odd_hatchの読書ノート

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宇井純 INDEX

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2012/05/23 宇井純「公害の政治学」(三省堂新書) 1968年
2019/10/11 石牟礼道子「苦海浄土」(講談社文庫) 1968年
2019/10/10 石牟礼道子「天の魚」(講談社文庫) 1972年
2019/10/08 宇井純「公害原論 I」(亜紀書房)-1 1970年
2019/10/07 宇井純「公害原論 I」(亜紀書房)-2 1970年
2019/10/04 宇井純「公害原論 II」(亜紀書房)-1 1971年
2019/10/03 宇井純「公害原論 II」(亜紀書房)-2 1971年
2019/10/01 宇井純「公害原論 III」(亜紀書房)-1 1971年
2019/09/30 宇井純「公害原論 III」(亜紀書房)-2 1971年
2019/09/27 宇井純「現代社会と公害」(勁草書房) 1971年
2019/09/26 宇井純「現代科学と公害」(勁草書房) 1971年
2012/05/22 宇井純「公害列島 70年代」(勁草書房) 1972年
2019/09/24 宇井純「続・現代科学と公害」(勁草書房) 1972年
2019/09/23 宇井純「公害被害者の論理」(勁草書房) 1973年
2019/09/20 宇井純「公害原論 補巻I(公害と行政)」(亜紀書房) 1974年
2019/09/19 宇井純「公害原論 補巻II(公害住民運動)」(亜紀書房) 1974年
2019/09/17 宇井純「公害原論 補巻III(公害自主講座運動)」(亜紀書房) 1974年
2012/05/21 宇井純「キミよ歩いて考えろ」(ポプラ社) 1979年

石牟礼道子「苦海浄土」(講談社文庫)

 断続的に発表されていたのを1968年にまとめ、出版された。水俣市に嫁いできた作者が奇病を知り、その被害者のところを訪問するうちに、さまざまなことばを聞く。そのことばが沈潜して、こような「小説」が生まれた。昭和の文学における奇蹟。(渡辺京二の解説によると、「きき書き」のタイトルのある章ですら聞き書きではないという。登場人物とかかわるうちに、その言いたいであろうという言葉が作者からうまれたのだという。)
 主題は水俣病水俣病の歴史は下記エントリーを参照(ただし1970年まで)。宇井純は作中で「富田八郎」「宇井純」の名前で登場する。
宇井純「公害原論 I」(亜紀書房)-2 1970年
 作者が「苦海浄土」などを書くようになった経緯は、以下を参照。作中でも「悶々たる関心とちいさな使命感」(P124)とある。
宇井純「公害被害者の論理」(剄草書房) 1973年

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第一章 椿の海 ・・・ 昭和33年までの患者「発見」までの情景を描く。不知火海の豊富な漁場で生活を立てていた漁民たち。無学ではあっても人間の矜持と徳の高い人々。彼らの生活が窒素工場の操業後、破壊されていく。当時は原因不明であったうえ、発症者はすぐに亡くなり、家族は差別と偏見にさらされる。窒素は見舞金と称するはした金で事をすまそうと画策する。最初の水俣病の被害報告である細川博士の報告書を読むことができる。
水俣に嫁いだ主婦が彼ら漁民の暮らしに入ることは困難であり、その次第が文の間に読める)


第二章 不知火海沿岸漁民 ・・・ 昭和34年の窒素工場前の陳情と直後の工場突入。このあと和解金を会社は払うが、極めて少額。

「おとなのいのち十万円/こどものいのち三万円/死者のいのちは三十万」(P117-8)

 すでに困窮している漁民はさらに追いつめられる。上の宇井のレポートではさほど詳しくない突入事件でも、その場にいた作者の筆からはなまなましい臨場感が漂う。そこにいる漁民の怒り、議員や弁護士の無策、工員たちの困惑、経営者と官庁の無責任。
(昭和28年に最初の患者が確認されてから、次第に不知火海沿岸に「奇病」が発生していく過程が恐怖。世界が壊れていくこと、それが一企業の工場によるものであり、だれも対処しないことが恐ろしい。最も被害がでた集落では海が死に、釣舟が捨てられている。捨てられた釣り船は仕事と共同体が消滅していくことの象徴になる。これらを熊本弁で書き記す作者の筆のすごさ。)


