odd_hatchの読書ノート

エントリーは2200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。

チェルヌイシェフスキー「何をなすべきか 下」(岩波文庫)-1

f:id:odd_hatch:20200124093653p:plain  f:id:odd_hatch:20200124093610p:plain

 長かった。ほとんどはヴェーラの恋愛と家庭生活について。いれかわりたちかわりにヴェーラの前に男が現れる。ヴェーラは気をひかれたり、幻滅したり。結婚して愛想をつかし、別の男と結婚し。長じてからは若い娘の指南役になり、家族や夫の束縛をいかに解き放ち、自立していくかが主題になる。全体を通じて登場するのはヴェーラのみ。こういう話はどこかで見たことがあると思ったら、NHK朝の連続テレビ小説だった。あるいは少女マンガ。周囲より優れた女性の一代記というところで庄司陽子「生徒諸君」を思い出した。
 というのも、小説作法でいうとおよそドラマがないこと。ヴェーラが男をめぐって逡巡するところで、彼女の内面が語られず、彼女を説得する会話が延々と続く。その次の章では決着がついていて、ドラマの重大なところ(たとえば心変わりや決心、相手の同意を得ること。あるいはパーティ)がまったくない。細部に拘泥するが、ストーリーには無関心。小説や物語に浸る快感がまったくない。
 同時代の作家(ドスト氏やゴーゴリなど)に比べると、およそ読みでがないのだが、当時のベストセラーになった。著者の特異な状況(獄中にあった)を置いておくと、こういう進展しないで同じことを繰り返すソープオペラの手法が気に入られたのだろう。あとは、ペテルブルグの上流階級が舞台であるということか。うーん。
 ヴェーラはペテルブルグの貴族の娘として生まれる。ロシア帝政の盛期であって人治主義のなかにうまく入れば、出世と金儲けが期待できる(ヨーロッパの投資もこのころから盛んに)。なので親は軍人を婚約者にしようと画策する(むしろDVだな)が、ヴェーラは自立することを選ぶ(当時知的な女性の職業は家庭教師くらいしかない)。軍人のだらしなさに幻滅し、医学生の男と婚約する。そのころから男女同権を目指す。そのために行ったのは、自身を経済活動の中にいれること。裁縫の得意な仲間を集め店を開く。共同経営にして成功し、多店舗に展開。社員(という言い方はしていないが)教育をしっかりと行い(女性ばかりなので義務教育も不足している人ばかり)、事業のみならず生活協同組合も成功させる。そのような志向は、社会主義思想との関係もあり、革命家の思想にも深く共感する。
 「女性問題(実際は男性の差別やDVの問題であるが、人口に膾炙しているのはこちらなので使用する)」を書いた最初期の本ではないかしら(人種差別であればストウ夫人の「アンクル・トムの小屋」がほぼ同時期)。帝政ロシアでは階級が固定されていて差別や搾取は状態であったが、女性の場合も同様。満足な教育を受けられず、経済活動に参加できず、恋愛の自由は妨げられ、家庭では男の権力に従わなければならない。自立や自活をしようにも、社会には鉄やガラスの壁が幾重にもあって、簡単に破ることはできない。そこにおいてヴェーラは自立・自活しようとする女性のモデルとなりうる。教育を受けること、親の束縛から逃れることが最初に行うこと。そのきっかけが駆け落ちと結婚。理解ある男から教育され、自分で考えるようになって、経済参加を果たす。そして次の世代の教育を行う。
 この流れは、生活-労働-活動(@ハンナ・アーレント)の諸段階における男女同権の在り方のモデルになる。すなわち、最初の婚約(の強制)において家族の束縛や圧迫を拒否して自立し、生活の自立と同時に経済的な自立(ここでは家庭教師になること)をめざす。その後ある程度の資本を蓄積したところで、女性の自首経営による経済的自立を目指す。それを達成したところで社会的活動において支援活動を進め、自立しがたい人々を啓発し支援して自立に促す。各段階において男性(というかマチズモやミソジニー、家父長制など)の介入や攻撃がほとんど起こらないのは、現実とは遊離したユートピアを構想しているからであろう。あるいは上流貴族やブルジョアの「道徳」が抑制しているとも想像できるかもしれない。
(ヴェーラが自立のために選択した職業は、家庭教師と縫製と医師であるが、発展途上国で差別や貧困から抜け出すための職業として選ばれているものと同じ。教育や医療は無知や貧困から抜け出すための具体的な支援や啓発の手段になるのと、その職業がたくさんの人とかかわりあうので社会起業家になるのだ。)
 とはいえ、著者のブログラムを書いた小説に不満があるのは、家庭のシャドウ・ワークについて言及や考慮がないこと(資産をそれなりに持っているから自分でやる必要がないからかな)。ヴェーラは女性への暴力の支配がなくなれば女性は知的・生活において男性を追い越すかもしれないという発想をもちながら、その暴力が最初に振るわれる家庭をよく描かない(せいぜいヴェーラの母の理不尽さと無知蒙昧を描くくらい)。資本主義と市場について言及や考慮がないこと(縫製店や縫製工場が成功するまでにライバルとの競争や妨害があり、定期的な不況に襲われるだろう)。ことに自主経営では組織の拡大につれて管理や意思統一が難しくなるはずだが、そこをスルーしているところ。まあ、ある程度の規模になったら有力なメンバーに新規出店させて一切を任し、メンバーが増えすぎないように工夫して、問題を回避しているのだろう。と好意的にみる。著者が影響を受けたと想像するアソシエーショナリズムの素朴な形態がここにあるのであって、資本主義ではない経済活動の未来をみたいから柄谷行人「倫理21」(平凡社)

