odd_hatchの読書ノート

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フョードル・ドストエフスキー「罪と罰 上」(岩波文庫)第2部6.7 マルメラードフは死に、ラスコーリニコフを生きていけると確信する

 家族や友人のような二人称で呼び合う相手との付き合いはとても息苦しく重重しいのに、三人称で呼びその一瞬だけで関係が失われるような大衆・民衆にはラスコーリニコフはとても親切になる。

6.ラズミーヒンとゾヒーモフを追い出したあと、ラスコーリニコフは不意に起きだして金を持って外にでる。不思議に平静で、恐怖感もなく、落ち着きの時間になった。娼婦街にいったのは「ひとりひとりと話がしたい」から。途中で大道芸の少女に5コペイカを、娼婦に15コペイカを渡す。「水晶宮」というレストランに入りこの数日間の新聞を持ってきてもらい、事件の記事をむさぼり読む。レストランに警察署書記ザメートフ(第1章であっていた)がいるのに気づく。ザメートフはラスコーリニコフの憔悴ぶりを心配したが、ラスコーリニコフは何の記事を読んでいるのかと執拗に問い、令の婆さんの事件だという。記事の推測に反駁し、犯行の詳細や盗品の隠し場所を熱弁する。「もし婆さんとリザヴェータを殺したのが僕だったら?」 ラスコーリニコフははっとし、相手は呆れてしまう。ザメートフが否定したので、ラスコーリニコフはさらに畳み掛け、金を見せびらかす。「この間まで一文無しだったのに、なぜこんなに金を持っているのか」といって店を出ようとする。そこでラズミーヒンを出くわし、引っ越し祝いをするから来いと誘った。「親切が重荷だ」を拒否。ラズミーヒンはラスコーリニコフが外国思想かぶれで、独立精神がないと批判。振り切って、運河の近くに行く。その時ラスコーリニコフは自殺するか警察署に行くかのきもちになっている。河で娼婦が身投げし、巡査が助けて、ラスコーリニコフの決意は鈍る。脚は事件の家に向かい、現場が改装中になっているので、ずかずかと入っていく。職人が事件のうわさをしているので、ラスコーリニコフは俺を警察に突き出せというが取合われない。追い出されると、「すべては彼にとってだけ死んでいた。」
(ポーの「天邪鬼」のような心理状態になり、犯行現場を見に行く。これまで「地下室」にこもっていたのが、社会や世間に行動を起こしたので、その反応を見たいということか。自分はここにいる、注目してほしいという感情が生まれている。警察に自首しに行こうかとほとんど決心するのもそこから。でも、社会や世間はラスコーリニコフを狂人のように思い、彼の問いかけを無視した。なので「すべては彼にとってだけ死んでいた。」)

 

7.突然の喧騒。酔っぱらったマルメラードフが馬車に惹かれて瀕死の重傷を負う。ラスコーリニコフは進み出て、金を出して巡査らに運ばせ、医師と神父を呼ぶように頼む。住まいにいくと、カチェリーナがぜんそくで苦しんでいるところだった。アパートの住民や家主が見物に来て、部屋は騒然とする。マルメラードフは帰ってきたソーニャに抱かれて死ぬ。カチェリーナはゴクツブシの夫の死を悼まない、赦さないという。ラスコーリニコフは金20ルーブリを渡して、家を出ると、ソーニャの指図で少女が追いかけて名前と住所を聞いた。「ぼくも好きになってくれる?」と尋ねると、少女は抱き着いてキスした。警察署長も来ていて、ラスコーリニコフが血だらけになっていると驚く。ラスコーリニコフはラズミーヒンのパーティに顔を出し、ザメートフがさっきのこと(第5章)を警察に話した、ポルフィーリィがラスコーリニコフに会いたがっている、と聞く。ラスコーリニコフの家には母と妹が待っていた。彼女らに抱きつかれて、ラスコーリニコフは失神する。
(直前まで自首や自殺を考えていたのに、マルメラードフの死後ラスコーリニコフの感じ方が激変する。力強い生命感で、死刑宣告をされたものが特赦を言い渡された時の感覚。「理性と光明の王国」「意志と力の王国」が到来し、「誇りと自信が一刻ごとに彼の内部に高まった」。「おれも生きることができる。まだ人生がある。おれの人生はあの老いぼれ婆アといっしょに死んでしまったわけじゃない」。この激変が起きたのは、死者の血を浴びたことと少女のキス。)
(「おれも生きることができる(なぜ「も」なのだろう、「生きることができる」別の誰かがいて、その集まりに参加する可能性か資格を得たと思っているのだろうか)」という天啓が訪れ、それによって自首や自殺の考えは消えた。でも「どう生きるか」にラスコーリニコフは答えを持っていない。マルメラードフの死に立ち会ったり、娼婦の身投げに気をもんだり、貧しい虐げられた人びとに金を配ることはできるが、それは「どう生きるか」を知る決め手にはなっていない。)
ラスコーリニコフは23-4歳。彼のような若さでは「生きる」の意味は明るいのであるが、それから20年もすると、生きることは他人に迷惑をかけることが目的になってしまうかもしれない。40歳のラスコーリニコフは地下室の思想を持ち続けて、こんなことをのべるようになるだろうか。