第三章 ゆき女きき書 ・・・ 被害者坂上ゆきのことば。3歳から船にのり、天草湾のことはすみずみまで知り尽くし、魚取に精をだす働き女(その述懐の美しいこと)。それが数年前に水俣市に後妻に入ってから、しびれやまひがおこり、熊本大医学部の患者になる。身体と言葉の不自由に苦しみ、蔑視や差別にあう。作者は淡々と事実を語り、感情を交えない。熊本弁をそのまま活字にすることによって、市井の人に深い感情と考えがあることがわかる。そのうえで

「安らかにねむって下さい、などという言葉は、しばしば、生者たちの欺瞞のために使われる。/このとき釜鶴松の死につつあったまなざしは、まさに魂魄この世にとどまり、決して安らかになど往生しきれぬまなざしであったのである。(P125)」

と死者のことを考える。


第四章 天の魚 ・・・ 天草の漁師の息子が長男でないので水俣に流れて漁師になる。年はすぎ、息子は水俣病、嫁はいなくなり、孫3人の一人が重度の水俣病。資産もなく(生活保護)、生い先の短い中、家族の崩壊を押しとどめる。それでも不安が老人を包み込む。ほぼ全編が老人の熊本弁の述懐。学のない(文盲)老人に満ちる徳。その老人がさらに徳高いとみなす9歳の水俣病の息子。
(おそらく戦前と思われる時代、若い老人と妻が不知火海のうえで食べる食事。海水で炊いた米とその日の一番の魚の刺身。持参した焼酎。とてつもなく美しい食事。神々しいばかりの豊穣。それをわずかな期間で奪った「会社」。老人の諦念から読者は怒りを覚える。)


第五章 地の魚 ・・・ 小学校入学前に発症し、17歳になった娘ゆり。大学病院からも新聞記者からも「植物状態」とあきらめろと言われている。彼女の美しい瞳。娘の世話をする両親の繰り言。

「生きとる途中でゆくえ不明のごつなった魂は、どけ行ったち思うな」(P230)

「ゆりからみれば、この世もあの世も闇にちがいなか。ゆりには往って定まる所がなか。うちは死んであの世に往たても、あの子に逢われんがな。とうちゃん、どこに在ると?ゆりが魂は」(P232)

 昭和34年に有機水銀説がでる。チッソは否定。


第六章 とんとん村 ・・・ そのあと昭和43年までの日々。患者は死に、対策は取られず、チッソは大儲けし(この会社は戦前に朝鮮で警官立ち合いで土地を奪って、操業を開始し、日本に移転した。公害被害者差別は民族差別と地続き。かつ日本の資本主義は朝鮮と国内の貧困者を収奪することで発展してきた)、救済を願う人々は少数。孤立無援の状態。


第七章 昭和四十三年 ・・・ 水俣病対策市民会議発足。患者互助会と会合(最初の患者報告から14年後)。原因は有機水銀であると政府見解。会社の倒産を恐れる水俣市民が患者に反発と差別。患者がうわごとにいうには、

「ここは、奈落の底でござすばい/墜ちてきてみろ、みんな。/墜ちてきるみゃ。(P267)」

 チッソ社長が患者を見舞うという。ある患者(女声)の叱りのことば。

「ようもようも、水俣の人間にこの上威しを噛ませなはりました。あのよな恐ろしか人間殺す毒ば作りだす機械全部、水銀も全部、針金ひとすじ釘一本、水俣に残らんごと、地(じだ)ながら持っていってもらいまつしよ。東京あたりにでも大阪あたりにでも。(P296)」

 

「銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。(四十三年五月にいたり、チッソアセトアルデヒド生産を中止、それに伴う有機水銀廃液百トンを韓国に輸出しようとして、ドラムカンにつめたところを第一組合にキャッチされ、ストップをかけられた。以後第一組合の監視のもとに、その罪業の象徴として存在しているドラムカンの有機水銀母液を指す)上から順々に、四十二人死んでもらう。奥さんがたにも飲んでもらう。胎児性の生まれるように。そのあと順々に六十九人、水俣病になってもらう。あと百人ぐらい潜在患者になってもらう。それでよか。(P300)」

 

 解説の渡辺京二はこれを文学として読めという。ことに「ゆき女きき書き」と「天の魚」における達成に注目せよという。ここに描かれる不知火海や周辺漁村の自給自足的な生活には、「自然に還れ」のような、あるいは良き共同体のモデルがあるかのように思わせる。しかし、一方でその社会は、相互監視と贈与の経済がある近代人にはなじみにくい社会なのだ。作者の幻想的な文体のなかでのみ美がある。
 でも俺はこの小説をその枠組みの中でだけで済ますわけにはいかない。社会問題の提起の書として読むしかない。そうすると、不知火海周辺で起きた水俣病は近代日本の人権意識(の欠如)が問われていることに注目する。すでに日本チッソ株式会社が朝鮮を収奪し、戦後は日本人を収奪・殺害することによって収益を上げてきたことを書いた。会社を支援する国・自治体・従業員・関係企業や商店などは収益のおこぼれにあうために、会社の加害を見て見ぬふりをし、むしろ積極的に肯定し、それによる被害者を貶めることにいそしむ。そこには人権という感覚はない。差別に加担することに躊躇がない。
 本書の付録には昭和34年の争調停案「契約書」の全文が載っている。ここに書かれているのは命の値付けであり、その金額ですら値切り、将来の支払いを拒否する態度である。日本国憲法の対極の思想(というのもおこがましい)を書き付けた資料として貴重である。この人権意識の欠如は、水俣病の解決を遅らせた。くわえておぞましいのは、この思想(というのもおこがましい)が21世紀の日本人が共有するところになっている。過労死や各種ハラスメントの被害者、少数民族、性的マイノリティ、貧困者などが抗議を上げると、いっせいに非難中傷を行うようになっている。なるほど見かけ上、水俣病はないように見える。それはたんに被害者が亡くなったためであり、公害を起こした過失に対する反省や対策をおざなりにしてきた結果。
 宇井純「公害原論」などでは、被害者がどのような目にあったのか、どのようなことを考えていたのか、どのような人とかかわっていたのか、彼らが亡くなることでなにが失われたか、などがわからない。講義や運動という場所にいると、被害が数値になって、個々人の存在が抽象化されてしまう。そうすることが政策や運動にはよい場合がある(たとえば包括的な救済策の策定や実態調査や原因解明など)。でも、抽象化されない人間がいるわけで、彼らの人権に無関心であってはならない。彼ら被害者を利用するということで、加害者や加担者と同じになってしまいかねない。とはいえ、自分を被害者と同一視することもおかしなことになる。自分の考えや想像にあうように被害者像を作り、それを押し付けることにもなるから。そういう点で、被害者に「寄り添う」ことはきわめて困難で、実際の関係で適切な距離を保つことは難しい。そのときに、本書のような小説やドキュメンタリーはわれわれの想像力を喚起するのによい資料になる。また、本書は被害者の発見から15年ほどの経緯を語っているので、歴史を知るにもよい(宇井純「公害原論」のような俯瞰的な資料を読むのも必要)。
 公害を考えることは人権を考えることに等しい。人権を侵害されている人の権利を回復するには、宇井純の言うような「物わかりの悪い素人」となって、くどいほどに繰り返し権利を侵害するものに挑むことが必要になる。そのような「物わかりの悪い素人」の在り方が作者、石牟礼道子にある。この小説はどのように「物わかりの悪い素人」になるか、どのように素人が発信するかが書かれている。

 

石牟礼道子「天の魚」(講談社文庫)

 タイトルは「天の魚」。サブタイトルは「続・苦海浄土」。 初出は1972年。

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第一章 死都の雪 ・・・ 1971年から72年に代わる時間。水俣病患者たちは団体交渉に応じないチッソに抗議するために東京本社の前に座り込みを始める。

