odd_hatchの読書ノート

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フョードル・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟 4」(光文社古典新訳文庫)第4部第11編「兄イワン」(承前) イワンの前に現れた紳士は悪魔でありスメルジャコフでありイワン自身である。この章は「大審問官」のパロディ。

 スメルジャコフとの面会と、夜間の行き倒れた百姓の介抱で疲れたイワンは、帰宅した薄寒い暗い部屋に誰かがいるが見える。スメルジャコフに顔色が悪い、幻覚症ではないかと指摘されたのが気にかかる。幻覚症は21世紀の用語でいえば統合失調症の症状とみなせる。ここで思い返せば、ドスト氏はこの精神疾患に関心をもち、小説のキャラクターにこの病気を持たせていたのだった。「貧しい人々」「分身(二重人格)」がそれ。自分の分身がいると思い込み、〈彼〉と話しこむ。自他の境界がぼんやりとして、自分の声が他人からのように聞こえる。

第11編「兄イワン」 ・・・ その〈人〉は50歳に手が届こうかというロシア紳士だった(当時ではとても高齢な老人)。彼はうそぶく。「おまえは俺、俺自身。愚劣で俗悪。君の悪夢で、宇宙空間をひとまたぎ」「人間に化ける堕落した天使で、一切合切が不定方程式(方程式の数よりも未知数の数のほうが多いため、解が無数に存在する方程式)みたい」。こうやって紳士はイワンをさげすみ、からかう。すなわち、イワンが言ってきたことを小ばかにするように繰り返すのだ。繰り返しているところは省いて、この紳士が言ったことを拾おう。

「何事も否定する。苦しみこそ人生、苦しみのない人生にどんな満足がある?」
「神がいるのかいないのかわからない」「信仰と不信の間をつれまわしてみせる」
「荒野で17年イナゴを食って祈っていた連中を誘惑したことがある。それだけしかしてこなかった」
「僕がホザナ(神をたたえよ)と叫ぶと、地上のものがすべて消し飛ぶ。だから義務と立場からいえない。ひとりを救うために、何千人を滅ぼす」

 のちにイワンはこの紳士を悪魔と呼び、ドスト氏も章のタイトルに悪魔を使っている。この小説のあとにアメリカのペシミズムな作家が悪魔に語らせる小説を書いた。その悪魔も、ドスト氏の紳士のように人を小ばかにし、何もかも否定する。ドスト氏は2+2=4の固定された答えを押し付けられるのが嫌いだったが、不定方程式のようなこの紳士はお気に入りになるかもしれない。科学が迷信やデマをはびこらせたと合理主義が二人とも嫌いだし。
マーク・トウェイン不思議な少年」(岩波文庫

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 この紳士、悪魔には主張したいことがない。相手が言っていることを繰り返すか、否定する。強い主張を小ばかにし、揚げ足を取る。主張を相対化して、無価値・無意味であると決めつける。行動することをからかい、何をしても無駄と冷笑する。堕落するというのは自分に自信をもてず、何かを創作するのを断念させることなのだろう。「大審問官」も否定の塊だった。彼は組織や集団を維持することしか考えていない。頑なに変化を拒み、大衆が自意識を持つののを妨げる。この紳士はそんな大審問官も小ばかにする。大審問官は断罪・弾劾するが決して誘惑しない。でも紳士は聖人であっても誘惑して堕落させることができる。
 最後にイワンは紳士にコップを投げつけるが、すぐにマルティン・ルターの真似かと自嘲した。イワンの思想も行動もオリジナルのように思っていても、実際は先行者がいるのであり、イワンはパロディを演じるしかない(この章も「大審問官」のパロディである)。そのことを自覚させるから紳士は悪魔のような役割をもっている。他人を怒らせ、意地悪く扱い、人を苦しめるすべに長けていて残酷な仕打ちをする。
 でもこの行動性向は悪が生んだのではなく、当時の時代思潮の表れでもある。都市に住んで孤立し、自分の命に価値や意味を見出せないモッブが紳士と同じ冷笑家だった。他人がやっていることをあげつらい、からかう。他人の苦しみに無関心で、むしろ他人を辱め虐げることに快感を覚える。紳士がやっていることはモッブと同じ。だから紳士は悪魔であるが、どこかにある外からやってきた異人や〈外国人〉ではない。自己紹介しているように、イワンが喝破したように、冷笑する悪は内にいる。凡庸で怠惰な性格から出てきて、すぐに蔓延する。塁としての人類がモッブのようになったら、「地上のものがすべて消し飛ぶ」だろう。20世紀のナチズムとボルシェヴィズムという二つの全体主義が実際に地上のものを消し飛ぶことをやろうとした。

