odd_hatchの読書ノート

エントリーは3400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2025/9/26

ソポクレス「トラーキスの女たち」(KINDLE) ヘラクレスの浮気は妻の不興を買い、当人が死亡する事故を引き起こした。家庭を大事にしようという教訓劇。

 ヘラクレスギリシャ神話の勇士。さまざまな土地に冒険しては、怪物や邪神、害獣などを退治してきた。その冒険は有名であり、のちの西洋文学に影響を残す。
2020/07/28 アガサ・クリスティ「ヘラクレスの冒険」(ハヤカワ文庫)-1 1947年
2020/07/27 アガサ・クリスティ「ヘラクレスの冒険」(ハヤカワ文庫)-2 1947年


 さて、男はヘラクレスと荒くれものの男性集団による冒険とロマンスに心沸き踊るのであるが、女からするとどうだろう。いつ帰ってくるのかわからないし、帰ってきてもすぐに旅立ってしまうし、家庭の主として家族と団らんを過ごすわけでもない。膨大な人が訪れ、その対応に家の者は追われてしまい、落ち着くことができない。家の留守を預かる者からすると、とても厄介な相手だ。英雄だけに大衆人気があるので、彼を責めるのもはばかられる。
 さて、デーイアネイラは長じて嫌な男に求愛されたが、ヘラクレスと結婚することになった。望まぬ結婚をしないで済むのは良かったものの、英雄の留守を預かるものとしては不満がたまる。神託では今度の遠征は、ヘラクレスの一生が終わるか、余生を安穏に暮らせるかを決めることになるという。この旅が終えたらもう出ることはないとヘラクレスは言っているので、帰還を待ち焦がれている(以上前史)。ヘラクレスは無事に帰ってきたものの、捕虜にした女たちを連れ帰ってきた(彼女らを収容したのがトラーキスで、このタイトルの由来)。その中に若い美貌の娘がいる。聞くと、娘はオイカリヤ王の娘イオレーであり、ヘラクレスは彼女に恋慕し、家に住まわせたいので、捕虜を連れてきたのだった。使者や家来に何度も念押しして、このことが事実と知ると、デーイアネイラは策を弄する。ヘラクレスが退治したネッソス(という半人半馬のケンタウロス)の血がついた着物をヘラクレスに着せよう。それは浮気防止の薬であるのだ。ところが着物を着たヘラクレスは突然苦しみだす。デーイアネイラがのちに疑心にとらわれたのも必定、なんとネッソスの血にはヒュドラ(水蛇)の猛毒が混じっていたのだった。ヘラクレスの苦しみを知ってデーイアネイラは自害する。危篤状態のヘラクレスは息子ヒュッロスに自分の葬儀の手順を伝え、さらにヒュッロスにイオレーと結婚しろと命令する。驚愕するヒュッロス。息子からするとイオレーは父母の死の原因になった女、むしろ復讐の相手ではないか。しかし英雄の言にはさからえず、ヘラクレスが息を引き取るのと見守る。
 オイカリヤ王の娘イオレーにはセリフがなく、劇では無視される。拉致誘拐され地元から引き離されただけでなく、結婚相手も誘拐犯によって決められる。およそ自由と表現を奪われた存在。男性社会では女は男への報償なのだということがよくわかる。
 この家庭不和の劇、男の浮気を女の視点で描くところが重要。ギリシャ劇は年一回のディオニソス大祭で上演され、それを見ることはアテナイ市民15,000人の義務であった。そうすると、市民は男であるのでヘラクレスに感情移入して劇をみるだろう。なかにはヘラクレスと同様の浮気をしているものもいるはず。彼の背筋は凍るのであろう。すなわち、神話の時代、英雄が暴れまわる時代であっても男の浮気はこのように罰せられるのである。その上ヘラクレスのような英雄であっても、苦しみに満ちた死を迎えなければならない。古代ギリシャの民主制社会では男女の同権はありえないが、男が女をいたわらねばならない、家庭を大事にしなければならないと教訓を得るのである。
(男のマチズモやミソジニーを批判する劇にはアリストパレスの「女の平和」があった(未読)。たぶんこちらの劇では死者はでないので、コメディになるのだろう。ソポクレスではヒーローが死ぬので悲劇になる。観客である市民への効果は同じだ。)
 とはいえ男女同権にならないのは、女の浅知恵を揶揄しているところ。デーイアネイラの自害が夫への不満に原因があるのではなく、自分の過失に対する責任を取るかのよう。そのために、男の浮気責任が薄れてしまった。
 また双方望まない結婚をすることになるヒュッロスとイオレーの若いカップルの行く末も不安。うまくいかないだろうなあ、双方別れたがっているだろうがそうさせないアテナイの男社会があるのだろうなあ、ヒュッロスが英雄によく似たマチズモの持ち主であったら父母と同じ災厄・悲劇が次の世代にも起こりそうだなあと暗澹とした気分になってしまう。
 ヘラクレスの死に哀悼の気持ちが起こらないのは、上記の理由。彼は長い長い悲嘆を述べるが、早く殺してくれと悲痛に訴えるさまは、のちのワーグナーパルジファル」に登場するアンフォルタスのようだった(当然影響関係は逆です)。
 wikiにも読んだテキストにもいつ頃書かれたかは書いていないが、たぶんソポクレスが若いころ。

 

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