日本文学の古典。高校でも一部を読むし、文庫でも全部を読むことができる。昔からたくさんの人が読んできた。これまでにたくさんの人が「徒然草」について書いている。(司馬遼太郎「竜馬が行く」で、京都の本屋で高杉晋助が「徒然草をくれ」と言ったら、長州弁だったので密告されたという話が書いてあった。たぶん作家のヨタ。)

素人の読みで何かを追加できることもないので、思いついたことをメモしておく。
・作者の兼好(吉田家の一族であるのは後世の捏造だとか)の生涯は、不明点が多々ある模様。13世紀後半に生まれて、14世紀半ばに亡くなったらしい。神官の家系に生まれて、30歳ころに出家する。歌人として有名であったようで、宮廷への出入りもあった。「徒然草」は書き溜めていたものを晩年にまとめたとされる。読んだのは昭和時代に出た岩波文庫版なので「吉田」表記があるが、21世紀の表記にならって姓は除いた。
・この時代は天皇家が南北朝に分かれて正統を争っていた時代。京都と鎌倉に武家政権があって、そこでも政争があった。貴族や武士からすると乱世であった。兼好は出世競争から脱落した下級貴族(かその周辺の人物)。出世するには生まれが悪すぎ、家に資産がないので出世の糸口にたどり着くこともできず、歌が上手いだけでは取り立ててもらえない。それで早々に競争をあきらめ、出家した。当時の神道は仏教との関係を深くしていたことを示す。なので神官から出家するのもおかしなことではない。兼好は法然を推している(この節の伝記は間違った。小川剛生「兼好法師 徒然草に記されなかった真実」中公新書が詳しい)。
・古代から中世までの文書は、自分のための備忘で書くことはたぶんないはず(「日記」ですら家人に読ませるものだった)。回し読みしたり朗読したりするなど、読者や聞き手の存在を前提にして書かれている。兼好は市井のうわさを収録しているが、これは彼の仕事の一部だったと妄想。兼好が集める噂を聞きたがる人がいた。彼等の趣味にあうようなうわさを兼好は集めて記録した(ときに笑話、落し話が入るのもそのせい)。そこに思想が入ることがあるが、それは兼好のものであると同時に、兼好の話を聞きたがった人たちが共有していた感情や思想だった。「徒然草」は、宮廷や武士、神官、仏僧などが構成する集団向けに書かれた文書なのだろう。それも個人が作ったというより集団制作に近いやり方で編集されたと妄想。
(「徒然草」第62段になぞなぞがあった。「ふたつ文字(モジ)、牛の角(ツノ)文字、直(ス)ぐな文字、歪(ユガ)み文字とぞ君は覚(オボ)ゆる。恋しく思ひ参らせ給ふとなり」というもの。当時の宮廷人、武士が趣味やたしなみとしてなぞなぞを掛け合っていたという証拠。それは逆に14世紀には宮廷人であっても和歌を詠むのが苦手な層が生まれていたということ。和歌に代わる知的遊戯がなぞなぞだった。参考:中世なぞなぞ集。)
・そうすると兼好の立場は貴族や武士、神官、仏僧などの政治的・知的エリート集団の一員ということになる。よく「徒然草」は日本人の美意識を現わしているというが、当時は身分と職業で人びとは厳格に分かれていた。兼好の美意識は「日本人」という集団のものではなく、彼が所属していた集団のものだ。彼と集団は生産活動をしていない。土に触り農作物を収穫したり、海産物を採集することはしていない。なので、本書にでてくる自然は実在するものからはほど遠い。そのうえ自然を見る際にも指向性がある。つまり兼好が見る自然は和歌に歌うことができる現象や対象物に限られる。それをみるときでも、和歌に歌うのにふさわしいかどうかで美醜が選別される。
(小川剛生「兼好法師」中公新書によると、和歌を上手く読むには形式を知ることが効果的だった。その際、古今集を範とする題と本意(ほい)が大事。形式に則っていれば誰もが理解でき上手い下手を評価できる。そういう歌を詠めるようになるのが、文化共有圏に参入できる資格であった。兼好は歌詠みであると同時に、歌を教える人だったから、形式を伝えることは必須。それが「徒然草」に反映していると思う。)
・「徒然草」の関心は「無常観」にあるという。ここに出てくる「無常」は寂寞、虚無のような概念ではない。現代の語感で「無常観」を判断しないことが大事。「無常観」は兼好がさいしょにいいだしたのではなく、彼の所属する集団や階層が共有している感情だった。平家物語や方丈記など兼好の百年以上前の文芸にすでに現れているものだった。彼の半世紀後に義満が「能」も庇護者になって武士公認の芸術になるが、謡本にも無常観は現れる(「徒然草」第百三十四段は世阿弥「花伝書」に近いことを言っている)。
(有名な段は、木に登る下男に主人が安全なところに降りてから忠告するところ。これを聞いた若い武士が自分の領地に戻った時に、同じことをしろという教育である。武士の人心掌握術を示しているのだ。繰り返される遁世も、普遍的な人生訓なのではなく、息子が成人して家督を継げるようになったら、父はさっさと隠遁しろという薦めだ。権力の二重化を防いで家を安泰にするためには男はそうするべきなのだ。現代人が「徒然草」を教訓として読むのは誤り。)
