロポリス」(中公文庫) → https://amzn.to/40XEmBF https://amzn.to/3IAQSAY
2025/08/26 テア・フォン・ハルボウ「メトロポリス」(中公文庫)-4 1920年代ドイツで作られた「全体」志向で予言的でユートピア的で黙示的な大作のひとつ。 1926年に続く