odd_hatchの読書ノート

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アーサー・O・ラヴジョイ「存在の大いなる連鎖」(KINDLE版)-2 「神の完全さは世界にあふれている」と「人間は神の叡智と精神を宿している」はトレードオフ。西洋人は自分に似たものを求めて宇宙人とUMAを探す。

2025/12/05 アーサー・O・ラヴジョイ「存在の大いなる連鎖」(KINDLE版)-1 西洋は2500年も完全で完璧で絶対な〈何か〉が世界を作ている意味と機構を考えてきた。 1936年の続き

 

 「存在の大いなる連鎖」がいかにダメだったかは、ラヴジョイが懇切丁寧に解説しているので(前エントリーに書いたように相当に読み込んでいるのを前提にした講義なので、訳者のレジュメを頼りにするべし)、それを繰り返すことはやらない。引用された昔の文章はもったいぶっていて、なかなか解読困難だけど、現代の文章にしてくれたので、要旨は追えます。

 

 ここでは科学史の方から気づいたことをメモ。俺の独自研究や妄想も入っているので、ラヴジョイの論旨を追うには訳者によるレジュメを見たほうがいいです(前エントリー)。前エントリーでは古代と中世までをまとめたので、この先は近世以降を対象にします。俺の関心がある時代。

・世界を構成するモデルはずっと天動説だった。地球が世界の中心であるということは、天の神から最も遠いところで、チリとクズが沈殿しているところ(なにしろ地の下には地獄があり、その中心にはルシフェルがいるのだ。ダンテ「神曲」地獄篇。チリとクズが沈殿しているというのは、アリストテレスの運動論“軽いものは上に、重いものは下に”に基づく)。人間は神の似姿であるとか動物の中で唯一叡智と精神を持っているとかで、人間優位であると説明したけど、最底辺にいることにはかわりない。

・そこにコペルニクスが天動説を持ち出す。通常科学史では地動説から天動説への転換は強い反発を生んだとされるが、ラヴジョイによると、すんなり受け入れられたという。最底辺の中心は太陽に移り(高熱であるのは地獄にふさわしいんだろうな)、地球はいくつもある惑星のひとつになった。底辺近いとはいえ神の栄光に少しは近づいたのだ。それに連続性の原理からすると、地球に似た惑星は無限にあるはず。とすると人間のようなクズで未完全の存在も世界には充満しているはず。我々は孤独ではない! そこから火星や木星土星にも宇宙人がいるはず(月には空気がないから宇宙人は生存不可能。金星と水星は太陽に近い底辺の側だから無視)。ガリレイニュートンが望遠鏡を発明すると、18世紀の西洋人は天体観測にいそしんだ。どこかに宇宙人がいる印があるはず!ということで。
(転換点になったのは、超新星の観測(1572年ティコ・ブラーエが報告した超新星、1604年にケプラーが報告した超新星など)。天体は天球に固定されていて、不同不変であるとされていたのが、これによって覆ったという。)
科学史から見たコペルニクスは以下を参照。)
トーマス・クーン「コペルニクス革命」(講談社学術文庫)
高橋憲一「よみがえる天才5 コペルニクス」(ちくまプリマー新書

・充満の原理と連続性の原理を生き物に当てはめると、人間から無機物まで連続的に多様な種があるはず。ないのではなく探していないだけ。ということで17世紀に顕微鏡が発明されると、18世紀の西洋人は水棲微生物の観察にいそしんだ。レンズで拡大すると、多種多様な生き物がいて、様々な大きさのものがつぎつぎと見つかる。生き物の階層も無限にあるのだ、という認識になっていく。ラヴジョイの講義は社会史を扱っていないのでまったく漏れているが、17-18世紀は西洋の植民地拡大の時期。ヨーロッパ以外の土地に出かけた人たちは珍しい生き物を採集して、博物画を描き、本国に報告していった。その情熱は「存在の大いなる連鎖」の欠落を埋めることに由来。

