原民喜は1945.8.6の広島原爆の被災者。ここでは被爆とその後を書いた代表作二つを読む。
夏の花1947 ・・・ 妻を亡くした中年男(書かれていないが高校教師のため徴兵されていないらしい)が1945年8月6日の広島にいる。半裸で起きたばかりに「ピカ」にあう。崩れた家から逃げ出し、介護所で数日をすごし、近くの親戚の家に疎開する。数日のできごとが書かれる。「ピカ」の圧倒的な威力を前にすると言葉はまずしい。それまで人間の営みがあったところがなにもなくなる。人、モノ、景色が失われるたのに、「何もない」としか書けない。そのうえ、感情は鈍麻し、自分の体験していることが、スクリーンに映った映像を見るかのように、なにもかも他人事であるかのようにしか感じない。そのうえ自分に起きた異常、怪我、体調不良にも無関心。なので、このレポートはたんたんとした筆致で書かれる。
そこに読者は想像力を働かせなければならない。爆心地に近い人びとが黒い皮膚をして顔や身体を膨らませているのは強烈な熱線で焼かれたため。「水をください」というのは身体の水が蒸発して失われているため。外傷がなくても数日後に毛が抜けてくるのは放射線障害のため。場所があいまいなのは、建物が焼失ないし倒壊してランドマークがない平地になっているため。そこには多数の人びとが苦しんでいるが動ける人もなにかの傷害があるので十分なたすけができない。
「負傷者の恢復もはかどらなかったが、元気だったものも、食糧不足からだんだん衰弱して行った。火傷した女中の腕はひどく化膿し、蠅が群れて、とうとう蛆が湧くようになった。蛆はいくら消毒しても、後から後から湧いた。そして、彼女は一カ月あまりの後、死んで行った。」
一夜たてば呻いていた人も亡くなる。死体が転がっていて放置されている。周辺の町から助けに来る人がいるが、物資も手も何もかも足りない。
「ギラギラと炎天の下に横わっている銀色の虚無のひろがりの中に、路があり、川があり、橋があった。そして、赤むけの膨れ上った屍体がところどころに配置されていた。これは精密巧緻な方法で実現された新地獄に違いなく、ここではすべて人間的なものは抹殺されたとえば屍体の表情にしたところで、何か模型的な機械的なものに置換えられているのであった」
想像力の限りを尽くした地獄の描写はダンテ「神曲」第一篇に如くが、それすら生ぬるいというしかない。我々のような(国内)戦争を知らないものは、できる限り多くの映像やテキストで、この日の広島(および9日の長崎)で何が起きたかを知らなければならない。
心願の国1951 ・・・ 一人暮らしらしい中年男のモノローグ。そろそろ飢餓の危機はなくなり、闇市も消えて落ち着きを持つようになったころ。焼跡の撤去が終わって、かしこで再建の物音が騒々しくなっていたはず。再生の息吹はあったのに、この男の心象はとても寒々しい。というのは、彼はどうやら妻を亡くしているらしいだけではない。彼は衝撃を経験してしまったから。あの日の圧倒的な体験は言葉をなくす。感情を鈍麻させる。それからしばらくたつと鈍麻した感情は激しい揺り戻しがくる。日常をそのようにみることができない。
「あの時の衝撃が、僕や僕と同じ被害者たちを、いつかは発狂ささうと、つねにどこかから覘つてゐるのであらうか」
すると、彼はあの衝撃のあと生きていることに実感を持てない。いま見ているものは実体を伴っていないみたい。むしろ、あの衝撃の前に亡くなった妻やあの衝撃による死者たちの方が彼に近しい。
「人々はみな地下の宝庫を夢みてゐるのだらう、破滅か、救済か、何とも知れない未来にむかつて……。」
文学としての原民喜は大江健三郎がいくつも書いている。たとえば下記。
大江健三郎「同時代としての戦後」(講談社文庫)
この大災厄について何事か語る言葉はもっていない。サマリーを書くまででおしまいにする。
俺としては、この先の未来で核兵器・原水爆が使われないようにするために、声をあげることを続ける。作者原民喜の不安恐怖にたいして、そうではない社会をつくりますと応えたい。
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