  

チェルヌイシェフスキー「何をなすべきか 下」(岩波文庫)-2

f:id:odd_hatch:20200124093653p:plain  f:id:odd_hatch:20200124093610p:plain

 「宮殿」の比喩が二回出てくる。この比喩には同時代のドスト氏が「地下室の手記(地下生活者の手記)」で批判しているので注目。
 一回目は、第3章の終わりに出てくるラフメートフの人となりにおいて。ヴェーラの前に現れた男は、軍人や医学生などロシア帝国の上流階級。帝国のシステムが維持される限り、大きな失敗をしない限りは、それなりに「豊かな生活@ガルブレイス」が保証された身分。このラフメートフは地方の中産階級の出で、父の代までに没落している。そこで国内およびヨーロッパ各地を放浪し、下層階級の中でもまれてきた(チェ・ゲバラや主徳、ホー・チミンらの経歴に似ている)。そこから「民衆の中へ」と決意し、自身を「革命家」と規定して、定住地を持たない暮らしを選択する(おそらく家族も作らないから、ラフメートフはボリシェヴィキの「革命家」第一号にあたる。レーニンが熱狂したのはここかな?)。そのようなラフメートフを著者は「宮殿を作る人」、英雄と呼ぶ。なんとなれば、ほとんどの人は地下のひとであり(ヴェーラの最初のパートナーであるロプホーフはヴェーラを「地下室からでられる」といって求愛したのだった)、そこから脱出できてもせいぜい「地面の人」である。そのような地面の上に建てるのが「宮殿」なのだ。
 その宮殿が具体的になるのは、第4章でヴェーラが見る夢において。過去とも未来ともつかないのは夢だから。どこかの町。女神に案内される街は生活と労働の苦労がない。男女同権が実現されていて、各人が平等で自由。すなわち女が男の「所有物」「奴隷」「純潔な処女」であることがなくなったので。町の中心には鉄とかガラスでできた透明「宮殿」がある。人々はそこにはいないが、劇場・図書館・美術館などにいて、自分の好きなことをしてよい。すなわち他人に強制される労働はなく、自分に必要な応分の生産作業をすればよく(多くの作業は機械が行っている)、それ以外は各人の自由になるから。このユートピア幻想は具体性に乏しく詩的なイメージで書かれている。ユートピアの運営にさほど拘泥しないのは、このユートピアがヴェーラの共同経営や生産消費協同組合の延長にあるからだろう。他のところで運営に関する議論はすましているからだ。
 ロシアは資本主義の黎明期であるとか、経済学は古典派しかないとか、著者が参照できる情報は少ないので、ユートピアの構想が空想的になってしまうのは仕方ない。そのうえ、人間の心理に対する考察もないので、集団化された人間の動向を楽天的に考えているのも不十分(そこはイギリスやフランスの革命を見て、ポピュリズムについて考えてほしかった(カール・マルクス「ルイ・ボナパルトブリュメール十八日」が1852年にでているが、さすがにロシアでは読めなかっただろう)。
