半世紀前から名が知られている傑作。語りたいことが多いので、ストーリーは出版社のものを引用。

異星人の宇宙船が地球の主要都市上空に停滞してから五十年。その間、異星人は人類にその姿を見せることなく、見事に地球管理を行なった。だが、多くの謎があった。宇宙人の真の目的は? 人類の未来は?――巨匠が異星人とのファースト・コンタクトによって新たな道を歩みはじめる人類の姿を描きあげた傑作!
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いったいクラークという人は、他人を愛することはあるのだろうか。キャラを描く時、作者は内面に入らず、遠くから眺めている。そういう視点の置き方はアメリカのハードボイルドもそうだけど、クラークはもっと遠くから。なんなら長焦点レンズ越しに眺めているとも。表情やアクションは微細にわかるが、キャラは観察対象。キャラがどのような感情の変化を示そうとも、作者は無関心。この無関心さは人類全体にまで広がっている。人類の可能性はあると思っているが、どうなろうとも〈この私〉には関係ない。オーバーロードの代表者が人類を眺める視線と作者の視線は同じ(というか作者が最も感情移入しているのはこのキャラ)。
長編を読み終わるまでに3回驚くことになる。冒頭でいきなり地球が異星人に占領されたのはおいておくとして、最初はオーバーロード(地球人が異星人につけた名前)の外見を知った時、二番目はオーバーロードが地球に来た真の目的を知った時、最後には(これはラストシーンになるので割愛)。
アイデアの骨子は「存在の大いなる連鎖」そのもの。人類は宇宙的な〈知的生物〉の最下層にいる。それ自体としての発展はまったくない。むしろ周囲を巻き込んだ災厄を起こしかねない。そこで異星人は介入して、人類にテクノユートピアをもたらす。国家と戦争が廃棄され、労働から解放された。犯罪して得たいような幸福はない(なにしろ衣食住はほぼ無償)。獲得したい権力もない。改善や発展の可能性がない。〈歴史の終焉〉が訪れたのだ。その結果、人類の多くは怠惰になる。ここまでの未来像はウェルズ「タイム・マシン」をほぼ忠実になぞっている。人類はオーバーロードから理性と知識を与えられたが、理解できないものを前にして解明を放棄した。そして創造性が欠如し、知的に衰退する。すなわち、人類が「存在の大いなる連鎖」にみる宇宙的な階層を上がることはできなくなった。
この構図は「都市と星」1955の後日談とも読める。「都市と星」で10億年後に地球に残った二つの都市ダイアスパーとリスが文化接触する。ダイアスパーのほうがよりテクノロジーをもっていて寿命が長い。リスは自然との共生であるが人口は少なく寿命は短い。この二つの文明が接触して混交していったさきが、「幼年期の終わり」。自然都市リスは超テクノロジーと長寿命を持つダイアスパーに飲み込まれて滅びるだろう。そういう未来が先取りして「幼年期の終わり」に書かれていた。
さらにいうと、突然異星人の監視に置かれて国家と武力が無効になり、異星人の監視下に置かれるというのは、20世紀の全体主義で起こったこと。俺はこの地球をソ連の衛星国家になった東欧国家や西域国家のように思ったよ。主権は制限付きとはいえあり、民俗文化もそれなりに存続していても、占領国家の路線に従わなければならない。地球のそとにでて、異星人の監視ではない、自立した星を見ることは許されない。人類の萎縮をもたらすということでは、異星人と全体主義国家は変わりない。異星人は衣食住の無償化を実現したので、東欧国家で起きたような反発は起こらなかった。中盤のテクノユートピアの描写はオーウェル「1984年」と同じようにみていたよ。スミスとジュリアという革命分子以外の小説に書かれない凡庸な人たちに起きたのが、「幼年期の終わり」の多数の人類。
(「幼年期の終わり」がユートピアに見えるのは、白人しかいない社会になっているから。他のカラードはまったく登場しない。無視されている。労働が廃棄されたので労使の対立もない。白人で一色になった平坦な社会なので、階層と民族の差別がないことにされているのだ。)
そうしたうえで、あのラストシーン。人間の道徳を超越したツァラトゥストラとなった新人類である群体生物が新たな使命を受けて次元を上昇する(ここはニーチェかな)。地球を破壊することを躊躇しないのはキリスト教道徳を揚期した新しい道徳をもっているから。人類は超人を生み出したが、自分自身を超人にすることには失敗した。深い断絶がある。そして惑星は人類のものではあるが、恒星は人類のものにはならないというオーバーロードのメッセージをかみしめる。たんに種の限界をしめされただけではない。最後の審判で誰も救われない。「存在の大いなる連鎖」で次元上昇する可能性はない、と断言された。なんという宇宙的悲観主義。西洋の形而上学と宗教の完全否定。ユートピアにいるかのような現在は最悪だし(なので人類は集団自決を選ぶ)、人類に未来はない。心も凍るとはこういうこと。
クラークの主要長編は、発表順に「幼年期の終わり」「都市と星」「2001年宇宙の旅」。しかしプロットの順番は逆になる。「2001年」で地球人は異星人とのファースト(正確には二回目)コンタクトに失敗する(そのことは「幼年期の終わり」にもでてくる)。10億年がたって、再び異星人とのコンタクトに成功する。異星人はすでに去っていた(か滅んでいた)ので、テクノロジーの恩恵を受けることはできない。でも惑星にむけて大飛翔を開始。そこにオーバーロードを名付けられた異星人が向こうから接触してくる。彼らの接触は好意的であるようだった。しかし……。
三つの単独の長編が、ひとつの軸でつながっていた。「2001年宇宙の旅」は300万年前のヒトザルの霊的進化を21世紀の人類が繰り返したように、「2001年宇宙の旅」を「都市と星」「幼年期の追わり」で繰り返したのだった。「幼年期の終わり」で最後の人間が発した言葉は、ボーマン船長がスターゲートに飲み込まれる直前に発した言葉と同じ。天の火と光は人間には眩しすぎ、熱すぎた。
(俺は、クラークの近未来を舞台にしたテクノロジーSFをおもしろいと思ったことがないので取らない。50~60年代に書かれた小説を若いときに読んだときからそう。クラークのSFガジェットが当時の社会ですでに陳腐になっていたから。そこはクラークの先見性を見たほうがいいんだろうけど。「2001年宇宙の旅」に出てくる持ち運びできる電子タブレット、ipadみたいなのは、21世紀になってようやく意味がわかって翻訳が書き換えられたりもしたように。今となっては驚くほうが難しいので、俺みたいにクラークの「創造的進化(@ベルクソン)」のような西洋の形而上学を読んだ方がいいんじゃない?)
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