odd_hatchの読書ノート

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ルネ・デカルト「省察 (懐疑主義の系譜)」(KINDLE版)-2 神は完全なのに、宇宙は不完全で無方向な運動をしている。その矛盾をデカルトはどないかせんとあかんという。でないと人間はゴミでクズでしかない。

2026/01/14 ルネ・デカルト「省察 (懐疑主義の系譜)」(KINDLE版)-1 ヨーロッパ諸学の危機と方法的懐疑。デカルトは「存在の大いなる連鎖」を検討する。 1641年の続き

 デカルトが、人間の認識は疑わしいと思って、あらゆる知識を疑ってかかった。そんな意図がどこから出てきたのか。自発的であるとは思わない方がよい。宇宙(univerce)の構成が複数の天が階層をなしているという従来の考えが成立しないことに不安や怯えを感じたのだ。それは彗星が月と太陽の間を移動するとか、恒星は天空高くに不動で永遠であるはずなのに短期間輝いて消滅する新星が見つかったとか、天空にはひとつの惑星しか存在できず惑星の周囲を回る衛星は月だけ出るはずなのに木星のまわりに4つの月が発見されたとか、金星も満ち欠けをして新月状の弧に見えた時最も大きく見えるとか。これらの発見は文字通り、天が壊れて地に落ちてくるかのような驚愕であったのだ。人間の観測がこれらの事実を発見したとき、イデオロギ―を取るか、事実を取るかの深刻な懐疑をもった。ローマ教皇庁は前者を取り、デカルトは後者に魅かれた。でも確信は持てない。そこで考え方の根源まで懐疑することになる。それが「方法的懐疑」。
 なぜそこまで深刻になったのか。「存在の大いなる連鎖」は単に自然現象を記述するための方法なのではない。あの世(異世界)の創造主または〈神〉がこの世に善性や愛と呼ぶしかない〈何か〉を流出することで、この世に生物が生まれる。神の似姿である人間は神の性質の一部を受け継いでいる。肉体の制限により物質に戻ったのちも神の性質の一部である魂や精神は不滅である。魂や精神を鍛錬することで天空の階層を上に登ることができる。優れた魂や精神は神のそばに行けるに違いない。「存在の大いなる連鎖」はこの世のふるまい方やあの世の永遠を説明する原理だった。人はそれに安心し、この世の努力や鍛錬を行うようにした。でも16~17世紀の天文現象の観測はこの確信を壊す。天空は従来言われたような構造をしていない。となると、死後の魂や精神は迷子になってしまう。どこにも安住できない魂や精神は地獄の重力に逆らえない。人間の足元の地球のなかにある地獄は人間を飲み込みつくすであろう。その不安、恐怖、怯え。
 足元の地面が崩れそうな予感で、デカルトは「確か」とは何かを考える。テキストはダメ、ウソや思い付きが紛れ込んでいるから。物体もダメ、不動でも不変でもない。〈この私〉の身体もダメ、夢で惑わしたりするから。〈この私〉の理性や知識も感情もダメ、不十分で不完全だから。こうしてこの世の物質由来の認識や知識に全部ダメ出しをする。この世の物質は不変でも完全でも全知全能でもない。あの世の創造主または〈神〉の流出がないとただのゴミでクズだから。残ったのは「考える」行為だけ。これだけは「確か」。なぜかというと「考える」は他の生き物にはない神の似姿として作られた人間だけにしかできないことだから。「考える」は神の善性や愛に由来する魂や精神に具わっている。この世とあの世をつなぐ唯一だから。これが「方法的懐疑」。
 この世の物質由来のなにごとも懐疑し否定した後に残った魂と精神。ここまでデカルトは「この世」だけで考えている。それでは根拠が薄いので、この世で「考える」とあの世の神の関係をしめす。それが神の存在証明。無からは何も生まれない、完全ものは不完全なものからは生まれない。人間の認識や存在は不完全で有限である。でも完全という概念を持つことができる。これは永遠で無限で全知全能で自分以外のすべてのものの創造主のせい。そのような観念を吹き込んだか、観念を理解できる方法を人間に与えたから。なので神は存在する。あるいは〈私〉のなかに私自身からは生じなかったものを含んでいる存在はあるかと問う。人間はダメ。私の外から刻み込まれた性質があるので。でも神はそれ自体のすべてが神自身に由来する。なので神は存在する。考える私の根拠を「考える」行為を探求して神につながる。
 俺は以下のふたつの問題がありそうと思う。〈この私〉を起点に考えを進めていって神を発見するというのは、〈この私〉が認めないと神はいないってことになるんじゃね。神は永遠で無限で……というけど、〈この私〉が議論を極めないと現れてこない脆弱な存在。いいのかね。あと、永遠で無限で……なあの世の神がこの世を創造した。それは神の属性通りの完全さともっていそうなのに、どうやらこの世の宇宙は完全からほど遠い。無秩序な構造で、惑星も恒星も無方向のいいかげんな運動をしている。星にいる生物ももっとも神の似姿に近い人間ですら、完全さにはほど遠い。社会を秩序だって作るどころか、宗教戦争をして殺し合いをしているではないか(16世紀にフランスでは新旧教徒の内乱があり、17世紀にイギリスは清教徒革命とおこし、ドイツは30年戦争)。ローマ教皇庁は思想と表現の自由を制限し、異端と決めつけると、重罰をあたえ時に死刑に処す。どこに神の善性があるのか。神は完全で全知全能なのに、なんでこんな不完全なこの世しか作れなかったのか。
 そこでデカルトは、神もこの世を作った時は未熟だったんで、神のそのあと時間とともに配慮するようになって、とかの神の成長論も検討したりしている。あるいは神が人間を欺いているのかもと疑う。どちらもすぐに否定。
 別のところでは、〈この私〉の認識が高まれば神の完全性を手に入れられるかも、と考える。デカルトは可能性はあると主張する。そして、