「大道に座りかつねむる、ということは、故郷の認識によれば非人(かんじん)になるということである。/「水俣の町の角には立てません。市民が憎みますけんな。」(P14)」

 三界のいずこにも住まいを持たぬ身をこのように嘆じる。思いは水俣に、その前年になくなった細川博士に飛ぶ。作者の一人称が、誰でもない三人称の空の視点になり、患者や細川博士のことばに飛ぶ。ひとところに落ち着かぬものの見方ができる民衆のことば。薄っぺらなチッソの社長や弁護士のことば。


第二章 舟非人(ふねかんじん) ・・・ 水俣病によって漁場と舟と家族を失った老人の述懐。だれか特定の個人ではなく、さまざまな漁師の感情や考えが寄り集まってできたことば。過去の美しい仕事。それよりも、死んだ妻への愛慕と、魚を喰わせたことで「殺した」という意識をもつ悲しみ・悔悟。

「死んだもんより、死なせたもんの方が哀れぞなあ。(P58)」


第三章 鳩 ・・・ 1972年正月。東京チッソ本社での水俣病患者と社長などとの話し合い。社長、専務、弁護士らの無責任ぶり。社員の付和雷同水俣病患者を差別する水俣市民(会社の関係者ばかり)。どこにもいられなくなった患者とその支援者がカンパを使って、東京にやってくる。

「故郷で女たちがひきずっているものを、この男たちもまた背負って来たのだった。病いの業苦も貧困も侮蔑も、永い年月も。故郷の魂と、その業苦をぜんぶ身の内に彼らは容れていた。(P155)」

 その漁師たちの徳や倫理の高さ。保証金を値切り支払を渋る会社に水銀母液を飲め、重症者と軽症者を同じ人数だけ出せと迫る。苦痛や貧困に追いやったものらを同じ地平に入れ、彼らを共同体の成員として迎え入れようという寛容。
 文章は東京入りから社長室占拠、団交と続くが、あるひとつのことばがきっかけになって水俣の記憶、労働の記憶が始まる。その融通無碍な文章。すさまじい緊張感と恍惚とする美しい記憶。


第四章 花非人(はなかんじん) ・・・ 東京チッソ本社に座り込みを続けるものたちを老婆の声で語る。胎児性水俣病の息子や娘(このころ高校生から成人)に漁師の暮らしを伝える。


第五章 潮の日録 ・・・ 1970年、患者の中からチッソと自主交渉しようとする家族が現れる。告発する会は即座に支援を決定。その際のやりかたは以下の通り。承認欲求を排した無名の人たちの集まり。

「運動の表での働きよりもより影の部分で、患者たちには一生知られることもない場所で働くことを好む人びとが多かった。このような運動ではいかにおのれを無にし、名前を無にして働くかが自分の志への唯一の踏み絵となる。(P255)」

 患者と告発する会は水俣チッソ工場前に座り込みを開始する。工場の拒否、市民の差別にあい孤立させられる。告発する会とその賛同者だけが座り込みの小屋に出入りする。工場は便所の使用を拒否し、地権者は水道を止める。歩くのも容易ではない患者にとっては車道を渡って駅の便所に行くことは大事業になる(なのでのちの社長交渉では便所の使用が議題になる)。水俣病をなかったことにしたい市民と市長は集会を開き、社長が出て3億9千万円の文化施設建設を約束する。患者には豚一頭分の金(年間10万円!)しかださない。集会後、社長が座り込み小屋にきて、患者は解決を迫る。会社側の人間の薄っぺらさが露骨に表れる会話の書き起こし。遅々として進まない交渉の間に、患者は次々と死亡する。


