ツルゲーネフ「あいびき」1888 ・・・ 元はツルゲーネフが1852年に出した短編集「猟人日記」の19編目。それを二葉亭四迷が1888年、24歳で訳した。もとよりこれが西洋文学の初訳ではない。それ以前にもたとえば東海散士「佳人の奇遇」が訳されていた。でも人名や地名を日本のものにしたり、漢文読み下し文にしたりだった。二葉亭の翻訳が画期になるのは、口語に近い言文一致体という新しい文体で書いたこと、外国の固有名をそのまま訳出したことなどにある。政府主導で言文一致を命じられたが、お手本がなかったとき、二葉亭の文体がよいとされたのだった。物語は、語り手の〈私〉が田舎の草むらでぼうとしているときに、一人の少女を見つける。とても美しい。そこに男がやってくる。二人は恋人のようだが、雲行きが怪しい。男は村をでていくといい、少女はここにいてという。少女は引き留めようとするが、男は勝手に帰ってしまい、少女はしばらく泣いていた・・・。21世紀に読むとたわいのない話でしかないが、これが明治の文学青年を引き付けたのだった。まず男にこびないで主張する少女という存在。母や姉などといっしょにいるのではなく、親の監視から離れて個人で行動し、あいびきのおとこに愛を要求する。日本のロリコン趣味はここから始まったとみてよい。そういう愛玩の対象として少女を発見した。その若い男女がともに恋愛を自由に行うこと。男も女も家の体面をたもつことなど気にしないで、相互に愛を求める。そういう自由恋愛があること。実際に自由恋愛を明治人が実行するようになるのは、20世紀にはいってからだ。さらに、景色・自然が人間の内面のシンボルであること。語り手や少女の感情の動きに沿うように、景色や自然が変化していく。物語の中で景色や自然はとても重要になる。(あまり知らないが)それまでの日本の読みものでは、景色や自然は背景や小道具であって、物語の一部にはならない。あまりに西洋の小説は違うので、二葉亭は新しい文体と語彙を発見しないといけない。苦労がしのばれる。(でも当時の文体と語彙では、男女の関係は武士と妻の関係のような役割を演じることになってしまう。「アクーリナ」が自由恋愛を主張したくても、出てくる言葉は商家の娘さんになってしまう。おのずと上下関係で生まれてしまう。文体に現れる家父長制を克服するのはとても大変だった。二葉亭も漱石にもできなかったし、100年後の昭和より後の文学でも男が書くものにはミソジニーが現れてしまう。
小説総論1887 ・・・ 二葉亭23歳の気負った文章。それまでの読み物、とくに勧善懲悪ものには飽きたので、西洋風の小説を書きましょう。それは模写が大事。ということを西洋の理屈を使って説く。自分にもよくわかってなさそうなので(若造だし)、支離滅裂風。
余が言文一致の由来1907 ・・・ 坪内逍遥の薦めで、圓朝の落語通りに書く。国民語の資格を得ていない漢語は使わない。式亭三馬の深川言葉(べらんめえ調)を使う。これが、言文一致体が落語や講談の口述本由来という説のもとになったのだね。明治も30年になると文部省は国民語の統制を始めていたようだ。
余が翻訳の標準1907 ・・・ 心がけているのは、洋文の音楽的なところを写す(朗読できる文章にする)、作家ごとに文体を変えるなど。二葉亭は「日本語の文章をよく書けない、ロシア語の方がよくわかる」という自己認識。
エスペラントの話1908 ・・・ エスペラントはすぐに覚えられるから、ぜひやるように。日本でエスペラント運動が盛んになったのは1930年代以降のはずだから、とても速い薦めの文章。なお、革命ソ連ではエスペラントは弾圧された。
私は懐疑派だ1909 ・・・ 小説を書いていても真剣になれないし、人生をみろといってもそんなものがそこらにころがっているわけではないし、西洋の象徴主義も神秘主義も思索の奴隷だし、精神だの霊など持ち出しても無意味だし……。なので懐疑派ですよ、という戯文。文芸や小説は哲学や思想に基礎づけられているべきという考えを懐疑しているのだね。黒岩涙香や硯友社が聞いたら鼻で笑いそう。日本の小説はこの先もずっと哲学や思想の基礎付けを要求していったので、ずいぶん窮屈なものになった。二葉亭がもっと早く解放されていたら、もっと面白い作ができたろうに。
露都雑記1910 ・・・ ロシアに行った時のはなはだ要領を得ない記録。ロシアで日本人差別を受けた話が記憶に残るくらい。珍しい帝政ロシアの見聞記なのだが、ものたりない。
この人は伝統や歴史を好ましく思っていない。もっと新しいこと、もっと珍奇なことをやりたい(そこには故郷から抜け出したいという青年の欲望も混じっている)。選んだのは小説。新しい小説を作ろうとするがモデルがない。そこで翻訳をして、西洋小説をまねした実作をして、宣伝と批評もやって、と手広く活動した(30歳前後の一時期は別の仕事をしていたらしい)。残念ながら、彼は小説を求めたが、小説は彼に救いの手を伸べなかった。なので、どの仕事も過渡期でワーク・イン・プログレスで中途半端なものになってしまった。
自覚もあったようで、うまくいかない理由を自分の内面に求めてしまう。そして自分を無用の人と断じるようになる。日本で最初のモッブ(@アーレント)でダス・マン(@ハイデガー)になった人。