odd_hatchの読書ノート

エントリーは3400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2025/9/26

斉藤征雄「世阿弥の能を読む」(幻冬舎ルネッサンス新書) 義満の庇護で能は武家文化として定着し、江戸時代に荘厳化して、遅いテンポになった。

 いくつかの能をテレビで鑑賞したのを支えに世阿弥の「花伝書」を読んでみた。日本の中世も勉強したのでそれほど的を外してはいないと思うが、心もとないので、本書を読む。著者はサラリーマンを勤め上げた方。宝生流の手ほどきを受けて、以後鑑賞に励み、愛好家団体の幹事になっている。日本にも芸術に入れあげたディレッタントがいたのだと感心した。俺のごときにわかが何事かいうのもおこがましいほどに。それでも書きたいことはあるのでいくつか気づいたことをメモしよう。



 講談社文庫の「花伝書」では時代背景は書かれなかったし、俺も関心を持たなかったので、観阿弥・世阿弥の時代とそれ以降の受容の歴史を無視してしまった。そこを本書で補足しよう。そうすると、古代から宗教儀礼としての演劇ができてきた。宗教の根幹を伝えるのにテキストの朗読では十分ではないので、俳優による演技と音楽と舞踊でストーリー仕立ての劇が上演されるようになったのだ。参考にしたのは中国由来の種々の楽。次第に専門家集団が生まれ、寺社の庇護を得て各地で上演活動を行う。古代から中世の律令制や荘園では農業従事者は土地に縛り付けられていたが、寺社の許可状を持っていた芸能者はどこにでも行くことができた(代わりに身分制の最下位に貶められ、居住地は災害に弱いところにさせられた)。ここらへんは網野善彦「日本の歴史をよみなおす」(ちくま学芸文庫)に詳しい。で、14世紀半ばに権勢者となった足利義満は幾多の能楽座の中から観阿弥・世阿弥を選び、保護した。ということは彼等だけは寺社の庇護から離れ、将軍の管理下に置かれたことを意味する。パトロンが富裕層に変わり、観阿弥・世阿弥は家の安定を得たが、権力者の管理に従わねばならない。そういうところで書かれたのが「花伝書」など。義満の時代には公家と武士の区別はつかないくらいになっていたが、新参者の武士は数百年の伝統を持つ公家文化に対抗できない(文化のレベルが低いという劣等感もある)。そこで新興の芸術のパトロンになることで新しい武家文化を作ることにした。特長は、武士道の反映および公家文化と大衆文化のいいとこどり。公家文化の音曲と大衆芸能の舞踏・舞台芸術の融合。上流文化を下流文化趣味にしたのだね。
 以後、能は武士の芸能として定着(ほら、俺の言った通り、能が武士道の精髄を現わしているせいなのだ)。江戸時代になると、各地の藩が専門家を抱えるようになる。幕府は能の変革を禁止したので、能は荘厳化と固定化を招いた。観阿弥・世阿弥の時代にはあったアドリブが禁止される。テンポも倍の遅さになる。いまは一番100分くらいかかるが、過去は半分の時間で終えたらしい。花伝書では競技能で一日に五番かそれ以上も上演したというから、俺もそうだろうと思っていたが、そのとおりだった。通常の速度で謡を読めばそのくらいで終わるのだし。どこかで中世のテンポで能を上演しないものかねえ。
 明治政府は西洋化と反幕府なので能の支援と保護を打ち切った。廃業・転業した能楽師がたくさんいたという。以後なかなか大変な時代。明治10年代に華族の支援で能楽堂をつくり、収益がでるような興行形態に変えた。江戸時代まで協調しなかった流派が協力し合うようになる。それでも21世紀には関係者は全国で1000人くらいか。高齢化と後継者不足が顕著。
 タイトルは「世阿弥の能を読む」だが、読むのは主に世阿弥の書いた能の秘伝書。著者のみならず他の専門家の読みも勘案すれば、花伝書は俺が読んだように演技の秘伝を書いたものであって、そこに道徳や思想を読み取るのは駄目ということらしい。漢語の「幽玄」「花」「秘(すれば)」に惑わされるのか、世人は深読みをしすぎる模様。花伝書に出てくる「心」もその内容を検討することなく、精神論にもっていきがち。「心」を他人を支配する道具に使うのだ。それは駄目でしょ。武士はともかく、大衆は花伝書から人生訓を読み取る必要もあるまい。
(「花」「幽玄」などの観念はプロレスを通じてみれば理解可能であると思うのだ。肉体芸術であるという類似があり、演技者が観客の心を引きずり回すという点で。そうすると年齢ごとの秘訣も、プロレス道場の入門者がメインイベンターになるまでの心構えとしてみればしっくりくる。競技能でいかに勝つかはリングでいかに観客を引き付けるかの秘訣の参考になる。「秘すれば花」も、新しい技を開発したら大会場の大一番まで隠しておけというよいアドバイス。)
 さて、歴史的な記述以外は本書はほとんど参考にならなかった。能の舞台をみるときの参考になることが全く書かれていないのだ。本書の内容や参考文献をみても、どうやら日本の芸能には鑑賞論、観客論というのがないらしい。観阿弥・世阿弥は目利きの批判に耳を傾けろといっているが、どうやって目利きを育てるかは書かない。武士道のように口伝で伝えろというのかな。ということは、現代能を鑑賞する際に「花伝書」を使うと間違えるということだ。別の本も読まないといけないなあ。

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