・天体観測や顕微鏡観察をした人たちは、観察の成果を文書にして交換しあった。いまの同人誌とかSNSみたいなこと。それができたのは18世紀にヨーロッパの都市をつなぐ郵便馬車網が整備されたから。郵便事業をきちんと運営するのは主権国家の名誉でもある。集荷と配達が定期的に正確に行われ信頼された。それで人びとは手紙を出し合い、雑誌を作って各地に送った。同じことは数学や育種(ハト、イヌ、バラなどの品種改良)でも行われた。アマチュアの知的活動が広がり、思想が共通化するのを促進した。(郵便馬車に客が乗って移動するようになり、郵便の拠点に宿屋が作られるようになる。旅行が手軽にできるようになって、ヨーロッパ人は移動するようになった。これも知的交流を促進する一助。)

・生物種は変化しないものだとずっと考えてきたが、充満の原理と連続性の原理を徹底すると、神の善はずっと流出しているのだし、底辺にいる人間はより上の位階に上昇することができる。努力(どういう内容かは問わない)すれば。精神と理性を働かせれば。人間は変化できるのであり、世界は変わっていくのと同じように変化できる(地球が「存在の大いなる連鎖」の底辺あたりにあるのは、地球が絶えず変化しているから)。すると種も変化するに違いない。位階を上がっていって変わるのだ。というようなことを18世紀後半の科学者たちは主張するようになった。そこからラマルクまではほんのわずかの距離しかない。

・通常18世紀は科学と啓蒙主義の時代とされるが、本書によると「存在の大いなる連鎖」がとても広がった時期。上に見るように世界や生き物の連続性を見出そうとする。ここで強調されたのが存在の連鎖の時間化。今は完ぺきでなくても、時間をかければ完璧になっていく。種全体がだんだん善くなっていくんだよという均質主義がでる。その考えは芸術にも表れ、シラーが「歓喜の歌」で集団で神になろうと煽ったり、ベートーヴェンがフランス革命に憧れて英雄讃歌を作ったりベートーヴェンの哲学は「苦悩を経ての歓喜」と言われることが多いが、これってベートーヴェンのオリジナルではなく、当時の人気の思想でスローガン。この言葉でベートーヴェン推しや挙げをするのは筋が悪いよ)。

・革命の挫折や王政復古の反動などで(とはラヴジョイはいっていない)、啓蒙主義に対する反発で出てきたのがロマン主義啓蒙主義では連続性が原理だったが、ロマン主義では充満が基本原理。普遍性、均質性に対する多様性、ちがい性の重視。そこで個人の多様性が重視される。芸術分野と社会活動で成果を上げる。でもロマン主義はろくでもないものをたくさん作りだした。たとえば変なナショナリズムレイシズム
(ここらへんの18~19世紀のまとめはとても秀逸。ここでは手抜きの感想にしたので、訳者のレジュメを参照しよう。この期間にヨーロッパの思想と芸術は大転換したのだが、それをうまく説明していると思う。ここにだけフォーカスしてまとめると、ベートーヴェンやシラーの作品解釈、あるいは不死人アンデッド恐怖への熱狂などがよくわかってきそう。)

ダーウィンが「種の起源」を引っ提げて登場するのは半世紀後の1858年。ダーウィン自身が「存在の大いなる連鎖」を信奉していたかどうかは本講義では不明。遺伝の説明などをみると影響は強く受けていそう。でもダーウィンでは変化の機構を連続性の原理ではなく、機械論で説明した。

・種の進化はあるとしたうえで、変化の機構を流出論で説明しようとする「過激進化論者」が現れる。ヘッケルとかスペンサーなど。20世紀にはベルクソン。19世紀の自然哲学や20世紀の「生の哲学」は流出論の焼きなおし(ラヴジョイはベルクソンをぼこぼこにしてます)。あと18世紀末にネオプラトニズムが流行したので、過激進化論にも影響していそう。そういう気づきがたくさんある。
(千葉聡「ダーウィンの呪い」(講談社現代新書)をみると、ダーウィンの進化論(進化は無目的、無方向でランダム)は当時の進化の考え方の中では異端だった。)

・ここでは自分の関心にひきつけてメモを書いた。科学史ではこういう説明はない。古代中世の迷妄が観察と実験によって破られ、合理的な説明によって人びとが改心していったとなる。地動説も、進化論もそう。でもラヴジョイの観念史によると、それは結果であって、そのまえに「存在の大いなる連鎖」の充満の原理と連続性の原理をつきつめる知的運動があった。そこで合意されたり周知されていた内容が科学の主張と一致していた。

