放送大学の「世界文学を読む」講座によると、テキストを解釈する際、現代にも通じることとして読むアレゴリー的解釈と、それが出た当時の時代に即して読む文献学的解釈の二種類があるという。どっちがいいという話ではなく、どっちもやらないとダメ。
でも近世以前のテキストは文献学的解釈をしないと、意味が取れなくなる。おかしな解釈になりうるので、できるだけ作者とテキストの背景を考えながら読んだほうがいい。そういう態度で兼好「徒然草」を読んだら、他の人が言わないようなことを読み取ってしまった。妄想に近いものもあるはず。

その兼好の「徒然草」だが、兼好の死後(1357~58年と推定されているそう)忘れられたが、三百年以上たってから人気がでた。ことに江戸時代の前期にブームが起きて、たくさんの校本と注釈がでたそう。辻達也「江戸時代を考える」(中公新書)によると元禄時代に勉学が流行したので、そこで人気がでたのだろう。おそらく江戸時代は教育書や道徳の手本として読まれていたはず。しかし鎌倉末期と江戸時代では社会が大きく変わってしまったので、当時のアレゴリー的解釈はとんでもない間違いを犯していたのではないか。
というのは、1330年ころに書かれた「徒然草」には、実在の人物が登場している。宮廷や武家の習俗が書かれている。それを同時代のテキストと突き合わせてみる。すると、昭和の教科書に載っていたことはほぼ誤りであることがわかるのだ。著者はそういう作業を通じて、「吉田兼好」は江戸時代に捏造された経歴であることを明らかにした。「徒然草」人気に便乗したデマがその後ずっと継続していたのだ。最近は著者の説が認められて、「兼好」「兼好法師」表記になっている。
面白かったのは鎌倉の金沢文庫に収蔵された同時期の文書を整理したところ、兼好の名が出てくるものが見つかった。そこから若い時期のことが少し明らかになった。生年は1283年でおそらく伊勢の出身で官位がとても低い武家。早くに父を亡くしたので鎌倉にでた。歌と文が上手くなったので30代に京都に戻って有力御家人に使える。おそらく滝口と呼ばれる六位のとても低い官職だったという。宮廷の行事に参加することはできない。御家人に命じられて雑事をしていたようだ。だが和歌で名声がでて、主人やほかの御家人の代筆をしたり歌を教えたりしていたらしい。京都に土地を持っていてその収入で暮らしていけた。鎌倉末期には京都の朝廷では公家と武家が婚姻関係を結んで合体しようとしていた(公家・貴族は自力で収入が得られないので、武家の仕送りに頼らないといけない)ので、どちらの事もよく知っている兼好のようなそれなりの官位をもつ知識人を必要としていた。昔の鴨長明、藤原定家もそういう存在だったはずだが、兼好は彼等よりももっと官位が低かった。それでも宮廷と武家の間で生きていけたのだね。
存命時、兼好は歌人として有名になっていた(評価は上から4番目)。最大の名誉は天皇直々の勅撰集に載ること。しかし兼好の滝口(六位)では「読み人知らず」とされてしまう(ここはびっくり。無名氏の作を発掘したのではなかった。官位の低いものは人扱いされなかったのだ)。でも出家して法名を持っていれば、勅撰集に名前を載せることができる。兼好はもともと出家することになっていたので、抵抗はない。むしろ名を残すよい手段であったのだ(兼好かねよしは本名で、出家してから音読みの兼好けんこうになった)。
(もし「徒然草」が書かれなかったり、江戸時代に再発見がなかったりしたら、兼好は忘れられていた。勅撰集にいくつか収録されたり金沢文書にのこる資料に名が載ったりしているが、誰も調べようとしなかったし、生涯の詳細はわからなかっただろう。ましてや日本史や文学史に特筆される存在にはならなかった。)
「徒然草」のテーマのひとつは、遁世。これは単に出家することとみればよい。近世近代のように出家は世俗から離脱し、どこかの寺社に引きこもることではない。「徒然草」にでてくるように、狭い庵を作って住みそれらしい外見をしても、人びとと離れることはない。出家するのは家の財産や私財を捨てることではない。兼好のように所領地をもっていて定期収入があるから出家できたのでもあった。古代末期や中世の公家や武家が出家するのは珍しいことではない。
むしろ出家しているから、身分制社会の拘束から開放される。官位の違いによる差別を受けることがなくなる。公家と武家を自由に行き来できる。この時代、武家は公家になりたがっていたので、宮廷での習俗を知る必要があった。でも官位が高い武士が公家の家に教えを乞いに行くことができない。そこで兼好のようなものが行き来して教えを伝えたり、自分が知っていることを武家に教えたりしていた。兼好の生き方とはそういうもの。遁世は世俗に背を向けることではない。出世競争から脱落する代わりに、身分制社会では得られない自由を手にする。中世の知識人が存在価値を高めるための手段なのだ。
(俺が見るに、江戸時代や現代の読者のように、「遁世」を世捨て・厭世とみたり家族や地域から離脱したりすることと読むのは大間違い。)
(松岡心平「中世芸能講義」講談社学術文庫によると、「遁世」は政治権力から逃れること。勧進聖や無縁などがそう。護国宗教として仏教が採用されたので、僧侶は権力・国家が認定したものだけ。大きな寺社には貴族の長男以外の男がいわば就職先として入った。そのために寺社が貴族の所有物のようになっていた。出家して寺社にはいるが、現況を見限って再出家する人がいた。寺社との関係をきって無縁になった。無縁なので全国を自由に行き来できる。)
