2023年5月20日放送の「クラシックの迷宮▽2023年リゲティの旅 ~リゲティ生誕100年~」(NHK-FM)を聴いたら、映画の「2001年宇宙の旅」が話題になっていたので再読した。
上記の番組でMCの片山杜秀さんがいうには、このストーリーは宇宙的には人類より先に高度に進化した宇宙人「先駆けた種族」が進化の実験をしていて、地球のサルも宇宙人によって知恵を授けられ高度な進化を遂げていく。この考えは19世紀の神智学(ブラヴァツキー夫人など)、人智学(ルドルフ・シュタイナーなど)に見られるという。

でも、この考えは「存在の大いなる連鎖」で全部説明できるのだ。「存在の大いなる連鎖」の詳細はラヴジョイのエントリーを参照してください。クラークは「都市と星」でも「存在の大いなる連鎖」に基づくフィクションを書いたが、「2001年宇宙の旅」の方がより「存在の大いなる連鎖」を踏襲している。というより、20世紀になってこの考えはかなり棄却されているのだ(残っているのは西洋の神秘主義やスピ系など)が、ときどき古い進化論と一緒になって復活することがある。20世紀初頭ではベルクソン「創造的進化」。WW2のあとはクラークがエンタメにして普及した。本書及び映画の「主題」とされる生命の進化、人間のレベルアップ、創造主とのコンタクトの可能性などは「存在の大いなる連鎖」の問題群だ。
その線で読んでみようか。
・モノリス(黒色の直方体)は創造主または〈神〉の愛や善が流出する場所。これまで流出する〈どこか〉は特定されていないで、天球の最上位から下位にこぼれるように流れてきて宇宙のどこにでもあるエーテル(有機溶媒ではないよ)に充満しているというイメージでとらえていた。それがある特定の場所に現れる。モノリスは〈教会〉なのだ。
(創造主の愛や善がモノリス(黒色の直方体)になったのは、映像化する際の当時の技術の制約から。ピラミッド型なども検討されたらしい。黒色の直方体に意味付けする必要はそんなにない。)
・クラーク(とキューブリック)のアイデアでは、創造主や〈神〉はその愛によって上昇させようとする種に直接コンタクトするものとされる。モノリスは〈教会〉なのだからそうなる。ヒトザルは〈教会〉に通ったので、創造主や〈神〉とコンタクトできた。
(キリスト教やユダヤ教では〈神〉は一般人とコンタクトすることはない。例外はある。)
・創造主や〈神〉は種に対して慈悲深いわけではないので、衣食住を与えない。種が生存・継承されるかどうかには無関心。人間(ないし上昇可能性がある種)に流出するのは理性。なので人間は流出してきた理性に反応して、適切に使わなければならない。いわば神による「チューリングテスト」が行われたのだ。
・ヒトザルとニッチを同じにするイボイノシシはモノリスに反応しない。なのでヒトザルより劣った種であり、ヒトザルの食用に供される。人間を襲う豹は知性と道徳に劣ったモンスター。人間を堕落させ地獄に送る悪を体現している。骨や石などの道具を使う理性を持ちえた人間は豹による誘惑や恐怖に打ち勝つ。理性を正しく使えた。なので、天空と地上の位階を昇る資格を得た。以後は自力で自分を救済しなければならない。
・第1部に書かれたヒトザルの話は、三百万年の時を経た現生人類が再び繰り返すことになる。月に置かれたモノリスを発見してからデヴィッド・ボーマンがスターゲートの先で子どもになるまでは、第1部をそっくりそのまま再話する。ヒトザルの代表「ムーンウォッチャー」がテストにパスして進化したように、人間の代表ボーマンがテストにパスして次の霊的存在の位階に向かった。
・というわけなので、第2部以降の〈現代〉の話は割愛。ヒトザルが骨や石を道具にしたように、人間はより理性と知識を使って優れた道具を編みだすことができた。それが創造主または〈神〉のテストにパスした理由。
・キューブリックとクラークが機械論で進めた末の知性の科学的なイメージはこうなる。
「機械が肉体を凌駕するやいなや、移行のときが来た。はじめは脳を、つぎには思考そのものを、彼らは金属の光りかがやく住みかに移しかえた。(略)だが機械生命の時代は急速に終わった。休むことなく実験をつづけるうち、彼らは、空間構造そのものに知識をたくわえ、凍りついた光の格子のなかに思考を永遠に保存する仕組みを学んだ。物質の圧制を逃れ、放射線の生物になることが可能になったのだ。/当然の成行きとして、彼らはほどなく純粋エネルギーの生物に変貌した」
この進化イメージはベルクソン「創造的進化」をそのまま踏襲。「都市と星」の感想を参照。
・人類は、肉体を持たない知性体としてHAL9000コンピューターを製造する。完全に物質を持たないのではなく、蛋白質や脂質や炭水化物などの有機物をもたない非生物。進化の方向からみると異端で出来損ない。人間からすると、神とHALの区別はつけがたい。でもHALは利害の中心としてのエゴを持ってしまった。創造主や〈神〉はエゴを持たない(エゴがないから無償で世界に善や愛を流出し続けるのだ)。なのでHALは不完全。みずからの脅威になるものは排除しようとする。そのふるまいは〈狂った神〉にほかならない。〈狂った神〉の不完全さは人間に由来するので、人間を滅ぼすモンスターとしてふるまう。人間を堕落させ地獄に落とそうとするのだ。
(そこで、ディスカバリー号は幽霊屋敷となる。フランケンシュタインの怪物の20世紀版になったHALが人間を襲う。居住者が見えないモンスターと戦う。19世紀ホラーとなる。19世紀ホラーも「存在の大いなる連鎖」の思想に基づいている。)