「わたしはいま四十だが、しかし、四十年といえば、これはもう人間の全生涯だ。それこそもう大変な老齢である。四十年以上も生き延びるのは無作法だ、卑劣だ、不道徳だ! いったいだれが四十以上も生きている? 正直に誠実に答えてみたまえ。では、わたしがそれに答えよう。馬鹿とやくざ者が四十以上も生きるのだ。わたしはありったけの老人どもに、面とむかってそういってやる。世の尊敬を受けている、鬢髪に霜をおいた、芳香馥郁たる老人どもにいってやる! 世間のやつら一同に、面とむかっていってやる! わたしはこういう権利をもっているのだ。なぜなら、わたし自身、六十まで生き延びるからだ。七十までも生き通すからだ! 八十までも生きつづけるからだ!」「地下室の手記」第1部1.米川正夫訳)

(ああ、そうか。ここでラスコーリニコフが考えている自首か自殺かの選択は、彼の分身であるスヴィドリガイロフが現れて、どちらの選択も実行したことになるのか。先取りすると、ラスコーリニコフには「生きることができる」という啓示がありソーニャとポルフィーリィに「生きろ」と後押しされ、スヴィドリガイロフはドゥーニャに「生きていないで」と銃撃されたのだった。その違いが決断を分けた。)

 

 第1部も第2部も最初は静かに始まる。ラスコーリニコフのひとりごとだったり、だれかにからまれたり。中盤はさほど大事とは思えない脇の人々との会話。最後の2章になって突然、物語が動き出し、複数のできごとが同時に起こる。それこそページを繰るごとに変わったことが起きるかのよう。それもスピードがだんだんはやくなっていくジェットコースター(というものは19世紀中ばのロシアにはない)のようなのだ。
 この第2部でも、警察官との対話、マルメラードフの死、ソーニャとの邂逅、母と妹の身寄せとラスコーリニコフにとってはどれも重大な問題。たった数時間のあいだに立て続けに起これば、感情の起伏は激しくなり、失神してしまうのも無理はない。それもこれも老婆殺しを隠さなければならないという重圧のせいだ。

 

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2025/01/20 フョードル・ドストエフスキー「罪と罰 中」(岩波文庫)第3部1.2.3 母と妹はラスコーリニコフの秘密に肉薄し、思いがけない気丈さを示す 1866年に続く

フョードル・ドストエフスキー「罪と罰 中」(岩波文庫)第3部1.2.3 母と妹はラスコーリニコフの秘密に肉薄し、思いがけない気丈さを示す

2025/01/21 フョードル・ドストエフスキー「罪と罰 上」(岩波文庫)第2部6.7 マルメラードフは死に、ラスコーリニコフを生きていけると確信する 1866年の続き

 

 第2部が終わったところで、ラスコーリニコフが抱えている外側からみた問題を列挙すると
1.金貸し婆さん殺し捜査で警察の追及
2.亡くなった九等文官マルメラードフ家の支援
3.気取屋紳士ルージンによる妹求婚と身寄りのない母の世話
となる。一文無しで定職がなく無収入のラスコーリニコフにはどれも荷が重い。彼の思想に関心を持つものと対話をしていないので、内面や思想、宗教心の問題はまだ表れていない。

