宮沢賢治にはまったく興味がない。そりゃ小学生のときに童話を読んだり、10代に詩集を読んで関心したりしたさ。20代の時に数冊を読んださ。でも、読んでいくうちに「なんかこいつへん」という感想になってそれっきりになった。見田宗介「宮沢賢治」岩波書店1984を出た直後に読んだので、この内容に付け加える発見などなさそうとみきりを付けたのもある。なので、その後の関心は、1910~20年代の日本の知識人がどんな西洋音楽を聴いたのかについてだけ。彼が持っていたSPは調査済みで、たしかCDも出ているのではなかったっけ。
(2014/3/1にNHKFMで放送された「クラシックの迷宮 -岩手県に捧ぐ- 」でMC片山杜秀氏が数枚紹介していた。なんでもあるyoutubeにもなさそうな希少録音だった。)
それなのに、なぜ宮沢賢治のことを書くか。エルンスト・ヘッケルにある。ヘッケルは20世紀初頭に日本に紹介されて、大変な関心を持たれた。当時関心を持っていた人(ないし翻訳や原著を読んだ人)には、宮沢賢治、埴谷雄高、荒畑寒村などがいる。ただWW2敗戦と同時にヘッケルは全知識人から忘れられた。ただ生物学教科書に反復説を称えた人として記述が残されているだけ。そのような「不遇」なヘッケルに俺は関心を持っていた。「生命の不可思議」につづいて、もっとも売れた「宇宙の謎」を読んだので、ヘッケルがどういうことを考えていたのかだいたい把握できた。そのような目で、宮沢賢治を読めるのではないかと思ったのだ。宮沢賢治とヘッケルの関係はそれなりに言われているが、たいていは「反復説」との関係についてまで。いやいや、ヘッケルの考えの中で「反復説」は端っこの端っこにあるようなもの。「反復説」を言っているだけではヘッケルのことはわからないのです。
ではヘッケルはどういうことを言っていたのか。それは「宇宙の謎」のエントリーを見るように(追記;いずれアップします)。
(というわけで以下「独自研究」をメモするが、普通仏教やカルト宗教や自伝などで説明するようなところはスルーするか、強引にヘッケルに結びつける珍説を披露する。よくある解説を期待する人は読まないように。)
今回は青空文庫収録の「春と修羅」第1巻を読んだ。過去に読んだ新潮文庫版の詩集を思い出すと、自分が好んだ詩はここに集まっていたから。ページを開いてみたら、冒頭の序からヘッケルだ!と狂喜乱舞することになった。
「わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です/(あらゆる透明な幽霊の複合体)/風景やみんなといつしよに/せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける/因果交流電燈の/ひとつの青い照明です/(ひかりはたもち その電燈は失はれ)」
「わたくし」は主体や自我のような固定されたものではないという考えだったり、生は光であって、電灯のような個物が失われても光は保たれるというところ。「幽霊」は以下を参照。「せはしくせはしく明滅」は同じ種の個体が世代交代しながら変化するヘッケルの進化論のイメージ化。種の進化はひとつの方向に向かっているので、過去と未来の関係は「因果」とみなす。「ひかり」は種の進化であり、宇宙の霊的進化をみていて、ひかりのもとになる個々の「電燈」は個体の死とともに失われる。
「春と修羅」のなかから、抜き書きすると、「こころのひとつの風物」「それぞれ新鮮な本体論」「光素(エーテル)」「地球照(アースシャイン)」「意識ある蛋白質」。これらは、ヘッケルの一元論哲学や宇宙の法則を反映したことばです。俺の読みでは、賢治のいう「心象」は物質即ち精神から現れる実体あるもの。これもヘッケルの一元論哲学。
「春と修羅」の白眉は妹とし子の臨終とその後の詠嘆にある。無声慟哭から青森挽歌までの一連の詩は多くの人が関心を持っているところだ。そこに賢治の妹への愛情や献身を見ることが多い。でも俺はそこにヘッケルの思想が入り込んでいると見た。とし子が亡くなっても賢治はそこかしこにとし子がいるように感じている。遠くの林や山にいて、賢治の方を見たり聞いたりしていると思っている。賢治はとし子の気配を感じても、コミュニケーションはできないのがもどかしいが、それは必然であり受け入れられるとしている。ヘッケルの「霊魂不滅」と「宇宙的な霊的進化」を信じているから。とし子という個体は失われても、霊魂は宇宙的な霊的進化の運動に参加している。なので、悲しむことはない。いつか再会できる可能性も信じられる。