 

 そこにアリョーシャがやってくる。絶縁を言い渡していたイワンは激昂するが、「スメルジャコフが首を吊った」という報を聞いて愕然とする。イワンはスメルジャコフがついさっき言ったことを思い出す。告発する計画がだめになったことを知り、こう自嘲する。

「君が自尊心から告白に行くとしても、やっぱり心の中では、スメルジャコフだけが罪に落ちて、流刑になり、ミーチャは無罪放免となり、自分はただ良心の呵責を受けるだけで世間の人からはほめられるかもしれないと、そんな望みをいだいていたんだろう。だが、もうスメルジャコフは死んでしまった。」

 スメルジャコフも紳士のような否定の塊だった。なれなれしくて皮肉屋で、他人をいらだたせるだけだった。紳士は老人だったが、スメルジャコフが変身した姿でもあるようだ。(にしても、イワンは動転したのか、「悪魔が来た、ちんけな悪魔が」とアリョーシャに言う。神と一緒にいるという確信をもっているアリョーシャの前でそれを言うか!)
 こうしてイワンは、空想の分身とリアルの分身から弾劾されてしまった。冒頭では最も自信満々だったイワンが深淵の際まで追い詰められようとしている。

 動転したイワンは「あれはリーザが好きだ」を口走ってしまう。これも続編の伏線になりそう。よりによってアリョーシャの許嫁を横恋慕しているという。振り返れば、イワンが好きになるのは、兄ドミートリーが婚約していたカテリーナであり、彼女が自分を愛していないと思い込んでしまうと、今度は弟アリョーシャの許嫁に手を出す。彼は他人の恋人を奪うように行動するのだね。そこが好色なのだし、進んで三角関係を作って「愛されていない」と苦しむように動くのだ。
(ブッキッシュな興味でいうと、紳士=悪魔の長広舌は、「ボボーク」「おかしな人間の夢」の反映。他の訳者は荘厳な言葉使いをするけど、亀山郁夫訳では軽薄な文体でしゃべらせた。オウム返しとからかいだけの中身空っぽなところを引き立たせるには、この文体があっている。)

 

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フョードル・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟 4」(光文社古典新訳文庫)第4部第11編「兄イワン」(承前) ドミートリーは世界と神を愛するようになり無実の人殺しの罪を引き受けることを決意する

2024/09/13 フョードル・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟 4」(光文社古典新訳文庫)第4部第11編「兄イワン」(承前) イワンの前に現れた紳士は悪魔でありスメルジャコフでありイワン自身である。この章は「大審問官」のパロディ。 1880年の続き

 

 フョードルの死は思いもかけずに兄弟たちの紐帯を深めることになった。それぞれがバラバラであったのに、ドミートリーが逮捕されてからは、アリョーシャもイワンもドミートリーと足しげく面会するようになった。それは、これまで世間の評判だけで知っていた兄弟たちの思想や言動に驚くことになる。