1.起き上がったラスコーリニコフは母や妹の「犠牲なんか認めない」とルージンとの結婚を拒否し、母と妹に出ていけと命じる。ラズミーヒンとゾシーモフはとりなそうとしたが聞く耳をもたない。ラズミーヒンとドゥーニャは一目ぼれ。旅館までふたりを送る途中、酔っぱらっているラズミーヒンは母親をどんびきさせるほどしゃべりまくる。ゾシーモフは二人を見て、いっしょになれとラズミーヒンをせかす。
(ラズミーヒンが言うには、不合理が真理につながる、真理は生命を骨抜きにする、ぼくらは高潔な道に立っている、でもルージンはそうじゃない。惚れた理由をこんな風に説明する。ルージンの西洋に対して彼はロシアにいることを主張しているのだろう。でもユダヤ人蔑視のヘイトスピーチもしてしまう。)
(このラスコーリニコフの発言が不可解なのは、母や妹の「犠牲は認めない」のに、金貸し婆さんがたくさんの人を苦しめているから取り除いてよいと「あれ」「醜悪な計画」を実行したこと。顔が見え感情がわかる二人称の犠牲は認めず、顔も個性もみえない類としての大衆の中にいる三人称は犠牲に供してもよいというのはダブルスタンダードではないか。)

 

2.翌朝、ラズミーヒンは前夜に好きになった女(ドゥーニャ)に酔って醜態を見せたことをひどく恥じる。意気消沈して旅館にいったが、ふたりは来訪を待ちわびていて、すぐにラスコーリニコフの過去を根掘り葉掘りききだした。ラズミーヒンのみるところ彼は誰も愛していない、愛することがないという。母は15からラスコーリニコフは空想家で、自分で障害を踏み越えていく、あんなにいらいらするなんてどうしていいかわからないと嘆く。ルージンから手紙が届いていて、今夜会うときラスコーリニコフを同席させるなと命じた。ドゥーニャは一緒に来るべきという。ラズミーヒンのエスコートで彼らは下宿に向かう。
ラスコーリニコフは過去に結婚することになっていたが、相手が亡くなったので破談になっていた。この母と娘は貧しい服だったが気品があるとラズミーヒンはみる。ルージンはマルメラードフ家の一件をみていて、母が送った金を一家に渡したのを密告する。)
(後半で問題になる「踏み越え」が現れるのはここが最初。若いころのラスコーリニコフが「障害を踏み越え」るというのは、肉体と精神の苦痛を引き受けるということかな。)

 

3.元気になった様子のラスコーリニコフが迎える。4人(ラズミーヒンとゾシーモフを含む)はラスコーリニコフが正気ではないように思っている。会話のうちに疑念が晴れる。ラスコーリニコフは金をマルメラードフ一家に渡したことを釈明。なけなしの金を他人に全部渡すように踏み越えた。母はスヴィドリガイロフの妻が死んだことを伝える。聞いたラスコーリニコフは過去の結婚話を思い出し、相手が病人だったから惹かれたもしびっこかせむしだったらもっと愛せたという(スタヴローギンの結婚を思いだしてしまう)。ラスコーリニコフはルージンとの結婚を止めるように強く主張する。しかしドゥーニャは二つの悪のうち小さい悪を選ぶといって、結婚するという。ラスコーリニコフが「嘘をついている」というのにこう反論する。
こういう結婚は、兄さんが言うように、卑劣なことじゃないわ! もし兄さんの言うことが正しくって、わたしが卑劣な決心をしたのだとしても、兄さんの言い方はあんまりじゃない? どうしてわたしにだけヒロイズムを要求するの? 兄さんにだって、たぶんないくせに。そんなの横暴よ、暴力よ! わたしがだれの身を滅ぼすって言うの、自分ひとりを滅ぼすだけじゃない …… わたしはまだ、だれも殺したことなんかないわ!(P87)
 これを聞いてラスコーリニコフは気絶する。回復したらルージンの手紙をみて、みなで気どりやの法律家が書いたものだと一致する。ドゥーニャがルージンとの話にラスコーリニコフも同席させるというので、母は「嘘をつくのは大の苦手、全部ぶちまけたほうがいい」(前の章で「貧しい服を着ているが気品がある」というラズミーヒンの感想がここで生きてくる。なんという気丈さ)。
(ドゥーニャの二つの悪は、(結婚しないで)母を犠牲にするか自分を犠牲にするかということ。この小説に出てくる夫婦はどれも年の差が20年もあるようなものばかりで、女が愛情で選択できるものではなかった。独身であることはむしろ恥であり、無収入であるから結婚しないで暮らすことはできない。そして男は妻に暴力をふるっていた。あるいは無関心だった。)
ラスコーリニコフはペテルブルク(人工的な都市、地獄)に来る前に、地元で結婚するつもりであった。縁談はなくなったが、ラスコーリニコフの婚約者への愛情は奇妙。病気持ちだから惹かれたとか、びっこやせむしだったらもっと愛せただろうなどという。そのような「虐げられ辱められた人びと」と結婚するものに、スタヴローギンやアリョーシャ(彼は婚約まで)がいる。当時多くのロシアの男性はルージンやスヴィドリガイロフのような打算と見栄のために結婚した。そのような習慣に背を向ける彼らの結婚観や異性への愛情はいまのところおれにはうまく説明できない。)
(驚くべきことに、ドゥーニャの怒りはラスコーリニコフが隠さなければならない秘密を言い当てていた。そのために、ラスコーリニコフは数日前にだれかれとなく「一人ひとりと話したい」と思っていたのが、誰とも話をすることはないに変わってしまう。)
(母と妹はラスコーリニコフの部屋を「墓地」「棺」のようだという。ラスコーリニコフは「いま母さんは実に奇妙な考えを口にしたんだよ」。ラスコーリニコフの顔色やふるまいを見て、ドゥーニャと同じように「真実」を言い当て、彼の未来を予告した。そのようにラスコーリニコフは解釈した。)