(おせっかいですが付けくわえると、ディスカバリー号内部でのモンスター退治は、キューブリックの後の作の「シャイニング」で繰り返される。物語の進行といい、キャラの反応といい、モンスター退治の決め手といい、この二作はそっくり。「シャイニング」ラストシーンの積雪した迷路庭園はほとんどそのままディスカバリー号の内部だ。)
・その〈狂った神〉かつモンスターとの闘いに人間は勝利する。これも人間がより上の位階に行ける資格を持つテストだった。ヒトザルの「ムーンウォッチャー」が豹との闘いに勝ったことの繰り返しだよ。「ムーンウォッチャー」と豹の戦いの暗闇の洞窟のなかで、いつ襲われるかわからない状況だった。空気を失ったディスカバリー号の内部と同じ。
・いくつものテストにパスした人類は上位の段階に進むためにみずからの姿を変える。最初は幼児の姿に。その先は? いずれ肉体の束縛から離れるかもしれないが、その途中で〈悪魔〉のような外見を持つかもしれない。
・訳者は解説で、映画には白がたくさんでてくるという。これの謎解きは簡単。白と白色光は天上のメタファー。ヒトザルが登場する第1部では土や血や体毛や夜で黒く塗られている。創造主や〈神〉がいる天上は罪や汚れがない。白いし光っている。物語は地の底にいる人類が天堂を目指してのぼっていき近づいていく話。ダンテ「神曲」天堂篇、バニヤン「天路歴程」を参照。この二作は天堂に到着するまでを書いたが、「2001年」では天堂を目指す探索は途中までしか書かれない。
・映画をみてトリップ(1960年代の用語)するものが多数出た。ことにスターゲートに入ってからの十数分。それは疑似的な至高体験だから。「存在の大いなる連鎖」に示された人類の類的上昇を見た気分になったのだ。学校で学ぶ形而上学を疑似体験したのだ。創造主や〈神〉に至る階梯の一つを上ったように思えたのだ。ダンテ「神曲」天堂篇の映像化。
「存在の大いなる連鎖」は文芸でもなんども表現されてきた。ダンテ「神曲」とゲーテ「ファウスト」が有名。20世紀ではアーサー・C・クラークが何度も手掛けている。「都市と星」「幼年期の終わり」がそうだが、もっと直截な表現になっているのが「2001年宇宙の旅」。映画もそう。
「存在の大いなる連鎖」はキリスト教の教義や形而上学と深くかかわっている。というか「自然哲学」が「存在の大いなる連鎖」セオリーそのもの。西洋人にはなじみのある考えなので、とても安心できる内容なのだ。なので反発することなしに、読んだり見たりする。
以下は小説や映画に関係ない妄想。
HALはチューリングテストに合格したから「意識」を持っている。このテストはテキストの生成能力と言語による応答を評価するものだから、「意識」は言語と発話能力なのだということができる。では、21世紀の20年代に話題になったChatGPTやAIは意識があるといえるか。あるという人はいない。ChatGPTやAIから話題を振ったり質問してきたりすることが(今のところ)できないのがその理由。いずれ人の会話の単語に反応して話題を広げることが可能かもしれないが、人の会話に起こるようなとっぴもない飛躍はできないのではないか。そうすると、人が会話できるのは、身体を所有する〈この私〉の体験を持っていること、自分には解決できない問題を持っていること、自分の評価を他人の評価と照合する欲望をもっていること、なのだと思う。すると、心と体が分離できると考えることと合わなくなってしまう。分離を進めるほどに、〈この私〉の唯一無二性が人の個性や存在の尊厳にかかわってしまう。
冒頭からしばらくは三百万年前のヒトザルの生態が描かれる。ヒトザルは狩猟による食料に依存していて、ほとんど常に飢餓寸前の状態にあるとされる。この描写は21世紀には棄却された古い考え。狩猟はとても効率が悪く、収穫が安定しない。ヒトザルは毎日食糧を食べていないと死んでしまうから、狩猟に依存した集団は維持できない。最近の研究によると、主に女性と子供による食べられる植物の採集で集団生活を維持していたとのこと。地味な仕事が集団を支えていた。男性集団による狩猟はときどきのごちそうだったというわけだ。
ヒトザルの一人「ムーンウォッチャー」は食べ物がないのをむずかる妻と子供を殴ろうとする(しかし空腹でその気力がない)。集団の方向を決めるのは男で、女や子供は従属するとしている。男の権力を大きく見積もっている。近世から近代のマチズモを古い社会にも適用している。
2001年の「現在」の話になっても、女性は冷遇されたまま。スペースシャトルは男が操縦して運用し女性はサービス係だけ、月面基地の研究員は男だけ、ディスカバリー号のクルーも男だけ。男性優位社会、ホモソーシャルな社会なのだ。HALの「反乱」もホモソーシャルな集団だから起きたのだといえないか。1977年にFM東京が「2001年宇宙の旅」をラジオドラマにしたとき、HALの声を女にして、ボーマンやプールらの男性クルーが女性のHALに命令するように演出していた。それを聞くと、HALの反乱は小説版のような葛藤やダブルバインドによる精神疾患ではなく、女性が男性優位社会に異を唱える行為にみえ、ヘゲモニーを失った男が男に逆襲した女性のHALを圧殺したのだと解釈したくなってしまう。
21世紀に読み直すと、どうにも居心地が悪い。ジェンダーやマイノリティに配慮したリドリー・スコット「オデッセイ(火星の人)」は安心してみられるのだけどねえ。
あれ、感想を書くまでは称賛するつもりでいたのに。再読したら、ダメだこりゃになってしまった。トラブルが起こる前のディスカバリー号は社会性のないコミュニケーション能力に乏しいオタクには天国で、おれは一時期あこがれていたのに。
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