 21世紀の読者は、本書がでてからの150年の間に、全体主義の監視社会やマイノリティへのホロコーストが行われたり、ポピュリズムによる社会の不安定を見たりしているので、著者の提起した社会変革のプログラムにはさまざまな不備があることを知っている。著者が「宮殿の人」と呼んだラフメートフのような革命家がいかに民衆を嫌悪したかも知っている。もはや、これを読んで革命運動に参加することはないだろうし、ラフメートフをロールモデルにする人もいないだろう(彼の放浪癖はドスト氏のスタヴローギン@悪霊に似ている。いずれ彼と同じ民衆嫌悪に至るのではないかと危惧)。
 むしろ可能性は不十分にしか書かれていない共同経営と生活消費協同組合にみたほうがよいか。これもまた150年の間に実験と失敗、弾圧の繰り返しなので、成功の可能性はとても低い。それでも資本主義ではない経済を構想するとき、魅惑的にみえるのだよなあ。
 もう一つの論点は、「地下生活者の手記」にはあらわれず、ずっとのちの「カラマーゾフの兄弟」での告発だろう。イワンの以下のセリフ。
「さあ、答えてみろ。いいか、かりにおまえが、自分の手で人間の運命という建物を建てるとする。最終的に人々を幸せにし、ついには平和と平安を与えるのが目的だ。ところがそのためには、まだほんのちっぽけな子を何がなんでも、そう、あの、小さなこぶしで自分の胸を叩いていた女の子でもいい、その子を苦しめなければならない。そして、その子の無償の涙のうえにこの建物の礎を築くことになるとする。で、おまえはそうした条件のもとで、その建物の建築家になることに同意するのか、言ってみろ、うそはつくな!(カラマーゾフの兄弟 2」光文社古典文庫P248」
 チェルヌイシェフスキーの小説には「宮殿」のなかに「小さなこぶしで自分の胸を叩いていた女の子」はいないようにみえる。なにしろ「地下室」に住む人は宮殿ができるまでにいなくなってしまったからだ。社会変革が隅々まで行き届くと、すべての人は地上にでてくると考えているわけだ。
 しかし、「地下室」に生活するドストエフスキーはそのような子供を幻視する。あるいは領主に鞭打たれる農民や馬であるかもしれない(でもドスト氏はロシア社会のマイノリティであるユダヤ人には冷淡。どころか差別的)。彼らのような辱められ虐げられた人々が宮殿の地下室に閉じ込められている。彼らは革命家にもなれず、革命から取り残される人々だ。革命家になった人たちは宮殿で優雅に過ごすことができる。しかし足元の床の下にいる取り残された人々はみえない(床からは上にいる人々を見ることができる。マイノリティとマジョリティの関係には非対称性があるわけ)。
 イワンは「建物の建築家になることに同意するのか」と問い詰める。アリョーシャはしずかに「いいえ、しないでしょうね」と答える。ここでは、チェルヌイシェフスキーの希望や理想をイワンやアリョーシャは引き継がないことを宣言している。ではどうするか。それにこたえるにはドスト氏の時間がなかった。もしかしたら「カラマーゾフの兄弟」第2部が回答になったかもしれない。
<参考エントリー>
亀山郁夫「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」(光文社新書) 

  