 

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2025/01/17 フョードル・ドストエフスキー「罪と罰 中」(岩波文庫)第3部4.5 ポルフィーリィ、ラスコーリニコフに心理的な罠を仕掛ける 1866年に続く

フョードル・ドストエフスキー「罪と罰 中」(岩波文庫)第3部4.5 ポルフィーリィ、ラスコーリニコフに心理的な罠を仕掛ける

2025/01/20 フョードル・ドストエフスキー「罪と罰 中」(岩波文庫)第3部1.2.3 母と妹はラスコーリニコフの秘密に肉薄し、思いがけない気丈さを示す 1866年の続き

 

 「地下室」で考えていたとき、ラスコーリニコフの思考はそれなりに一貫性と整合性をもっていた。しかし、「あれ」「醜悪な計画」を実行したら、他人と話をさせられ他人の意見を聞かされる。ラスコーリニコフの思想は齟齬やほころびがでてくる。彼は考え直さなければならない。第3部ではまだ強がりを言って、他人を拒絶しているのだが、それはいつまでできるだろうか。

4.そこにソーニャが入ってきて、葬儀の日取りが決まったので出席してほしいと言いに来た。ラスコーリニコフは上機嫌になって、きっと行くと返事をする。ソーニャは18歳で、少女ともいえる幼さ(ドスト氏のヒロインはこういうタイプが多い)であまりに卑屈にみえた。母はぎこちなく握手し、妹は笑顔を向ける(彼女が「いかがわしい職業」なのを知っているので)。ソーニャが帰ると、50歳くらいの紳士が後をつけていった。母と妹は旅館に帰る。母「この通りは閉め切った部屋のよう」。ラスコーリニコフは、ラズミーヒンに親戚のポルフィーリィにあわせてくれと頼む。死んだ金貸し婆さんに時計などの質草を入れていて取り戻したいため。すぐに行こう、まえからキミのことを話していた、向こうも君に会いたがっているとラズミーヒンがいい、でかける。ラスコーリニコフがなぜポルフィーリィに会いたがるのかラズミーヒンは気が付かない。ラスコーリニコフは鈍感なラズミーヒンを嗤う。
ラスコーリニコフはソーニャに、ラズミーヒンはドゥーニャに一目ぼれ。その様子は傍目からもわかるほど。)
(ソーニャとラスコーリニコフ、二回目の邂逅。ソーニャは卑屈にみえ、ラスコーリニコフとは手も触れない。そういう距離から始まって、第6章ではラスコーリニコフが足元にひれ伏すくらいに関係が変わる。)
(母「この通りは閉め切った部屋のよう」から、ラスコーリニコフの部屋が「狭苦しい檻」「戸棚か大型トランクを思わせる黄色い部屋」「船室」「墓地」「棺」と比喩されているのを思いだそう。ペテルブルクは、単に暑苦しいだけではなく、地獄イメージが強く漂っているのだ。ソーニャをつける身元不明(なわけない)の紳士ら罪人がうようよしているせいだ。)