・その過程で、ガリレイが異端審問を受けたりダーウィンの進化論が弾劾されたりしたのだが、それは学問の自由の侵害なのではなく、「存在の大いなる連鎖」の解釈に対してだったとみることができそう。ガリレイは地球が動くと主張したから裁判になったのではなく、天の位階構造を破壊したから。ダーウィンの進化論が問題になったのは人がサルから生まれたからではなく、神の恩寵の流出による種の連続性や無限性を否定したから。そういう説明も可能なのでは、と妄想した。観察結果を問題にすることはなく(誰でも追試できるからウソだと主張できない)、当時の権力が自分の基盤になっている考えを壊すことを問題にしたのだった。

・流出論に依拠する「存在の大いなる連鎖」は息の根を止められたと思うのだが、まだまだ根強い様子。西洋人や近代化した人たちの意識には残っていて、さまざまな発想に影響している。最近の考えだと思ったものが古い流出論や「存在の大いなる連鎖」をちょっと書き換えたもの立ったりする。ベルクソンのようにゾンビ的な議論を持ち出すのがそう(俺の妄想ではハイデガーもそう)。あるいは、西洋人が宇宙人、UMAネッシーや原人など)の捜索に熱中するのも、種の連続性から導かれるミッシングリンクを求めてなのだろうし。人間は努力して創造するものだ(それによって位階をあげて新しい人になる)という説教も「存在の大いなる連鎖」から。

 

 西洋の思想や哲学をみていくと、「自然観」とか「世界観」、あるいは「自然哲学」などが出てくる。その内容が語られることはまずない。せいぜい天空の階層とか惑星移動の理屈とか。でもラヴジョイの講演でわかった。彼らの「自然観」などはすなわち「存在の大いなる連鎖」に他ならない。創造主または〈神〉からどこからか絶えず〈何か〉が流れている。充満性、段階性、連続性がその原理。世界に存在するものはその力を受けている。恒星、惑星から人間、生物、無生物まで。〈何か〉の流出で存在しているもののうち、理性と創造力を使えるものは変化して位階を上昇することができる。人間はいまのところ最底辺近くにいるクズなのだが、努力すればいつかは〈神〉の近くに行ける。こういう考えがギリシャにできて、キリスト教に採用されて、西洋人の世界や自然を把握するときの根幹になっている。この考えは神学にも、哲学にも、サイエンスにも共通している。なので、哲学者や思索家はどの学問分野にも自由に行き来できる。ことに「存在の大いなる連鎖」がとても広まった18世紀以降の哲学者やサイエンティストに顕著。多くの人たちが神学と哲学とサイエンスを横断縦断する思索をしてテキストに書いた。逆に言うと、西洋哲学は「存在の大いなる連鎖」の注釈で、解釈の変更をするものだった。
 哲学などの学問の話ばかりでない。西洋の文化がいかにこの考えの表現であるかもわかってしまう。ダンテ、ゲーテベートーヴェンなどがとくに有名で典型的な表現者。さらには西洋人の宇宙人好き、UMA好き、怪奇ホラー好き、探偵小説好きなども説明できてしまう。

 いろいろ思いつくことがあって、そこから妄想を展開させることができた。なかなかそういう読書はないので、とても有意義でした。ラヴジョイが指摘する細部にこだわってもいいけど、特によかったのは、観念史によって西洋の2500年が同じ問題を考え続けてきたという指摘。それによって、哲学史や思想史では哲学者や思想家がバラバラに考えていたことをそれぞれ覚えようとすることになったが、ラヴジョイのやりかただと2500年間に登場した哲学者や思想家を同じ基準で評価し比較することができる。すると共通点と違いがわかる。この発想はすごい。とはいえ、ラヴジョイの講義によると、「存在の大いなる連鎖」は終わった問題、矛盾だらけでトレードオフになる思想だ。こねくりまわしても何も出てこない(せいぜいときどき噴出するゾンビみたいな議論を潰すのに役立つくらい)。西洋の2500年を破壊しちゃうくらいの冷気がこの講義から漂ってくる。
(ま、俺のような凡庸な極東の趣味人からすると、西洋に対する半世紀の囚われが解消して気分を軽くしてくれたんだけど。キリスト教へのうしろめたさを加藤隆「キリスト教の本質 「不在の神」はいかにして生まれたか」NHK出版新書が晴らしてくれたのと同じような効用があった。)

 

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