もし私が自分自身によって存在しているのだとすれば、私は疑うことも、何かを望むこともなく、何一つ欠けることはなかったはずである。というのも、私の中にあるあらゆる完全性の観念を、すでに自分自身に与えていたはずだからである。そうなれば、私は神そのものであったことになる (p.51)。

と書きつける。もちろんこの後の証明で「私が自分自身によって存在している」という前提を否定する。なので「私は神そのものであった」は妄言であるということになった。でもデカルトが言いたいことはこれなのだと思うよ。「私は神そのものであ」る。
(ということを加藤隆「キリスト教の本質」NHK出版新書がいっている。詳細は下記エントリー)
ルネ・デカルト方法序説」(山形浩生訳)-3

 

 補足しておくと、デカルトの方法的懐疑と近代的自我は彼の内面から生まれた問いだと説明するのが一般的。でもそれは誤りだと思う。デカルトが見聞き読みする知識からすると、ヨーロッパ諸学は危機にあった。それこそ「天と地がひっくりかえる」ような大転換が彼の外で起きていた。デカルトはそれまでの知識体系と観測結果の差異に驚愕する。それが方法的懐疑と近代的自我がう編まれた理由。ここはものすごく強調するべき。彼もまた16~17世紀の科学革命の渦中にあった一人なのだ。
 もちろんこの「天と地がひっくりかえる」ような大転換はペストや飢饉のように具体的であるとか身体的危機であることはない。ふだんの生活の繰り返しにはなんの影響もない。知識人や聖職者にだけしか問題にしないこと。デカルトが敏感に反応したのは、彼が根無し草の放浪者で、どこにも所属していないところにもあると俺はみたい。教会や世俗権力のインサイダーという意識はないし、そこに入れば受け入れてくれる共同体もない。デカルトは単独者。なので、魂の救済を自力で解決しなければならない。コペルニクスガリレオのようなどこかの共同体のインサイダーではないのが彼の考えを徹底させた。

 

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2026/01/12 ルネ・デカルト「省察 (懐疑主義の系譜)」(KINDLE版)-3 本人には自覚がないパラダイム転換。後世の若い学者は振りかえって「省察」が革命であったのだという 1641年に続く