再読した。前回の感想。

もともとのタイトルを直訳すると「形式変遷史として見たる音楽史」(訳者河上徹太郎による)。文中では「人間感受性の変遷の歴史」と説明する。これを「西洋音楽史」としてしまうと、ドイツ音楽が西洋音楽の中心に想えてしまう。本書を参考にしたと妄想する吉田秀和「LP300選」もそうした誤謬を継承している。ドイツ音楽は西洋音楽の中心ではない、というのは別の本の感想で何度も書いてきたので、ここでは突っ込まない。
放送大学の「西洋の美学・美術史('24)」によると、美学がドイツで生まれたのは18世紀初頭。以後、ドイツ観念論の哲学者(カントもヘーゲルも)がテーマにしてきたとの由。そうすると、本書もその系統に並べられる一冊になる(著者はプロの研究者ではなくディレッタントらしいが)。すると、俺は本書は(本書もドイツの美学も)「存在の大いなる連鎖」を下敷きにして書かれていると「直観」した。下記の一節は、それだけ取り出すとナンノコッチャだが、下敷きになっている思想を想起すると、どの節も、語句もそれがでてくる由来がわかる。
人類という有機体のなかにあって、破壊的なものにしろ建設的なものにしろ、それを押し流している力は常に同一なはずであり、また生と死とは実は同じことであると。一つのものから他のものに変化するということは、単に現象上の問題であり、一つの不可変な本質の変貌であるに過ぎないのである。(p.206).
「存在の大いなる連鎖」の説明はさんざっぱらエントリーに書いてきたので割愛。そこでなぜ音楽が大事かということを書いてみよう。アリストテレスの運動論によると、物体の基本運動は円運動。惑星(日月含む)が天空を移動しているのは円運動しているから。惑星は地球(のちに太陽に修正)の周りを周回しているが、恒星は天空に張り付いて円運動をしている。円運動を横から見ると振動している。ということは〈音〉を発信している。惑星と恒星はそれぞれ固有の円運動をしているので、宇宙は〈音〉で充満。創造主または〈神〉は完全で完璧であるので、宇宙を充満する〈音〉は調和(ハーモニー)を持っている。人間の音楽は宇宙のハーモニーにあった音を作ることが必要。というわけで教会は言葉と音が調和し、調和にあった歌を奏でるのが使命になる。肉声であるのは、物体は精神や霊魂よりも劣るので、宇宙の調和にふさわしくない。
(ここらへんはピタゴラスの考え。アリストテレスとの影響関係は俺は知らない。こういう「宇宙の音楽」は中世の古い音楽書に書いてある。)
著者のベッカーは音楽と宗教音楽と世俗音楽にわける(昔からの習慣に基づく)。世俗には貴族と名望家と庶民と移民など社会や階層が異なるが、音楽史では一括される。それは宗教音楽が世界に流出している愛や善にふさわしいから。そうでない世俗の音楽は神の完全性に背き、人間を堕落させ地獄に導くので一等低いのだ。
(西洋の哲学や美学、神学では「真善美」が重要になる。真善美はどこか中空に浮かぶ概念であると考えると漠然としてしまう。その意味を様々な人が様々に説明してきたので、統一的理解は難しい。でも、「存在の大いなる連鎖」に則っていると考えれば、真善美は創造主ないし〈神〉の完璧性完全性から要請されたことであると一発でわかる。創造主や〈神〉の意図は不明であるので、真善美もあいまいなのだが、創造主や〈神〉がそれを求めていると忖度すれば把握するのは容易。)
この宗教音楽と世俗音楽の違いが明確であったのはせいぜい16世紀まで。16世紀になると、経済の変化が起きてくるが、「存在の大いなる連鎖」に関連すると二つのことが起きる。ひとつは聖書に基づく普遍史を書くことに挫折したので。聖書より古い歴史が西洋の外にあるのがわかった。もうひとつは聖書の記述が自然の観察や実験結果と一致しないこと。むしろ創造主や〈神〉の存在を棚に上げて数学的論理的に記述する自然科学の方が世界のありかたに一致していることがわかったこと。17~18世紀は自然科学が聖書に記載されている〈神〉の権威を小さくしていく過程。世界の創造は括弧にいれておくとして、現在起きていることは自然科学で記述できるのだという確信が出来つつあった。