この時代、大草子を書く人が多数いた。大草子は前後不同で知識を記録するものだ。仏僧や武士の間で流行りの文学ジャンルになっていた。兼好もおそらく大草子を作っていた。兼好の文はよく知られていたから、読みたいという人もいたはずで、摘録なども都度作っただろう。そういう集大成として「徒然草」が1330年ころ(兼好50歳前、人生の集大成という気持ちもあっただろうなあ)に作られた。というわけで「徒然草」も突発的なテキストなのではなく、当時よくあったジャンルの一冊で、たまたまリバイバルがあって残されたものだ。啓蒙的な故実書だと本書の著者はいう。同時代の「太平紀」は武家の教科書、作法の指南書として読まれたという。典型的なヒーローと典型的な悪役(高師直)がいるのはそのせい。なので、俺の妄想である「徒然草」は武家の教科書・作法書というのは案外当たっていそう。本書の著者は、兼好は特定の読者を想定していないという。この時代の特定の読者というのは兼好が知っている個人や家、集団のこと。それはいないだろう(そこは宮廷・貴族の知り合いに読まれることを前提にした「枕草子」とは違う)。でも公武合体が進んでいる時代では、公家文化を知りたがる武家(それも西国の)を対象にしていることがわかる。
というわけで、「遁世」「無常」を近代から現代の意味で読み取ることは誤りであることが分かった。ことばが指し示すことは時代で大きく変わってしまうのだ。近世以前のテキストをアレゴリー的解釈で読むとむちゃくちゃ誤るよ。「徒然草」を単体で読むと、アレゴリー的解釈の暗黒面に陥るので、中世の本を数冊読んでからのほうがよい。
中世を知っている人の解釈を知りたくて、五味文彦「増補 『徒然草』の歴史学 」(角川ソフィア文庫)も読んだ。こちらはそれぞれの段にでてくる人物を調べたもの。14世紀の公家や武家には著名人がいないので、彼等の事蹟を詳しく説明されても、それを追いかけるのはかなりの苦痛。これが歴史学かと驚き、同時にこれは俺のように移り気で根気のないものには研究はできそうにないとため息をついた(俺のような妄想を書いたら、ゼミでボコボコに詰められそう)。
メモ。
兼好は「今」(14世紀前半で、南北朝があり、鎌倉幕府が滅亡寸前)の世は末世であるとみている。よかったのは9~11世紀の摂関時代と中国の「聖の御世」。なので好きな書物は「古今集」「源氏物語」「枕草子」「文選」「白氏文集」「老子」「孟子」。100年前(鎌倉幕府成立後)から朝廷は幕府の意向に基づいて動くようになっている(承久の乱で天皇が敗北したのが決定的)。兼好は世の中心は天皇と思っている(のでこの世には複雑な思いをもっていそう)。30代以降は京都に住んでいたので、「徒然草」は都市生活者の文学(なので似たような官位の下人の話がでてくる)。書と歌の代行をしていた。俺が妄想するに、兼好のような公家と武家をつなぐ知識人には鴨長明や藤原定家のような先達がいたが、兼好のあとは誰か有名な人はいたっけ? 中世の知識人の在り方としては最後のほうで、これ以降衰退するばかりだったのではないかしら。知識人として生活できる人が現れるのは江戸時代の中期になってからだろうなあ。知的な営みが室町後期から戦国時代にかけていったん途切れたのではないかしら。
二冊読んでとっても勉強になったのだが、日本の「徒然草」批評ってこのレベルなの?というがっかりも大きい。この二冊は文献学的な調査をしているが、兼好の時代がほとんど浮かび上がってこない。ここに書いたことを反映しても、「徒然草」から出てくるのは中世武士道の道徳と処世訓なのだ。近世・近代・現代の社会制度には合致しない。それなのに、いまだに現代に通じる人生訓、処世訓として読んでいる批評ばっかり。
「徒然草」は「風姿花伝」と同じ枠に入れたほうがいいんじゃないか。
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国文学者の「徒然草」評価をみたいので、放送大学の「方丈記と徒然草」講義を見ている。講師は島内裕子先生。とても残念なのは、中世のテキストを現代の物として読むアレゴリー的解釈で通していること。兼好(と長明)は中世でどういう身分で、どうやって生計を立てて、どのような人と交わっていたのかがまったくでてこない。現代の書斎の批評家(というイメージもステロタイプだが)のように孤独に考え、自分用の文書を作っているとみている。書斎の読書で思考が縮こまる危機を他者を会うことで克服したという物語を作っている。上記二冊のような文献学的解釈を取らない。現代の小説家のように兼好(と長明)をみてしまう。講義を聞きながら、「徒然草」の話題はでてくるが、どこか遠くの星のことを聞いているかのよう。
俺が妄想するに、兼好「徒然草」が発表当時から中世が終わるまでほとんど言及がなかったのは、凡庸なことをわかりやすく書いているから。当時の人びと(といって公家と武家に限るけど)にはあたりまえのことしか言っていない。無視してよい。でも権力が分散する中世から中央集権制になって身分格差が固定された近世になると、中世のあたりまえが通用しなくなる。そこに凡庸ではあってもすでに失われたことがわかりやすく書いてあったので、江戸の人たちは飛びついた。そこから読み手が現代的意義を見出そうとする読み方ばかりになった。
「徒然草」は日本文学の分水嶺ともいう(上記講義)。古事記万葉集から現代まで約1300年の中間にあるからという理由。他の理屈はない。途中に何度か起きた政体と社会の大変換を全く考慮していないので、唖然としたよ。国文学ってこんなのんきな学問なの?