・このころは人はすぐに死ぬ時代。子どものうちに死ぬものは多数、成人しても事故や病気ですぐに亡くなる。40歳はもう老年。人は生まれては消えるというのが目に見える現実だった。そのうえ兼好が所属する集団は離合集散、同盟と離反がつきもの。今日の平安は明日に凶事となりうる。主君の命令は絶対。いつ死地にいくことになるかわからない。人は死んだら(それが「無常」ということ)、出生身分にかかわらず仏になるという仏教の教えに魅かれる。なので、生あるものは「無常」がつねにそばにいることをわきまえて、準備を怠るなが強調される。現生利益を求めるな、富を積み上げることに専念するな、他人の言に惑わされるな、書物を読むのはけっこうだがそれより(武)芸と道を究めろ、などの処世訓が本書に出てくるゆえん。死を覚悟する心構えといっしょに、行動では死を回避することが大事なので、考えと処世は現状肯定的で保守的。商人がやるようなリスクを取って冒険することは嫌われる。
(小川剛生「徒然草を読み直す」ちくまプリマー新書によると、「遁世」は仏道の修行をすることとのよし。俺の妄想だが、「遁世」で修行を進めるのも武士道の徳になると思う。)
・全部で二百数十の段がある。短いと数行。長くても1000字くらい。これなら読むのに慣れていない人でも苦にならないだろう。一段を朗読しても十分かからない。聞いても飽きない。そこに書いてあるのは、市井のゴシップを除くと、武士の心得、人と付き合う法、人を見究める見方、人に見られていない時の律し方、武芸の指南など。すなわち宮廷や執政官として暮らしている一族のためになる作法を教えるものだ。主要な徳目は武士道。「徒然草」を朗読したり、誰かが読むのを聞いて、修養と教育に利用したのだろうね。そういう書置きをつくるうちに、たくさんの紙片が集まったので、一冊にまとめた(という)。評判がよくて様々な人が筆写して残した。それが現在に伝わる。
・これらから推測できるのは、「徒然草」の教訓には武士道が濃厚に反映されていること。死を意識すること、芸を磨き、随所で適切な判断ができる知識を得ること。それが「徒然草」に書いてあること。なので、「無常観」を取り出してそこに諦念や寂寥をあてはめたり、「遁世」に現世嫌悪や出奔願望などを見出したりして日本人の意識や思想とみるのは、大事な背景を無視していることになる。
(中世には武士道の思想を記述するテキストは作られなかった。口伝や実践で伝えるものだから。なのでこういう読み物には武士道の思想の一部だけが反映される。一方、商人や百姓(@網野善彦)の思想は書かれなかったし、残らなかった。)
(小川剛生「兼好法師」中公新書によると、そういう書置きを「大草子」といったそう。主には故実を記録していた。公家や武家の間ではやっていて、文学ジャンルになっていたそう。俺の妄想はけっこう当たっていた。さらに妄想を付け加えると、兼好は歌と文の人だが、あわせて座談・語りの人だったと思う。弁が立って面白いことや有益なことを喋れたので、人が集まり、人に重宝された。)
(晩年になって書付を一冊にまとめたという説に基づけば、序段の「あやしうこそものぐるほしけれ」も別の意味を持っていそう。生の終わりになったのを自覚する。「そこはかとなく書きつくれ」ていたのは書付を清書していたから。過去の自分を顧みて「あやしうこそものぐるほしけれ」になったのではないか、と。清貧や世捨ての教えを書いても、まだ自分の中にある欲や執着は消せない、そのことへの自嘲や諦めが込められていそう。本段になると、集団や共同体の声を書いているのだが、序段は兼好の個人的な声、秘め事を書いている。ここだけ声の調子が異なっている。序段だけが近代の形式につながっている。近代人はそこに魅かれる。同時に後の段も個人の声なのだという誤解を持つことになる。)
・「徒然草」は宮廷とその周辺にある当時の上流階級のためのもの。個人的な述懐や内面を秘密に書いておいたものではない。随筆というが、近代以降の随筆のように読むのはダメ。
(と啖呵をきってしまったが、ゼミでこの意見を発表すると、思い付きで傍証がないとボコボコにされるだろうなあ。なにしろ「徒然草」は書かれてからすぐに忘れられて再発見は300年後だからね。中世に誰かが俺のような言及をしていたら、いまごろは俺のような評価になっていただろう。いい思い付きだと思うんだけどね。)
・日本列島(北海道と奄美沖縄を除く)は温帯に属する島国。一方、日本が憧れる当時の中国の中心地は亜熱帯で巨大な大陸の一角。当然、風景も花鳥風月も異なる。日本のエリートたちは中国の文人のように自然をみたいが、それはかなわない。在るものが異なるから、それを一致させたいのと、差異を際立たせたい。日本の美意識はそうやってつくられた。兼好のころには日中の行き来がほとんど失われていたので(使者をおくることをしないし、直前に元寇があり元も混乱していた)、日本的な美意識になっていた。兼好のような知的エリートでも、源氏物語や枕草子、古今集への関心はあっても、中国への関心はほぼない。
・兼好の死後に、義満が政権を取るようになり、中国との貿易を再開するようになると、中国への関心は再開する。でも、義満が死ぬと貿易は途絶える。古代末期から中世にかけて日本が世界に広がる可能性があったほぼ唯一の時期(あとは平清盛のときか)。
・東国武士は世界とのかかわりを持とうとしなかった。人の縁で物事を決めていく政治をやろうとした。権威と権力を別にした。こういう傾向が中世以降の武家政権の方針だった。最初の武家政権ができてから100年以上もたつと、京都の宮廷人やその周辺にも定着して内面化していたのだなあ(公家と武家の婚姻が繰り返されていて、かつては別の身分だったが、合体してきたとのこと)。
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