(追記。読み落としていたのは、チェルヌイシェフスキーの「水晶宮」はベンサムやミルの「最大多数の最大幸福」を実現する功利主義の理想化であること。社会の構成員の幸福の総和がおおきいほど、社会が幸福になるという考え。でも、この考えの欠点はマイノリティの幸福が-1のときに、マジョリティの幸福が+10くらいになると、幸福の総和は、マイノリティとマジョリティの幸福が+1だったときよりも大きくなるので、より良いと判断されること。それはマイノリティを不幸にすることで、マジョリティが幸福になる。そういうありかたは社会の正義や公共の善と照らしてみるとおかしいのではないか。在住する外国人を貧困・過重労働のままにするとか、公害被害者を放置して公害除去の施策をとらないとか、弱者の介護を女性や若者に押し付けるとか、よくない事例には事欠かない。仮に国内の幸福が公正に最大化されたとしても、他国の人権侵害や搾取の上にあったのでは、国内の幸福が正当であるとはいえない。これは功利主義の欠点。
 そこにおいて、ドストエフスキーの弾劾に正当な意味が生まれる。ドスト氏の弾劾はまさに功利主義に対する批判であるわけなのだ。ただ、ドスト氏は功利主義に代わる正義や善を提示していない(「カラマーゾフの兄弟」を読み返せば、彼が構想するキリスト教社会主義がみえてくるかもしれないが)。イワンやドスト氏の批判の先で正義や善を構想することは市民社会の課題になる。チェルヌイシェフスキーやドストエフスキーの指摘から150年以上たっても回答は生まれていないが(ロールズやサンデルの議論は参考になる)。
<参考エントリー>
2019/11/28 フョードル・ドストエフスキー「作家の日記 下」(河出書房)-3(1880年) 1880年

 サンデルの功利主義批判は、「道徳性とリベラルの理想」(「公共哲学」所収)に書いてあるのが、わかりやすい。以下のエントリーではサンデルの考えをまとめなかったが、一応参考まで。
マイケル・サンデル「公共哲学」(ちくま学芸文庫)-3

フョードル・ドストエフスキー「地下生活者の手記(地下室の手記)(河出書房)-1

タイトルは米川正夫がつけたもの。江川卓訳(新潮文庫)では「地下室の手記」。原題に即すると「地下室」が正しいというが、本書がチェルヌイシェフスキー「何をなすべきか」批判の書というとき、同書(岩波文庫版)に出てくる「地下室の人」の意味を持っている「地下生活者」の方がいいと自分は思う。それに、主人公の「ぼく」は地下室ではなく、普通の部屋に住んでいるのだし。
(米川訳と江川訳の二冊を読んだが、最近読んだ江川訳で感想を書く。)f:id:odd_hatch:20200117094319p:plain  f:id:odd_hatch:20200117094356p:plain