 

5.警察署ではポルフィーリィが待っていた。35歳の背が低い太った男。ラスコーリニコフは質草うんぬんの話をするが、警察はすでに入質人をリストアップし、ラスコーリニコフを除いた全員から話を聞いていた。それに第2部第6章でレストラン「水晶宮」でラスコーリニコフが振るった熱弁をすでに聞いていた。それらを隠し素知らぬ顔でラスコーリニコフをみつめるポルフィーリィは「どこか女らしい身振りで頭を振ってみせた。ラズミーヒンは少し前にポルフィーリィらと議論していた社会主義の話をする。犯罪は社会機構の不正に対する抗議であり、全人類を組織すれば、機構の不正はなくなり、犯罪もなくなるという、それはおかしい。ポルフィーリィ「犯罪は環境のなせるわざ」、ラズミーヒン「50男が10歳の女の子を暴行するのも環境のせいか」、ポルフィーリィ「それこそ環境で説明できる」。
(議論はここで中断。そのため、この問いはスヴィドリガイロフやスタヴローギンの同じ行為で繰り返される。犯罪は環境か素因かの議論で、「10歳の女の子を暴行する」のを持ち出すのは相当に奇妙。強盗や窃盗のほうが穏当ではないか。と思ったが、ドストエフスキーは「死の家の記録」のもとで常習的な窃盗犯・強盗犯を大量にみているので、論点にふさわしくないと思ったのだろう。)
 ポルフィーリィはラスコーリニコフが退学前に書いた論文を話題にする。ざっくりまとめると、不法や犯罪を犯してもいい権利を持つある程度の人間がいる。自分の良心に対してある種の障害を踏み越える、法の枠を超える権利を持つ。それは思想の実現や全人類の救済にとって必要である場合に限る。そのような権利を持つものは非凡人であり(10万人に一人くらい)、圧倒的多数の凡人は思想を検討するための材料で、非凡人は革命や立法を行う立場にある。これまでの歴史は凡人が非凡人を磔や縛り首にしてきた。真の大天才、人類の完成者は何億の人間が生きて死んだ後でやっとでてくる。歴史はこういう実験が行われるレトルト。
ラズミーヒン「君の議論は良心に照らした流血を許している」
(ここでフランス革命の恐怖政治を思いだした。フランス「神々は渇く」)

 

ラスコーリニコフの妄想が、彼の嫌いな自然科学の比喩でできているのがおもしろい。ケプラーニュートンのような天才が世界を変えてきたから、リキュルゴスやソロン、マホメット、ナポレオンらにも通用するという論理の飛躍までする。あるいは嫌いなカントの道徳哲学を援用しているところも。自分の良心は善悪や正義の判断基準であって、それに凡人は従うべきとしている。そこにカントがいっていない非凡人が特殊な条件でのみ良心と法の枠を踏み越える権利を持っていて、その行為は全人類の幸福になるから肯定されるというところも。この時代は政治参加できる人間はきわめて限定されていて、都市労働者や農民、農奴、女性は当然参政権はない。王侯、聖職者、貴族、ブルジョアの一部だけが政治に関わり決定を下すことができた。ラスコーリニコフのような学生/無職の貧乏人は当然政治から排除されている。なので、ラスコーリニコフの思想は権力にとっては極めて危険だ。市民の政治参加を認めろ、「真の大天才」の思想はこれらの特権階級の決定よりも優先されるというわけだ。)
(でもラスコーリニコフの「革命」論には、組織論・運動論・国家論・経済などが欠けている。そのままでは政治活動も大衆運動もできない。ラスコーリニコフの思考は非凡人になる資格や思想しかない。)
(というわけで、大多数の凡人がラスコーリニコフの思想を振りかざすことはとても滑稽である。おまえは非凡人でも、「真の大天才」でもない。法の枠を踏み越えるような思想など持っちゃいない。勘違いするな、と。)

 

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2025/01/16 フョードル・ドストエフスキー「罪と罰 中」(岩波文庫)第3部5(続き).6 スヴィドリガイロフの闖入 1866年に続く