第11編「兄イワン」 ・・・ すでに夕方。アリョーシャがドミートリーの面会に行くと、先にラキーチンが来ていた。ラキーチンは修道僧をやめ、いずれ都市で評論家になろうともくろんでいる。ドミートリーと面会するのはスキャンダラスな事件の記事で注目を浴びたいからだった。ドミートリーがいうには「ラキーチンは神が嫌い」。そのドミートリーは様子が一変していた。クロード・ベルナールの名を出して科学技術や科学万能論を罵倒する。というのは「(逮捕収監されてから)この二か月でおれは自分の中に新しい人間を感じている」「鉱山で二十年間つるはしをふるうことはへでもない」「懲役人や人殺しから高貴な魂を、殉教者としての気持ちを明るみに引き出すことができる」「無実の人殺しの罪を引き受けるのはだれかがみんなの代わりに行かなくちゃならないから」「悲しみの中で再び蘇り、喜びを手にする」「神と神の喜び、俺は神を愛している」。
 ドミートリーは、イワンが脱走を提案し、グルーシェニカといっしょにアメリカに行く計画を立てていると伝える(19世紀の新聞小説や家庭小説には監獄から脱走して復讐する話がたくさんあった)。ドミートリーはそれに乗るつもりはなさそうだが、気がかりなのはアリョーシャが自分を犯人と思っているかということ。アリョーシャが「一瞬たりとも考えたことはない」と答えるのに安堵する。

 

 「カラマーゾフの兄弟」は女好き、神がかり、金儲けだとラキーチンが喝破した。ドミートリーは神がかりからはもっとも遠く離れていそうだったのに、グルーシェニカとの愛の体験と無実の罪による投獄、近い将来に訪れるシベリア流刑を考えることが彼を神がかりにした。生きることに喜びを持つようになり、神を愛していると宣言できるまでになった。この感興が神のことを一生懸命考えているイワンには望んでも訪れないのに、これまで放蕩と好色のままに遊んできたドミートリーが獲得できたというのは不思議。イワンの規則正しい孤独な生活と、ドミートリーの生活の激変と他人からの影響というのが、違いになったのだろう。同じく放蕩だったゾシマが決闘の前日に改心の体験をしたことを思い出そう。ゾシマがドミートリーの足元にひれ伏したのは、ドミートリーの改心を予見していたからだろうか。
 さて、と思い、ドミートリーの改心を遠くから眺めるような気分になるのは、彼と同じ改心をすでにみているから。すなわち、こちらは有罪であるラスコーリニコフが流刑された後に熱病や奇怪な夢を見た後に訪れたのと同じ体験をしている。流刑地にいる囚人を理解しあい、彼らの「高貴な魂を、殉教者としての気持ちを明るみに引き出すことができる」と幻視するのも同じ。違いはドミートリーにはそのあとのプランはないところ。いずれにしろドミートリーもラスコーリニコフも、あるヴィジョンをもつとそれにすっかりとらわれてしまって、とてつもない多幸感をもってしまう。一揆ユートピア状態が訪れて、人類全体を愛することができ、幸福になることができると思い込むようになる。ビジョンを達成するために、プログラムを作り、プロジェクトを計画して、ひとつひとつを実現するということは考えない。そのために努力することもしない(監獄に強制される「鶴嘴をふるう」という苦行くらいしかイメージできない)。思い込みは激しくとも、体を動かすことはない。
(「人類を愛する」「俺を許してくれ」とドミートリーが繰り返し言うとき、それはイワンの「すべてが許される」を含意しているのではないかと思った。他人の許すを乞うのは、自分のわがままから思想まで「すべてが許されている」と他人に認めさせることではないかなあ。前のところでもさまざまな「許す」「許し」をみてきたが、どうにも納得や承諾がしがたいのは、ここのところ。人権侵害や犯罪も許されているとしてしまうのではないか。そういう恐れを抱くのは、ドミートリーが「神が実在しなければ、人間は地上の支配者だ、宇宙の主権者だ、すばらしいじゃないか! だが、人間に神がなかったら、どうして善行ができるだろう? これが問題だ? おれは始終これを考えるんだよ。だって、そうなったら、人間は誰を愛したらいいんだ? 誰に感謝するんだ?(ここは中山章三郎訳から引用)というから。彼は善や正義の根拠は超越論的な存在からの命令であり内心の在り方だとしている。善や正義の根拠を超越論的存在や神の命令にすると、独善になるか、ドミートリーのように過度な相対主義になるかで、社会のマイノリティを人体・人格・人権を毀損してしまう。ドミートリーはこのあと女性の人権を認めない発言をしているのだ。脱走をドミートリーは拒否するようだが、その理由を神に背かないためにとすると、別の機会には脱走や犯罪を合理化してしまいそう。)
 それにドミートリーは他者依存。ことに女性依存。「おれはあの女なしには生きて行くことができないんだ……」というくらいに。この事件で収監されても、シベリアへの流刑を耐えられると考えるのも、グルーシェニカがついてくるからと期待しているから(都市の箱入り娘で、資本主義の隙間で財を成したグルーシェニカがシベリアの気候と生活に耐えられるのかと心配するが、小説の半世紀前のデカブリストの妻たちを思い出せばいい)。グルーシェニカの気が変わったり、流刑地に生活に耐えられなくなったりして、ドミートリーの前から姿を消したら、ドミートリーはビジョンを持ち続けることができるかしら。
(ここを逆に言うと、ドスト氏は悪人が改心するまでは執拗に細かく書くのだが、改心した人がいかにユートピアを実現するのかはついに書けなかった。通俗的ではあっても、チェルヌイシェフスキーは「なにをなすべきか」で女性の自立や起業、マイノリティの共同生活事業などを想像することができた。ここの違いは大きい。)
 無実の罪で罰を与えられ受け入れるというのはドミートリーにイエスのイメージをつけることになるのかしら。「カラマーゾフの兄弟」続編で、アリョーシャは皇帝暗殺をもくろむ(のか計画に巻き込まれるのか)のだが、13年後にドミートリーとアリョーシャが再開したとしたら、「神を愛する」「他人を幸福にする」という論点で二人が考えを逆にして大論争をすることになるのかも。もしかして、皇帝暗殺のあとにアリョーシャはドミートリーに「僕のことを犯人と思っていますか」と問いかけるだろうか。

