odd_hatchの読書ノート

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シャルル・バルバラ「赤い橋の殺人」(光文社古典新訳文庫)-3 無神論と「法に罰せられないのであれば、人間はすべてが許される」は19世紀フランスの流行思想。

2025/10/27 シャルル・バルバラ「赤い橋の殺人」(光文社古典新訳文庫)-1 19世紀半ばのフランスの状況について 1855年
2025/10/24 シャルル・バルバラ「赤い橋の殺人」(光文社古典新訳文庫)-2 気難しく激高しやすいクレマンは積極的無神論者で、過去を隠す。妻の死と自分に似ていない息子に耐えられない。 1855年の続き

 「自殺」したとされる証券仲買人のティヤット氏は嫌な人物だった。金儲けにかまけ、放蕩の限りを尽くし、他人の尊厳を認めない。卑劣漢なのだ。彼の悪事が露見しそうになったら、ティヤット氏は従業員と家族を捨て、金をかき集めてロンドンに逐電しようとする。
 彼の部下でいたぶられてきてクレマンは、こんなやつは世の中にいても仕方がないと思っている。なんとなればクレマンは積極的無神論者。死後の救済や霊魂不滅を信じることがないので、重要な問題は現世だけにしかない。そうすると確実なものは金だけであり、金儲けを邪魔するのは法だけである。とすれば法に罰せられないのであれば、人間はすべてが許される。そのような強さと力を持った人間はなにをしてもよいのだ。そこでクレマンは強欲と畜生の欲望をもって、働いて得た金をさらに増やすべく、起業を続け、他人を出し抜いて成功を収めたのである。
 クレマンは他人とのかかわりを立ち、孤高であることによって、神や人の掟を踏み越えたように見える。しかしティヤット氏によく似た自分の息子が、クレマンの罪を弾劾し続ける。息子の存在そのものが彼の悪の告発なのである。妻ロザリーは自分の罪を告発されることに耐えきれなかった(息子の顔が他人そっくりなのは不倫のためではない。当時信じられた魂の転生で説明可能。ロザリーは夫クレマンに秘密をもっていない)。クレマンは罰を引き受けようとする。ポイントはクレマンは自分の犯罪に対しては罪意識をもっていない。法が犯罪と認めていないから。彼が罰と思っているのは、犯罪の告発を受け続けるという苦しみを感じることなのである。こうして孤立しアトム化しても苦しみが彼を追いかけ続ける。彼はフランス(犯罪現場)から逃亡しなければならない。アメリカに行く。
 彼は逃亡し続けるが自殺することは考えない。無神論者であれば自殺は許されるはずである。でも自殺は無神論を選び取った自分への裏切りにほかならない。アメリカで彼は儲けた金を慈善につぎ込むが、彼の罪と罰意識が消えることはない。生きていることそのものが永遠の地獄になったのだ。
 以上が俺の見立て。何かに似ていない? そう、ドスト氏の「罪と罰」。その指摘をしている解説を読まないでここまで書いた。これから解説を読む。

 

 シャルル・バルバラは1817年生まれ。ボードレールと親交があり(詩人の未発表の詩を本作で引用)、優れたバイオリン奏者でもあり、「ウィティントン大佐」1858はヴェルヌに先立つSFだともいう。1866年没。享年49歳。その年に流行ったコレラで家族を失い自殺した。死後忘れられたのは、カソリックの国フランスでこういう死に方をしたせいだろう(バルバラプロテスタントだったという)。
 解説者かつ翻訳者は本作を、1.探偵小説、2.恐怖と超自然の暗黒小説(ロマン・ノワール)、3.哲学的心理小説の3つで読めるという。1と2は当時の流行で説明可能。3のところで、「神が存在しなければすべてが許される」という神に対する〈反抗〉の思想は当時流行していたという。社会の動向を反映してつくったのが、この小説なのだろう。
(ドスト氏「罪と罰」とのかかわりは別論文を参照するようにとのこと。英文のようなので探し出して読むのは断念。設定や思想やキャラ造形までドスト氏は「赤い橋の殺人」を相当に意識していたと俺は判断。結末のつけ方を変えたのも、バルバラ作に似せないようにする工夫だったのかも。)
 解説者がいうようにバルバラは真摯。積極的無神論者が登場しても断罪することはない。といって安息を与えることもない。クレマンの「罪と罰」に決着をつけないでいるのもやむなし。その先は読者が考えるべき、となるのだが、キリスト教に無縁な極東の島国の人にはわかりにくい問題だ。

 

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