デカルトの「方法序説」と「省察」を自分勝手に読んだので、まっとうな解釈の解説書を読むことにする。
(個人的な述懐。40年前に野田又男「デカルト」岩波新書を読んだ。通勤に使った京王線で、満員の車内でつり革と新書を持ち、揺れながら読んだのだった。懐かしい。)

失望。この書き方では、デカルトの考えの道筋はわからないわ。読んでも縁遠い人にしか思えないわ。
その理由はデカルトの著作を現代にも通じることとするアレゴリー的解釈で読んでいるから。デカルトの思想はこうで、後世からみるとここは継承された、ここは誤りとされたというように記述する。デカルトの考えがのちにどのような影響を与えたかはわかるけど、後の考えの方が精緻なので、デカルトの考えは不十分なようにみえてしまう。先駆者として位置付けると、可能性があることはわかっても、不備が目に付いてしまうのだ。歴史的遠近法を使って現代から過去をみているため。
なので、もう一つの解釈方法、それが出た当時の時代に即して読む文献学的解釈を取った方がよい。そうすれば、同時代やそれより前の考えをデカルトがどう克服したか、どこを継承したかがわかるから。デカルトを基準点にしてビフォーアフターを見ないといけない。でも本書(に限らず解説書全般)はまったくダメ。彼より前の考えを「アリストテレス哲学」「スコラ哲学」としているが、内容がさっぱりわからない。認識論と宇宙論と人間論にわけてデカルトを解説したので、中世の哲学やスコラ哲学が全体としてどう考えていたかもわからない。デカルトの時代は「哲学」「習慣」「自然」「数学」「魂」「精神」などの言葉が意味することは、現代とは異なる。その違いを明らかにしない。なので、中世哲学やスコラ哲学が問題にしていた、天空階層論、運動論、創造主からの流出、魂や精神の出現の由来などを詳述しない。
たとえばこんな文章がある。
私の存在(意識といってもよい)」を原理としながら、それを超えた外在的見地にどのようにして達しうるかという、その後の近代哲学が直面しなければならない難問への、その原理を立てた者自身による解決を示したものと解しうる。(p.90).
「私の存在を超えた外在的見地にどのようにして達しうる」という難問はデカルトが始めだと読んでしまう。そんなことはないよ。プラトン、アリストテレス以来西洋はずっと問題にしていたでしょうに。キリスト教の神をちょっと脇に置くようにして、それを考えていた。
もうひとつの不満は、彼が生きた時代や影響を受けた思想をあまり書かないこと。彼の考えは同時代や少し前の時代のヒトの考えと対比させないとみえてこない。それができたのは数学くらい(でも放送大学「数学の歴史」のデカルト回に比べると足りない)。そうすると、少なくともフランス革命前の著作やテキストは、文献学的解釈で読まないといけない。
デカルトは中世哲学やスコラ哲学の継承者で改革者であった。それをはっきりさせないとダメ。
なので後半はものすごい勢いでページをめくった。「コギトの確立に体系の集約点をみるドイツ観念論の桎梏を解き放ち、デカルトの真実の姿を見いだそうとする」という解説文に興味があったのだがなあ(俺もデカルトの考えの中心は「コギト」ではないと思うので)。いくつかあるデカルトの解説書ではこれがよさそうとおもって選んだが、他のを読んでも期待できそうにないなあ。
以下だけはメモする。
「デカルトによってはじめて基本的慣性運動は直線運動であるとはっきりと表明され、円運動は一様単純運動ではなくて合成運動だと考えられることになった。(p.125)
通常の科学史では「基本的慣性運動は直線運動であるとはっきりと表明」したのはガリレオ・ガリレイとなっている。たとえば放送大学の「初歩からの物理学」。そうではないのだって。へえ。
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