 アリョーシャがカテリーナのところにいくと、イワンが追い出されたばかり。アリョーシャに気づいたカテリーナは二人を部屋にいれる。明日裁判で証言するのだが、どういう証言をするばよいのか悩んでいる。ドミートリーが犯人であるとは思えないが、そうではないという確信ももてない。イワンはドミートリー犯人説なので、喧嘩になってしまうのだ。ドミートリーの伝言を伝えた後、アリョーシャはイワンと外で立ち話。イワンはリーザの手紙を破り捨て、ドミートリーが嫌いだという。アリョーシャは「あなたは犯人がだれか知っている。僕の知っていることはイワンが犯人ではないことだけ」。それを聞いたイワンは憤慨し、アリョーシャに絶交を言い渡す。フョードルの家には住まなくなった二人は別々のアパートに帰るが、イワンはふと思いついてスメルジャコフを訪ねる。

 カテリーナはイワンの様子が変、幻覚症か神経症の熱病だと指摘する。この後の悪魔との会話の伏線。

 

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2024/09/10 フョードル・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟 4」(光文社古典新訳文庫)第4部第12編「誤審」 ミーチャへの告発と弁護が交錯する法廷シーン。探偵小説マニアにはたまらない。 1880年に続く

フョードル・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟 4」(光文社古典新訳文庫)第4部第12編「誤審」 ミーチャへの告発と弁護が交錯する法廷シーン。探偵小説マニアにはたまらない。

2024/09/12 フョードル・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟 4」(光文社古典新訳文庫)第4部第11編「兄イワン」(承前) ドミートリーは世界と神を愛するようになり無実の人殺しの罪を引き受けることを決意する 1880年の続き

 

 2000年ころに新潮文庫がキャンペーンをうった時、「カラマーゾフの兄弟」の帯には上中巻(第1部から第3部まで)を読むのに2か月、下巻を読むのに2日というようなことが書いてあった。これはミステリー読みからするととてもまっとうな感想。というのは、第4部になると父フョードル殺人事件の捜査がストーリーの中心になっているから。事件の目撃者や関係者の証言が並べられ、重要容疑者が尋問に応じ、検事や関係者が事件を推理する。途中で、真犯人の自白があり、最後の第12編「誤審」では裁判でこれまでに記述された事件が再検討される。モダンな探偵小説と同じフォーマットで書かれているので、とても読みやすい。「カラマーゾフの兄弟」が書かれたのは1880年。同時期のコリンズやガボリオなどと比べると、はるかにモダンであり、このあとのコナン・ドイルの長編よりも洗練されている(ただし文字量は桁違いに多いが)。ミステリーに近いとよく言われるのは「罪と罰」のほうだが、書き方は探偵小説的ではない。長大な「カラマーゾフの兄弟」のほうが近い。