青森挽歌では賢治は直接エルンスト・ヘッケルに語りかける。
「《ヘツケル博士!/わたくしがそのありがたい証明の/任にあたつてもよろしうございます》」
「そのありがたい証明」はまさにこの「霊魂不滅」に関すること。「宇宙の謎」では他人が唱えているから霊魂不滅はあるのだと証明にはほど遠いことしかいっていない。賢治はそれを実体験として証明したいのだ。そこに「よだかの星」や「グスコーブドリの伝記」のような自己犠牲と宇宙的霊との一体化をみることができる。
(その直前の「ギルちゃん」をめぐる会話は「反復説」を話題にしているようだ。)
という具合に終始、おっここもヘッケルだと発見を楽しんだ。とはいえ、ヘッケルの痕跡を見出せるのは冒頭ととし子の死をめぐる詩に集中する。それ以外は賢治の私的な出来事の書きつけで、こちらはあまり関心しなかった。賢治は哺乳類には詳しく、鳥には関心はなさそうなのに、無脊椎動物は種の名前が出てきて、そこはヘッケルを読んだからなのだろうなと思ったくらい。
(「銀河鉄道の夜」はそれこそヘッケルの痕跡探しがいろいろできそう。アニメのシーンを思い出すと、あっあれが、おっこれも、なんとそれも、といくつも指摘できる。「よだかの星」も「霊魂不滅」と「宇宙的な霊的進化」の寓話化。でも、この先は面倒なので、もうやる気はない。)
宮沢賢治は生涯で東京にいったのは二度ばかりで、それ以外は岩手県から出てことがなかったはず。竹内洋「教養主義の没落」(中公新書)によると、日本で教養主義が成立したのは1920年代とのことなので、賢治はエリート層の教養主義勃興の運動には参加できなかった。あこがれはあったようで、詩句に「デカンショ」がかきつけられたり、西洋古典音楽の蘊蓄を取り入れたりした(「自由射手(フライシュッツ:通常は「魔弾の射手」)」「エグモント序曲(英語)」「荘厳ミサ」「葬送行進曲」など)。都会のエリート層には複雑な思いをもっていたのではないかしら。
でも教養主義のような共産主義や社会主義への関心はなさそう。社会変革運動への関心はあったようで、農業学校教師そのたの農本運動に参加した。俺は、賢治が参加したのはヘッケルの一元論哲学運動のような愛国主義的な政治活動だったとおもう。上のような「霊魂不滅」「宇宙的な霊的進化」への共感はテキスト重視の社会主義運動にはむかわない。むしろ身体を行使することによって自然と一体化同一化するように向かっている。興味深いのは賢治のテキストでは〈私〉〈自我〉はたいていからっぽで、地球的宇宙的視座からは価値のないもの意味のないものとされている。そのような〈私〉が意味や価値を持つのは他人のために献身すること、場合によって自分の命をなげうつ時になる。自分の存在を他人のために捨てることによって、全体がよくなるという考えなのだ。これは全体主義運動に近い。賢治はのちのファシズム運動の先駆者なのだろう。大正から昭和初期の青年運動家として宮沢賢治をみることができそう。
(賢治は反近代・反都市であるようだ。一方で、電線と汽車には強い関心をもっていた。どちらも近代化や合理化の象徴で、田舎を破壊するもの。それが賢治のてにかかると霊界との通信や交通の手段になってしまう。この折り合いをどうつけているのかはよくわからなかった。)(あとで考えたら、電信・電話による死者との交信はメスメリズムなどのオカルティズムの影響。)
日を開けて第2集を読んだ。ここにはヘッケルの痕跡はなかった。かわりに仏教用語が頻出。仏教用語の言葉の力が強すぎて、詩人の日常の言葉はぜんぜん及ばなくなった。科学の言葉も仏教に負けている。そのせいか、第1集のような奔放な想像力はなくなり、日常茶飯事ばかりがつづられる。読んでも面白くなかった。
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