丸亭素人(まるてい・そじん)(1864-1913)はwikiにも項目がない。そこで九鬼紫郎「探偵小説百科」(金園社)を引用する。
「"今日新聞"が"都新聞"と改題したのは明治二一年で、黒岩涙香は翌年一一月に都新聞〟の主筆になる。彼はそのとき「美人の獄(フロレンス・マリエット女史作)」を絵入自由新聞〟に一六回まで書いていたが、新聞社の主筆になったので他社への寄稿はぐあいがわるく、丸亭素人が起用されて『美人の獄』を一八回書きたして完成した。素人については本名が遠藤速太、東京日日新聞社の記者としか分っていないが、語学が達者らしく、また新聞記者有の達筆さであり、多くの探偵小説、犯罪小説を訳述している。ただし流行の波に便乗し、訳し飛ばした形跡があり面白い原本をえらびながらも、文章に情熱なく、粗雑な訳述ぶりであった。したがって涙香をまねて及ばず、訳業も一〇年とつづかない。彼について記録すべきことは、南陽外史が二〇年に訳出したガボリオーの「オルシヴァルの犯罪」を、二五年に『大疑獄』と題して訳し、これが今古堂から出版されていることと、ファーガス・ヒュームの「二輪馬車の秘密」を『鬼車』という題で出したことなどである。」
本書の解説はもうすこし情報が追加されているので参照してください。
彼の訳書を国会図書館で公開されているPDFで読んだという人がいた。リンク参照。
『涙美人』 丸亭素人・訳述 - 明治大正埋蔵本読渉記
『殺害事件』 丸亭素人・訳 - 明治大正埋蔵本読渉記
「オルシヴァルの犯罪」はリンク先を参照。
19世紀のベストセラー、ファーガス・ヒュームの「二輪馬車の秘密」は明治期から何度か翻訳されてきた。初訳は丸亭素人(1905)。次が横溝正史訳。そのあとには江藤淳訳(1964)と、高木直二訳(2019)がある。既読は横溝正史のもの。1928の「新青年」連載の抄訳。この訳と比べると、後半3分の1を端折った。1930の単行本は全訳。文庫にはいずれも収録されている。その時の感想はリンク先で。
横溝正史「翻訳コレクション」(扶桑社文庫)「二輪馬車の秘密」
メルボルン深夜の二輪馬車で毒殺された紳士が見つかった。馬車に乗せた別の紳士の行方はわからず被害者の名前もわからない。そこで探偵が行方不明の旅行者がいないかというところから捜査を開始。被害者はイギリスからきたばかりの紳士であることが分かった。彼はとある富豪のお嬢さんに求婚していたが、お嬢さんには別の許嫁がいる。取り調べると、犯人であると自白したが、なぜそうしたかはがんとして口を割らない。そこで容疑者の友人である弁護士とお嬢さんが一緒に捜査することにした。容疑者の持ち物にある貧民窟で出した手紙があった。尋ねると、アル中の口やかましい老婆を見つける。彼女は娘が容疑者の紳士が事件当日に貧民窟にいたのを見たといっている。しかしその娘は行方不明。失意のまま公判に臨むが自白と黙秘を貫く容疑者の心証は最悪。でも、別の探偵の捜査により娘は発見され、容疑者の告訴は取り下げられた(横溝正史の「新青年」版はここまでで、とってつけたようなエンディングになる)。さてなぜ貧民窟に容疑者は言ったのか。そこは口を割らないので、探偵はさらに捜査を進め、思いもかけぬ因縁と実に悪質な真犯人を発見したのであった。
真相は秘密の日記に書いておくとして、ここにはポーやドイルのようなトリックはない。隠していたのは家族の秘密。見かけの関係の裏には昔からの因縁があり、親の不始末が数十年後に子に不吉となる。この仕組みはガボリオやボアゴベのような家庭小説の系譜に連なるもの(ただしヒュームの原作はいきなり単行本ででた)。当時の読者の関心はメロドラマとゴシックロマンスにあったことがわかる。とはいえ、本作が心に今一つ残らなかったのは少し前の小説を思い出したから。このストーリーの趣向は、逮捕された容疑者が犯行を認めてもその理由をガンとして明かさないところ。明かせば無罪放免になるのに、なぜ沈黙するのか。なぜ許嫁にすら告白しないのか。その心理を探るところにある。このストーリーはすでにボアゴベが「ルコック氏の晩年」1878で書いていた。本作よりもっと波乱万丈の犯罪小説に仕立て上げていた。本邦では黒岩涙香御大が「死美人」1891で紹介していた。これと比べるといかにも貧相(なのでなんで江戸川乱歩は古典時代のベスト10に入れたのか)。
あと解説によると、邦訳はこういう特徴がある。
「興味深いのは、丸亭素人も横溝正史も、謎解きに関係ない記述――聖書やギリシャ神話やシェイクスピアからの引用、恋人同士の会話、ユーモラスな登場人物、メルボルン市街の描写など――を大胆に削ることによって、ミステリーとしての完成度を高めようとしたことである。」
ああ、この刈込のために邦訳はつまらなくなったのだ。「謎ときに関係ない記述」こそが小説のキモだったのに。オーストラリア産の小説がイギリスでベストセラーになったのは「メルボルン市街の描写」があったせい。上のような家族問題を扱うには「恋人同士の会話、ユーモラスな登場人物」など多彩なキャラとその活躍が必要不可欠。引用や蘊蓄はキャラを立体的に見せるために必須。こうやって骨格だけのストーリーと役割だけのキャラでは興味を持てない。謎解きに特化してしまうと小説はとても貧相なものになってしまう。黒岩涙香の翻案も相当な刈込があったが、描写に手を抜かなかったし、達意の文章で小説の豊かさを持ったのだった。九鬼紫郎の評は辛口のように見えて、正鵠を射っていた。
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