第六章 みやこに春はめぐれども ・・・ 1971年12月24日。チッソ本社の座り込み写真が報道されてからチッソの態度が硬化。著者を含めて三人しかいないこの日に社員や警官を使って強制排除された。その日の記録。もちろん出てくださいと言われても行く先などない。それこそ「非人(かんじん)」たるゆえん。水俣病患者はいくつものグループに分かれて、補償交渉を行っている。その中で最も厳しく企業の責任を問うのが、「自主交渉派」のこのグループ。別れたといっても絶縁したわけではないが、妙に気まずくなっている。彼ら患者への市民による差別は厳しい。


第七章 供護者たち ・・・ 本社からの排除のあと、患者や告発する会は路上にテントを張って抗議活動を続ける。水俣から来た30人ほどの患者、支援者。自宅に残る患者家族の世話のために、水俣と東京の支援者は奔走する。いくつかのシェルターを確保して患者が休めるようにする。つねに数十人から100人がいるので日々の食事は大変(そこでは若い女性が炊事を担当し、それが性差別ではないかという議論もある)。越年すると、裁判の判決が出て、患者側の勝訴。そのときには運動のペースを患者側がとるように進める。忙しい日々、若い人たちとの交流で感じる違和、ときどき思い出す水俣の海。

 

 「被害者に寄り添う」とはさまざまな人権回復の運動で言われる言葉。でも、それを実践しようとするとき、「寄り添う」がいかに大変なことであるか、ときに自分のやりたいことを捨てることもありうるような覚悟が必要になる。すなわち、「被害者」を理想化して(この時代では被害者をレーニン「国家と革命」にでてくるような「革命家」であるかのように思い込む)、まったくそうではない田舎の人たちに幻滅する。彼らの打算的な欲望や実現が困難な要望に答え続けなければならない時もある。「被害者」とその家族のコミューンには入れても、同化はできない。日々のほぼすべてが運動のために費やされ、休暇・趣味などをあきらめ(どころか当時では風呂にはいることができないし、寝るのも会社の床の上で寝具がない)、日銭の多くをカンパすることもある。そのような苦労をしてもなお、感謝やねぎらいはほぼかけられず、翌日には新しいミッションがまっている。なにしろ自己主張をすることが「被害者」のコミューンを破壊することになるかもしれず、マイノリティの人権を損ない、彼らをさらに孤立させるようなことにもなりかねない。それにおよそ「闘争」とは無縁のこまごました生活の支援が運動の大半であるとすると、運動のイニシアティブや勝利を目標・目的として参加した者には幻滅しか与えない。運動にかかわるほどに<この私>は「被害者」ではないという意識がでてきて、いったいなぜやっているのか、意味はあるのかという問いにとらわれる。上のサマリーで引用した「無名」であることに耐え続けることが必要なのだ。という具合に「寄り添う」ことはきわめて難しい。そう簡単に口にできる言葉ではない。そのことを思い知らされるドキュメント。本書で著者はあまりそのことに踏み込まないが、最初は単に集落に行って、拒否され続けるという経験が書かれる。著者の「覚悟(とこんな安直な言葉でよいのか躊躇する)」の一端をうかがうことができる。とてもではないが分かるなどとはいうことができない。
 この小説はチッソ本社のでたらめな対応が主題。本社内からの患者排除の際でも、工場での申し入れの際でも、従業員は患者や支援者を殴り蹴ってけがをおわせ、いっぽうで実傷のない事件で患者を刑事告訴する。患者の申し入れに社長は逃げ、口だけ達者な専務がうつろな言葉を吐く。およそ人権意識のない企業(それを支援する官庁と自治体)が患者をまったく救う気のないまま、問題の先送りと解決の引き延ばしを図る。
 のらりくらりとした対応に、暴力と逮捕の不安、終わらない情宣活動に、患者の面倒と暮らしの世話。いささかも気を緩めるときのない日々に、著者は東京の風景を見、水俣の海と漁師の暮らしを思い出す。患者(特に高齢者)の意識が乗り移ったかのような熊本弁の流麗な言葉をつむぎだす。およそ類例のなさそうな文体で書かれた、過去にあったかもしれないが、現在と未来にはない「美しさ」。時にはほとんど口のきけない患者の内面にも踏み込む。近代の小説とは無縁で、孤絶した小説がここにある。