odd_hatchの読書ノート

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「西脇順三郎詩集」(新潮文庫) 西洋古典教養をもつ詩人は自我やエゴに固執しないし、説教も演説もしない。そこが心地よい。

 人生三度目の読み直しは老年に入ってから。およそ20年前の感想は以下。
 「西脇順三郎詩集」(新潮文庫)


 高校生の時の難解さはとうに消え、日本語の美しさを堪能する。
 60代の半ばに近づくと、もう〈この私〉が私であることは大きな問題ではない。むしろ自我とかエゴとかに固執するのはうっとうしい。デカルトの「われ思う故にわれあり」も哲学の大事な問いかけになっていることは納得しても、もうそろそろその問いもおしまいにしましょうという気分。その気分で詩を読むときに(俺は詩のよい読み手ではないが)、〈私〉〈俺〉〈余〉〈我〉ときに〈われわれ〉がでてくると、もう共感ができなくなってしまう。まあランボー「地獄の季節」みたいな特異な〈我〉だったら、ちょっとはきちんと読もうという気にはなる(なお、ランボーの詩想には植民地主義と差別思想、くわえて当時流行りの吸血鬼小説のイメージがあると考えている)。
 そうすると、西脇の〈私〉〈俺〉〈余〉〈我〉が出てこない詩が好ましい。とてもまれに〈私〉はでてくるが、たんに観察する視点を示す記号程度の扱いで、〈この私〉の重大性を意味するものではない。なので〈私〉に由来する自分の過大評価もないし、昔はよかったの感傷癖もないし、俺は悪くないの自己弁護もないし、ダメ人間と自嘲する自己卑下もない。風景や景色に出てくる事物と同じくらいのどうでもいいもの(無視してもいいし、あって気になったらちょっと観察してみて忘れるくらい)としている。
 また、詩を書くと、言葉の普遍性や一般性に溺れて夜郎自大になって、自分がいるところから飛び出して天空や観念に飛翔するのものだ(それがうえの〈この私〉の過大評価・感傷癖・自己弁護・自己卑下などになる)、あるいは読者にむかって見栄を切ったり、説教したり、演説したくなるものだ。明治から昭和なかごろまでの日本の詩人によくみられる。この詩人はそうしない。観念と形而上学に近い言葉が出て、語句が哲学的になりそうになったら、すぐに地面に落とす。たとえば、「宝石の眠り」の一部。

「人間の最後の欲望は
エテルニテの欲望だ
あけびの青さが見たい」

 落語のオチかよとつっこみたくなるが、落語と違うのはこの語句にはお客さんの存在がない。かぎりなく独り言。なのでオトしても、作者にはテレも、してやったりの感もない。単に言葉を書き連ねるだけ。人生の観照もないし、他人への見栄や説教もない。その種の言葉に食傷している俺には、この態度は心地よい。
 では作者は枯れた俳人のような存在なのか。近しいけれど、この人は西洋のモダニスト。西洋の古典教養の持主。西洋を歩いて風土を知っている人。そのせいか、詩のそこかしこにこれらの教養を示す固有名がたくさんでてくる。ギリシャ神話と悲劇。19世紀後半から20世紀前半のモダニスト。それらの作品と作者の名前が頻出する。再読して驚いたのは、ジョイスが出てきたこと。そういう目で「失われた時」の最後のほうを読む。

「ねむりは永遠にさまようサフサフ
永遠にふれてまたさまよう
くいながよぶ

しきかなくわ
すすきのほにほれる
のはらのとけてすねをひつかいたつけ
クルヘのモテルになつたつけ
すきなやつくしをつんたわ
しほひかりにも……
あす あす ちやふちやふ
あす

セササランセサランセサラン

永遠はただよう」

 

 これはジェムズ・ジョイス(と詩人は表記)の「ユリシーズ」の最後の章「18.ペネロペイア」の見事な換骨奪胎であることがわかる。たぶん1950年代に「ユリシーズ」は専門家ばかりが読んでいたぞ。読んでいる日本人などそんなにいないぞ。その数少ない読者がパスティーシュを書けるなんて。
 他にも固有名が多数登場。これが心地よいのは、詩人は彼ら先人を崇めたり敬意を表したりするのではない。ごく普通の人物と同じようにしていること。なのでキイツやジューピテルら(いずれも詩人の表記)が釣り人やおばさんなどと等値される。あるいは多摩川や江戸川がギリシャの地名といっしょにならぶ。「第三の神話」の途中。

「今日ほど小川さんは
マネのかいたマラルメに似ている
ことはなかつた今日は実に似ている
二階の書斎にあがつた
ヴァレリの書斎のようにせまい
窓から柿の木を上からみおろすのだ
メルヴィルの白鯨を読むに適するところだ」

 読者はここに出てくる固有名を聞いた/見た途端、注釈抜きで出典がわからねばならない。詩人はそれを要求している。それを知らない高校生にはなんのこっちゃになるのも当然(かわりに西洋の教養主義への憧れが醸成されたのだ)。でも知ってから読み直すと、この書斎や本が自分の読書の経験からうまれた具体的イメジ(詩人の表記)になって、わずかな言葉の連なりから想像がおおいに広がる。詩人のイメジに合致しているかどうかはわからずとも、イメジの広がりを楽しむ。
 そんなこんなでこの詩人の作品はインテリ、ディレッタント、知的エリート向け。一般大衆は眼中にない。詩人は存命中にノーベル文学賞の候補になったらしいが、選定委員からすると極東のディレッタントが西洋に詳しく親和的である(ちょびっとジャポニズムとエキゾティズムの香りもする)ところが気になったのだろう。
 おもしろかったのは、植物の固有名にこだわっているのに、頻出するのは「薔薇」と「蘆(あし)」。これらは具体的な種や個体を示していない。西洋事物の象徴として現れ、雰囲気をつくるためだけの言葉だった。詩人といえど通俗イメジから逃れることは難しいのだね。

 

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