正岡子規のいくつかを読んだだけで言いたい放題したので、評伝を読む。手軽に入手できるのはこの一冊だけだった。日本人は日本の過去や伝統や文化に関心をもたなくなったのかしら。

正岡子規の生涯は司馬遼太郎「坂の上の雲」でも描かれる。創作が大半を占めるので鵜呑みにしてはいけない(たとえば東京の予備門時代に秋山真之らと長時間の遠足をしてへばったという話。似たことは松山時代にあったが、東京にでてからはない)。間違えようのないできごとは書いているので、それほど大きく離れているわけではない。なので、司馬の小説を思い出すと、新奇な情報に出会うことはなかった。
正岡子規は1867年生まれ、1902年没。維新に生まれ、士族の父は子規が幼児の時に亡くなった。秩禄処分の影響を受けたようだ(本書でははっきりしない)。ここでわかるのは、職と収入を失った士族の息子が子規や秋山の兄弟(好古と真之)。なので、10代になると就職問題がのしかかる。職業選択の自由に放り出され、何者かにならないといけない。秋山家の兄弟は士族の仕事の延長にある軍人を選択した。畏友漱石はライバルのがいない英文学で立っていくことを選択する。しかし子規はデブ(少年期まで)で虚弱で泣き虫。勉強ができない(のは子規の自己評価。キーンによると英語はできる方だったという)。移り気で根気がなく政治や哲学や小説などに手を出してはあきらめる。何になるのか決められず、何にもなれず、何も成果がでない。24歳までの子規はモラトリアム時代をすごす。
思えば、日本の文学を作った人たちは維新のあとに就職問題で挫折した人たち。二葉亭四迷とか北村透谷とか。正岡子規もそう。自分は何者であるか、何ができるのかに煩悶するが、それを表現するすべがない。日本には個人の感情や思想を表現する芸術形式がない。俳句も短歌もだめ。草紙は文体が古すぎ。儒教や仏教は反発するべき対象。彼らの煩悶を受けいれる器は海外文学だけだった。なので、彼らは海外文学の研究から、自分らの心象と表現する方法を探したのだ。
(就職問題のほかに性処理問題も抱えていた。地元を抜けて都会にやってきたので、共同体の支援を受けられなくなったのだ。なので性処理と結婚に固執する。子規は恋愛には無関係。母や妹への対応を見ると激しい女嫌いだった様子。)
子規は士族出身であることをアイデンティティの核心に置いていたようだ。若いころの文語体や漢語に対する固執はそこに由来しそう。他人に対する辛辣さや嘲笑、挑発的態度なども彼の士族としての誇りにありそうな気がする。そこにミソジニーが加わる。彼の才能や才気に男たちは感心したようだが、同時代の女たちは支持しなかったもよう。
モラトリアムを破ったのは、陸羯南の支援で雑誌の「日本」の記者になってから。ここでようやく俳句と批評で立つことを決意する。以後の子規は俳句と短歌の革命を起こしたという。奇妙なのは、著者は子規の俳句を引用して賞讃することはない。有名な句もでてこない(まあ「柿食えば鐘が鳴りなり法隆寺」が名句かとは言い難いし)。むしろ人びとが無視する子規の文芸作を引用する。漢詩、新体詩、短歌、はては小説まで。著者の中では、子規の仕事は優劣順にすると、随筆(「墨汁一滴・病床六尺」)、批評(でも「俳諧大要」はでてこない。子規による古俳句の分類もほぼ無視)、短歌、俳句、漢詩、小説の順になる。ここはとても不思議。著者の見解によると、実作者としては子規はたいしたことがなく、批評によって俳句の革新をしたことが大事なのだ。俳句や短歌は自然と恋愛(色ごとと悲恋)ばかりをテーマにしていた。個人の悩みや社会の変貌などを描いたことはなく、強靭さや直接性を持たない。でも子規の革新扇動によって、俳句が個人の感情や戦争などを描くことができた。日本の文芸で初めてのことだった。子規自身は個人の感情が揺れ動く自由を描くことができたのは随筆だった。
俺の興味は、子規が愛国主義者かどうかだったか。「歌よみに与ふる書」を読んだ後の歴史勉強に照らすと、教育勅語発布後以降の日本人はだれもが愛国主義者で戦争賛成。それは子規も同じ(でなければ日清戦争の従軍記者にはなろうとはしない)。その後の罹患と闘病生活は政治的な主張をする力を失わせた模様。そうすると、「歌よみに与ふる書」でだれに噛みついたのか、よくわからない。当時の歌壇や雑誌を見ればわかるのだろうが、そこまでしなくていいや。
ドナルド・キーンの評論は日本人が書いたものとは異なるアプローチ。容易に対象の内面には入らない。子規や周辺の人物の気持ちを描くことには慎重。なので、小説のような「人物」が浮かび上がらない。作品の評価も、大絶賛もなければけなすこともない。よいところと悪いところをあげる。作者や作品の周辺にも配慮を忘れない。でも政治や経済の状況までは踏み込まない。明治の歴史とリンクした描き方をしない。そういうところに俺は困惑。対象はたしかに日本人、それと近代の文芸。それは俺とは縁のないようなとおいところのレポート。日本語ネイティブの書き手とは異なる視点が違和になるし、斬新な見方にもなる。不思議な書物。
「(日清戦争は)外国と戦う約三百年ぶりの戦争であったにもかかわらず(p.108)」
幕末の下関戦争と薩英戦争があるので、この指摘は不同意。この戦争での敗戦は日本の指導者に深刻なトラウマになり、以後の「大日本帝国」構想のもとになった。
「同世代の詩人たちが俳句の十七音節に自分の考えを盛り込むことを拒否して新体詩を書いている(p.169)」
新体詩の影響は近代文学史ではほぼ無視されるが、1880~1900年までは新体詩のマネが流行っていたのだね。「自分の考えを盛り込む」形式がないので、新しいもので試していたのだ。新体詩は軍歌に取り込まれ、代わりの形式として「小説」が生まれたのだ、と妄想。
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