odd_hatchの読書ノート

エントリーは3400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2025/9/26

澤田典子「アテネ 最期の輝き 」(講談社学術文庫) パックス・マケドニアで対外戦争ができなくなり内政に関心を向けられたからできた古代ギリシャの民主政最後の日々。

 橋場弦「古代ギリシアの民主政」(岩波新書)では、ソクラテス裁判以降に民主政は最盛期を迎えたと指摘している。でも当該書では詳細が書かれなかったので、タイトルを見て読んだ。


 たしかに前338年から前322年にかけて民主政が行われていた。俺が見るところでは、特殊な条件があったためだった。そのことをつかむためには、古代ギリシャの歴史を通観することが必要。詳細は下記リンクで。

odd-hatch.hatenablog.jp

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 本書の著者によると、アテネはこの時期(おおよそ前600~前338)は慢性的な戦争状態だった。海を隔てたペルシャが膨張してくるのを阻止し(ときに遠征し)、ギリシャの外のポリスと同盟を結んだり敵対して戦争を行ったり。数年に一回は戦争を起こしている。あいにく常勝でも不敗でもない。それでも民主政は行われた。僭主政になっても民主政が復活した。
 さて、前338年がメルクマールになるのは、アテネが新興勢力マケドニアとの戦争に負けたからだ。時の王フィリポスはなぜかアテネに寛大で軍を駐留せず、アテネ市民による自治を認めた。フィリポスの死後立ったアレクサンドロスギリシャのポリスに関心を示さず、ペルシャから西アジアへの大侵攻を開始する。それがアテネの民主政が最盛であった時期に一致する。
 僥倖はマケドニアが寛大だったこと。同じようにマケドニアと戦争して敗北したテーベとスパルタは破壊されていた。それまでアテネは対外政策を重視しなければならなかった(かつ戦争費用は市民の個人負担)。それがパックス・マケドニアの中にいることで、平和と安定を享受することができた。そして民主政の関心は都市の中に向けることができた。民主政のしくみはそれ以前からのものを継承したので、大枠は変わらない。注目するのは、反僭主政法ができたこと(石碑が1952年に発見されてほぼ全文が読める)。評議会は一部勢力に乗っ取られないように監視をするようにした、と俺はみた。また民主政転覆罪もできた。
 順調に見えたが、大混乱が起こる。前324年にアレクサンドロスが32歳で夭逝してしまった。次の王を指名していたなかったので、マケドニアは混乱する。アテネの民会は反マケドニアを決議し、翌前323年にラミア戦争を起こした。ここでアテネの海軍が壊滅する大敗北、そして陸軍にアテネは占領された。古代ギリシャの歴史で初めてのできごとだった。マケドニアアテネの市民権を制限(市民権を持つものは21000人から9000人に削減)。寡頭制を強制し、マケドニア軍が常駐することになった。以後何度か反乱が起きたが、都度鎮圧され民主政が復活することはなかった。
 以上の事情を、反マケドニアの政治家デモステネスの生涯をたどることでみる。雄弁家で有能な政治家であり、どうじに収賄疑惑に関与するなどずっと毀誉褒貶があった。俺には人の評価はできないが、とても人間くさい人ですね。英雄でも天才でもない。日和見と機会主義を使い分けながら、小事の実績を積み上げていったひと。ちなみに、デモステネスと同年生まれで同年に死亡したのが哲学者のアリストテレス。この人は若いときに少年アレクサンドロスを教育した。そのためにラミア戦争の前に親マケドニアとみなされて、アテネ追放の刑を受けた。
 古代ギリシャの民主政は確かにすごい。でもそれを継続するには、平和であること、市民(ここでは参政権を持つもの)が進んで政治に参加することが前提となる。市民が怠惰になると、民主政は簡単に別の支配形態になる。それを民主政に戻すのはとても大変。

 

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