odd_hatchの読書ノート

エントリーは3400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2025/9/26

フランツ・カフカ「変身」(角川文庫) 「一匹の巨大な毒虫」に変身して「いないもの」にされるグレゴールくんに起きたことはマイノリティや無国籍者におこること。

 1990年代初頭に角川文庫が長らく絶版・品切れになってたカフカをまとめて復刊した。全部買ったのだが、1950年代の翻訳はどうにも読みづらい。おかげで翻訳者はもちろん、カフカにも悪印象を持つようになってしまった。ずっと敬遠。
 でも、中編「変身」ならば読めるだろうと、再読。高校時代に読んでなんのこっちゃと思ったが、今度はいろいろ考えることがあった。


 巡回セールスマンのグレゴール・ザムザくんはある朝目覚めると、「一匹の巨大な毒虫」に変わっているのに気づいた。人のことばはわかるがことばを発せず、なによりグロテスクな姿が他人に嫌悪を催させる。家族のだれも彼の介護をしようとしない。ときにリンゴをぶつけて憎悪があることを示す。父と母、妹の4人暮らしで、グレゴールくんの収入で皆が暮らしていたが、突如収入が絶たれてしまう。三人はそれぞれ仕事を見つけ、グレゴールくんをほったからしにする。

 ものすごく多くの人が「変身」のことを語っているので、特に俺から追加するようなこともないな。思い付きをメモで。

・冒頭からグレゴールくんの3人称一視点で語られる。朝目覚めた時に「一匹の巨大な毒虫」である自分を発見するというのは、彼の認識ではそうなのだろうが、俺からするとそのような認識になる兆候はずっとまえからあったはず。実際、セールスの仕事から帰ってきても部屋に引きこもるようになっていたというから、けっこう前からの症状だった。それが「ある朝」目覚めると異常を知覚したのだった。認識の転換点がその前日にあったのだね。似たような小説はドスト氏の「二重人格(分身)」やPKDにあるので、カフカの「変身」はその間にある多重異常人格もののひとつ(で、もっとも有名なもの)。

・そして途中から三人称になる。確認すると、グレゴールくんが「家族の話が金をかせがなければならない」というのを聞いて、「恥辱と悲しみのあまり身体がかっと熱くなる」ときから。ここで語り手はグレゴールくんへの共感を棄てて、冷徹な観察者になる。グレゴールくん自身もこのあたりから感情をなくし、自分にも世界にも無関心になっていく。グレゴールくんの認識システムが「人間」ないし「人間らしい」なにかではなくなっていくのだ。

・俺が連想したのは、グレゴールくんのように身体が「一匹の巨大な毒虫」に変身することはおこらない(上のような多重異常人格という解釈でなければ)が、一晩にして人間が人間ではないなにか、人権を持つとは思われないようなおぞましいなにかになることはないことではない。いや近代になってからしょっちゅう起こるようになった。たとえば、業病にかかっているのが発覚したときとか、反共政策のもとで「アカ」とみなされたときとか、反ナチス法ができたときのユダヤ人であるとか、無国籍者になって法と行政のつながりが切れた時とか、隣国の一方的な侵略戦争で所属していた国家の機能が喪失してアイデンティティを失った時とか、言葉のわからない〈外国〉に亡命して一人で生きなければならなくなった時とか。事故や病気で動けなくなった時とか(江戸川乱歩の「芋虫」を参照)。なので、「一匹の巨大な毒虫」になったグレゴールくん、不条理だったね、かわいそうだったねで済ますわけにはいかない切実さがある。なにしろ実の父に投げつけられたリンゴが体表で腐ってそれが原因で死んだのだし。そのような死は、ナイジェリア・オランの街でたまたまであったフランス人にピストルで数発撃たれて死んだアラブ人に起きたことといっしょ。あるいはいきなり国家の保護が喪失して資産を失ったWW2の満州の開拓日本人や沖縄の人びとといっしょ。

・そのようなマイノリティにされると、社会も家族もいっせいに無関心になり、無責任になる。グレゴールくんの勤め先の上司は彼の遅刻を叱責するためにきたが、姿をみたら逃げ出す。そのあといっさいの面倒をみない。家族ですら、まともに介護をしようとせず、室内に閉じ込めて放置する。そりゃおぞましい姿だし、動いた後には粘液を残していくというのは困りもの。でもそれにしちゃあねえ。

・しかし、家族の全収入を担っていたグレゴールくんが仕事ができなくなった後、残った家族が連帯して活動的になっていく。収入源がなくなったことによって、各人が自立しようとする。何とも皮肉なこと。もしかしたら、カフカは自身の姿をグレゴールくんに投影していて、自分のことを社会では無用の人、存在しなくてもいい人と思っていたのかもしれない。将来の自分の死をグレゴールくんを通じて描こうとしていたのかなあ。近代の自我は肥大化していくのだが、ある傾向の人は自分の存在を無意味に思って命を粗末にみるようになる。そういう傾向を暗喩しているのかなあ(その早い例がドスト氏の「地下室の手記」の語り手)。

・もういちどもどって、別の解釈をする。グレゴールくんは「一匹の巨大な毒虫」に変身したと思い込んで、引きこもりになった疾患者であるとする。外に出てこないし、口を利かないし、家族との関わりに怒るだけで、食べることもほとんどしない。会社にも友人にもグレゴールくんに関心をもつものはいない。どんどん孤立していく。上記のドスト氏やPKDの小説では、グレゴールくんみたいな人をどうにかしようとする他人が現れる。でもグレゴールくんにはそのようなひとがいない。単に「厄介者」とされるだけ。グレゴールくんは最初のころこそ家族や上司の反応を気にしていたが、途中で(上記の視点が変更されてから)感情をなくして、なんとも思わなくなる。彼の自分への無関心、肉体の嫌悪はほんとうに恐ろしい(作者不明の「O嬢の物語」を参照)。

・グレゴールくんの無関心に家族も無関心と無責任で返してくるから、彼の行く末はほんとうに悲惨。こうはなりたくはないものだ、と思いながらも、老化で身体の動きが制限されるようになり、意思疎通がむずかしくなると、誰でもグレゴールくんのようになる。その時〈この私〉はどうする?

 

フランツ・カフカ「変身」(角川文庫) → https://amzn.to/3TOVk1m https://amzn.to/3GzmEOh https://amzn.to/46Pqopg https://amzn.to/4eZh3NS https://amzn.to/44F3OOX