(この節の説明は岡崎勝世「聖書vs世界史」講談社現代新書を参照。)
この「科学主義」はフランス革命で大きな影響をヨーロッパにもたらす。革命政府はキリスト教を破棄。教会を破壊したり聖職者を環俗させたりした。1832年の復古でも教会に人は戻らない。似たような影響は周辺のドイツやイギリスなどにも広がる。でも宗教的情熱、流出される〈神〉の愛や善に答えてみずからを上昇させることは消えない。むしろ強まる。でも教会で宗教音楽を聴く趣味は消えた。かわりになったのが、交響曲・協奏曲・室内楽・ピアノソナタという新しい音楽。これらが宗教音楽の代わりになった。熱狂的な愛好家が生まれた。
(著者のベッカーは18世紀の新音楽に弦楽四重奏曲をあげる。同種の楽器の組み合わせでハーモニーが、精神がという説明をする。ここで社会学的な知識を加えると、18世紀はバイオリンに熱狂した時代。肉声の代替になる器楽として、バイオリンが好まれた。当時の管楽器が不安定で音が不ぞろい、ピアノはまだ生まれていない。その時代に完璧なハーモニーと歌を両立できるのはバイオリンだけだった。なのでできた。という具合に「存在の大いなる連鎖」イデオロギーで書かれた起源や本質は、別の視点をいれるとすごく簡単に説明できるようになりますよ。)
前回の読書でも気づいたように、冒頭には進化論的な音楽史批判がある。かつてはそこに「文化相対主義」「歴的遠近法批判」などをみた。今回は別のことを考える。すなわち、19世紀後半から20世紀が始まってしばらくは、「存在の大いなる連鎖」はダーウィンの進化論の影響をたぶんにうけていた。ただしここでいう進化論はスペンサー流の社会ダーウィニズム。進化の機構はラマルク説を採用していた(なのでベッカーはダーウィンを誤解していることになる。まあ当時の文献がそういうものだったのだろう)。要するに、〈神〉亡き時代において、神の導きなしに人間は「存在の大いなる連鎖」の位階を上昇しなければならない。個人で頑張ればどうにかなるよと考えていたのが啓蒙主義(典型はシラーの「喜びに寄せて」とベートーヴェンの第9)。でも政治的挫折と経済発展から取りこぼされたモッブ@アーレントには、個人が現生で努力しても何にもならない、位階を上昇する可能性はない、と諦めたのだった。でも〈この私〉は救済されるべき、なんとかして位階を上昇したいという欲望・願望は残る。それに応えようとしたのがロマン主義と自然科学。ロマン主義の解説は後回しにするとして、ここでは自然科学。特に進化論。個人で救済できなくても集団でなら可能であるかもしれない。それに答えたのが進化論。種そのものが流出している〈何か〉によって位階を上昇する稀覯を備えているのだ。その種の大いなるものに向かう流れを促進することによって、個人としては救済されなくとも、種としては救済される。この運動は過去から続いていて、次第に成果を収めている(連続性、段階性の原理によって)。なので進化=進歩はよいことなのだ。
(この節の説明は、千葉聡「ダーウィンの呪い」講談社現代新書を参照。)
でもベッカーからすると、これは困る。音楽の進化を認めると、古い音楽は価値が低い、遅れたものになってしまうから。そうすると、宗教音楽の進化(グレゴリオ聖歌-多声聖歌-ポリフォニー)を否定することになる。そこで、ベッカーは(社会)ダーウィニズムを否定し、18世紀の変化を採用する。ゲーテのように源植物が仮想上あり、そこから形質が脱落したのが現生の植物で、その変化はずっと続いている。そういう説明を音楽史に採用する。これは「存在の大いなる連鎖」を現行の19世紀バージョンから18世紀バージョンに変えることだ。
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2025/12/24 パウル・ベッカー「西洋音楽史」(河出文庫)-3 ロマン主義は英雄・超人の崇拝を経て、スピリチュアリズムに至る。WW1はロマン主義の願望を吹っ飛ばした。 1924年に続く