 「ぼく(米川訳では「わたし」)」は40歳。元役人だったが、6000ルーブリの小金を遺産相続でもらったので、退職して引きこもることにした。自分は何も始めず、何もやりとげなかった、何にもなれない、病んだ、意地の悪い人間。それでもなお自意識はあるし、しゃべることはできる。とうわけで、「ぼく」の内にこもった呪詛やひねくれを書きつけよう。(書いている間は)存在しない読者のつっこみに煙幕を張り、何もしない時には滅入る気持ちも書くことで晴れてくるからと正当化も隠さない。そのような独身男のモノローグを聞こうじゃないか。
 何に対する呪詛やひねくれであるかは小説だけを読んでいるとわからないが、前年(1863年)に出版されたチェルヌイシェフスキーの小説「何をなすべきか」を並べると見えてくる。
 ドスト氏は流刑前にはチェルヌイシェフスキーも参加していたペトラシェフスキー・サークルに所属していた。米川正夫によると、流刑から帰ったドスト氏は
「いっさいの社会主義学説に対して、烈しい憎悪をいだき、社会主義の説くところの理論による合理的な社会統制ということを、個人の奴隷化・個性の蹂躙ということと同一視していたのである(全集P453)」。
そういうところからすると、ドスト氏のチェルヌイシェフスキー批判、社会主義批判は筋がよくない。ドスト氏の脳裏にあって、そのようなことを言っていない社会主義理論や「水晶宮」を批判している。一種の藁人形論法をつかっている。そのことは米川正夫も全集の解説で指摘している。チェルヌイシェフスキーの小説の中では、「個人の奴隷化・個性の蹂躙」を行うような言説はないものな。ドスト氏のいう「水晶宮」だって、「何をなすべきか」ではシンボルとしてあるが、人がそこには集まらない場所になっている。なにしろ「何をなすべきか」の共同経営や生活消費協同組合には代表やまとめ役はいても、指導者・リーダーはいない。ほかにもドスト氏の指摘はチェルヌイシェフスキーや社会主義には刺さらない(まあ、のちのボリシェヴィキによる個人の奴隷化・個性の蹂躙を19世紀なかばで見出したのは慧眼であると思う。ああ、フランス革命の記憶があるか)。
(「ぼく」のいう「水晶宮」は、「夏象冬記」をみると、パリ万博の「水晶宮」と混同している節がある。ドスト氏は「水晶宮」をブルジョア精神の象徴とみていたようだ。チェルヌイシェフスキーの「宮殿」はブルジョアなき後に建てられるものであるので、ドスト氏の批判はどうも的外れに見える。)
 思うに、チェルヌイシェフスキーは共同体(共同経営や組合など)の規範や組織化について語り、「ぼく」は自意識や内面の個人(の自由)について語る。彼らの思考には複数の共同体が並立していて、それぞれが独自の規範や道徳を持っていて、共同体の間で規範や道徳が衝突しあうという公共の空間(交通空間@柄谷行人)を想定していない。資本主義や貨幣経済が十分にいきわたっていないので、市場も小さい(「何をなすべきか」にはイギリス資本がロシアに投資することが書かれていたが)。互いに規範や道徳を異にする人がであうようになっていない。なので、「何をなすべきか」には個人(とりわけ貧困層)の内面には無頓着であるし(これものちのボリシェヴィキの指導する前衛と教育される大衆の構図をみていいかも)、地下室住人の「ぼく」はひきこもりであるせいか、役人であったにもかかわらず社会の構造には無知。これでは話が通じるわけはない。
 「水晶宮」批判で「ぼく」は人間を啓蒙して正しい真の利益に目を開けてやれば、汚らわしい行為をやめて善良で高潔な存在になるのはうそっぱちだという(チェルヌイシェフスキーは、共同経営や協同組合に参加すると正しい行為をするようになるといっているだけ。ドスト氏は結果と原因を混同していない?)。さらに利益は幸福・富・自由だというが(チェル(略))、もう一つ別の利益があると宣言して、ずっと明かさない。これもよくない議論。それに利益や富という経済学の指標と幸福や自由という別の概念をごっちゃにする議論もよろしくない。で、もうひとつの利益があいまいに提示されるが、どうやら愚行権を認めろということのようです。
 ドスト氏の「ぼく」の激烈な批判、のごときもの、は藁人形論法といい、個人の体験を法則にするような拡大化といい、ネトウヨや冷笑家の言い草によく似ていて、なるほど150年以上前から似たような連中はいたのだなあと嘆息する。
  

          

(追記。古い読書メモを見た。第1部の批判先は、水晶宮(チェルヌイシェフスキー)、美にして崇高なるもの(カント)、自然と真理の人(ルソー)、ロックやヒュームの功利的人間(市民社会の理念)、フランス革命の普遍的人間(近代国家の理念)であるとのこと。たぶん誰かの指摘したことのメモ。水晶宮にとらわれて、ドスト氏の18世紀思想批判をすっかり読み落としました。次回の再読のときに、ここに注目するようにしよう。)


(追記2。地下生活者による「水晶宮」の功利主義批判は、以下のエントリーに書いてみた。)
チェルヌイシェフスキー「何をなすべきか 下」(岩波文庫)-2

 

2020/01/21 フョードル・ドストエフスキー「地下生活者の手記(地下室の手記)(河出書房)-2 1864年
2020/01/20 フョードル・ドストエフスキー「地下生活者の手記(地下室の手記)(河出書房)-3 1864年
2020/01/17 フョードル・ドストエフスキー「地下生活者の手記(地下室の手記)(河出書房)-4 1864年