 第11編「誤審」では、一日かけた裁判の様子が描かれる。ドスト氏はロシアの裁判に興味を持っていて、いくつかの事件では熱心に傍聴していた。ときに裁判の様子をレポートして「作家の日記」で発表し、世論喚起も行った。その成果はこの小説にも反映していて、とても生き生きした裁判描写になっている(いわゆる法廷物のミステリーが登場するのは1950年以降とみなせるので、ドスト氏の試みは先駆的。まあルルー「黄色い部屋の謎」1907年、カー「ユダの窓」1938年のような先行作はありますが)。裁判の様子は西洋や日本とは異なる。証人尋問、検事の論告、弁護人の弁護、双方の反論を経て、陪審員が評決する。この流れはどこも同じであるが、この事件では一日で終了する。そのために、午前から深夜の日が変わるまでの長丁場になった。「作家の日記」に出てくる裁判は日にちを開けて複数回審理を行っているので、「カラマーゾフの兄弟」のこの編は作者によるフィクションでしょう。短時間で審理し、評決があっという間に行われたから、ドミートリーの心理がジェットコースターのように希望と絶望、歓喜と不安、依存と自立を行き来するスリルが生まれた。
 裁判には町の人たち、特に名士、が集まり、傍聴する。事件の関係者はこの小さな町の有名人だし、ドミートリーの大宴会は噂になっていた。集まると事件のことをおしゃべりし、噂を伝えあい、判決を予想しあった。そうする理由は娯楽のない街では、人と会うことが大きな楽しみ。そこにスキャンダルがあれば、会う口実ができる。裁判所が一時的な社交場になったのだ。地元の事件でも裁判の傍聴にはいかないし、陪審員になることを迷惑と思う日本人とは感覚が違うところ。
 この編では、これまでに書かれてきた事件を再証言する。そこには新しい情報はないので(ドスト氏のフェアプレイ精神が発揮されている)、別の記述に気を取られて忘れてしまった情報を思い出すことになる。関係者の証言が延々と描かれるのは、凡百の探偵小説でも同じ。でもドスト氏にかかると、つまらないどころか、同じ話を読まされてもとても面白く感じる。それは、ドスト氏がそれぞれのキャラクターのナラティブを工夫したから。それぞれのキャラクターに合うような文体と語彙で会話を作ったから。傲慢で勝気なカテリーナ、後悔と愛ですっかり弱気になったグルーシェニカ、興奮して激高し幻覚に苦しむイワン、律儀でへりくだったグリゴーリー老人、前日の深酒で泥酔したスネリギョフ、さまざまな邪推に悪罵を聞かされ自尊心を傷つけられているドミートリーなど、キャラの描き分けはみごと。文体の曼陀羅で、ポリフォニー
 読み飽きない尋問シーンのあとには、一つの事件がいくつにも解釈されるという「多重解決」の趣向もでてくる。20世紀になってからミステリで使われた趣向。通常はどんでん返し目的で最後に「真相」が現れるのだが、ここではさきに「真相」が披露されている(第11編「兄イワン」)。なので、検事や弁護士の解釈は誤りであることを読者は知っている。誤りの推理を読んで、馬鹿だな、あほだなと思うのではなく、ドスト氏の筆と論理を読み込むと、そちらが正しいのではないかと思えてしまう。弁護士の長広舌の弁論のあとに、傍聴人たちがドミートリーの無罪を確信したように。
 このように最後の編はドスト氏の技術を堪能するにかぎる。探偵小説やミステリを読み込んでいる人ほど面白がれるだろう。

 

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