odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

堀田善衛「ミシェル 城館の人3」(集英社文庫)-1

 率直に言えば、堀田善衛の著作は敬愛するところ多々とはいえ、通読するのに困難が時に起こる。「ゴヤ」がそうで、この「ミシェル 城館の人」でも2巻の中ほどで半年以上放置していたのであった。その理由が、本書第3巻でわかる。すなわち堀田善衛自身がモンテーニュのような現在進行形で人間を見直す試みをしていて、体系的であろうとはけっしてせず、人間の行いを観察することに徹底し、日常の実践に資するように仕立てているからである。これらの語句は堀田がモンテーニュに向けたものであるが、読み返すとそれは堀田善衛自身の方法を示したことにほかならない(事実、堀田は戦時中にモンテーニュの「随想録」を「方丈記」などと一緒に繰り返し読み、深甚とした影響を受けていることを本書に記している)。俺のように安易にものごとを解決し、白黒をつけたがり、思考の過程を重視しないものには、モンテーニュ堀田善衛も難解になるのであった。
 では思考を体系化しなかったモンテーニュの重要性はどこにあるかであるが、堀田がエレガントにまとめている。40代(第2巻のころ)は懐疑主義を旨とするのであるが、相対主義や判断停止に陥りかねない。

相対主義が最終的に到達するのは、現実においては、せいぜいのところで社会的価値、あるいは判断を停止することによって、結局はまわりに合わせる、という程度のことであった。しかし、それだけでは思想の名に価しないのである。」(P419)

 1980年代以降に相対主義がリベラルにも保守にもシニシズムにも蔓延して、人権尊重や社会的弱者救済などの活動に相対主義で水を注しているのを見ると、この指摘はもっと知られなければならない。どっちもどっちの行く末が現状肯定・変化の嫌悪になるのをみると。で、モンテーニュ相対主義の罠に落ち込まないためには、他人と話し合えという(実際、モンテーニュは貴族なのに農民・家人と、カトリックなのに異教徒と話し合いをするのであった。結論をだすのではなく、考えを押し付けるのでもなく。モンテーニュは自尊心を振り回すな、地位や見せかけに惑わされるななどの話し合う際の諸注意をしている。これができないから俺には堀田善衛モンテーニュも難解になるんだな)。理性を懐疑したとしても、これらの個人的体験は疑いようもないから、そこにあった人間そのものとしてものを言えという。一般法則をたてるのではなく、日常の実践に資するように仕立てて。

「彼の思想、道徳の要諦は、人間性を、たとえば大きな樹木――深く根を張りつめ、天空を蔽わんばかりに枝葉茂らせた大きな樹木のように、精蹄神的にも肉体的にも、理性的にも感覚的にも十全に発展させ、かつ平均のとれた伸ばし方をすることにあった。そして大きな樹木がそうであるように、つねに地上に立っていることにあった。天上や地獄は、彼にとっては無縁のものであった。(P416)」
「人生という大樹をして十全に、根をはり、幹を整え、枝葉をして天まで伸ばさせよ。(P418)」

 「天上や地獄」というのは当時影響のあったスコラ哲学のこと。彼にって重要なのは自分自身であり、そこから敷衍される人間という存在。エラスムスなどの同時代のユマニスト(人文学者)と違うのは、キリスト教をベースに考えていないところ。

「ヨーロッパのほとんどすべての人々が、カトリックプロテスタントかということでかたみに殺裁し合っていたときに、目を大きくひらいて外にも向うことの出来る、自由闘達な精神がモンテーニュの城館の中にいた。しかも、この外に向けられた目もまた内省の一部であった。/こういう人をこそ、世界人、あるいは世界市民と呼ぶのであろう。(P430)」

 モンテーニュにとってのモラルは、生きること、「人間の生活をその自然の性状にふさわしく営むこと」、精神、肉体、感覚、理性などを十全に伸ばす、宇宙的に展開することであった(ここで自分のぼんくらを披露してしまうと、こういう「人間性」「ユマニティ」などはよくわからない概念であるのだ)。通常、西洋にかぎらず世の哲学思想宗教は自然の性状にふさわしく営むにはやっかいな欲望や情念を抑えつけたり克服したりしようとするが(ワーグナーパルジファル」のクリングゾルのように去勢までするのもいる)、モンテーニュは無理はせず、避けることを奨励する。モンテーニュは肉体を嫌悪しない。実際若いころのモンテーニュは多くの女性と艶聞をもったのだし(このあたりの記述はのちのローマ教会が問題にして、発刊から約100年後の1676年に「エセー」は禁書目録に加えられた)。
 堀田善衛はこのようなモンテーニュの考え方ややり方に新しさを見出す。なるほど、堀田の手引きでみると、モンテーニュは200年後のフランス革命に書かれたものと遜色ない。最後の肉体賛美や欲望の肯定などはミラボー伯の「肉体の扉」やサドの著作に引き継がれるのだろうとさえ思う。
 この感想では、モンテーニュの生活をあまりみなかったが、著者はうまくまとめている。あれかこれかの二項であるのではなく、対立するものが混在するのが近代だなあ。

「法官貴族でありながらも、若き日のミシェルは可成りな遊び人でもあった。/田園への引退者でありながら、王の側近であり、公人であり王臣であった。/貴族でありながら、庭師や農民たちと話すことを好んだ。/シャルル九世、アンリ三世の侍従武官でありながら、ナヴァール公の側近でありかつ助言者でもあった。(P436)」

 

 

  

 

2022/08/04 堀田善衛「ミシェル 城館の人3」(集英社文庫)-2 1994年に続く

堀田善衛「ミシェル 城館の人3」(集英社文庫)-2

2022/08/05 堀田善衛「ミシェル 城館の人3」(集英社文庫)-1 1994年の続き

 16世紀のフランスは混迷の時代。進んだイタリア、スペイン、イギリスに囲まれ、ドイツやオランダなどからプロテスタントがはいっていた。それを統合する王権はとても弱い。王様が病弱であったり粗暴で奇行を繰り返したり王宮が淫売宿のごとく風紀が乱れていたりし、そのうえ戦争に内乱に飢饉で社会は不安であり、王室には金がないのに浪費していたのだった。そうして、フランスは3つに分割される。1.名ばかりの王権支配、2.ギュイーズ公のカトリック同盟、3.ナヴァール公のプロテスタント支配地区。とはいえ単独で権力を取る勢力はない(実力はなくとも王権の権威は高い。教会の支援を受けていたので、おいそれと王位を簒奪するわけにはいかない)。どれもが周辺の強国の支援を受けていたのだった。王権はイタリア人を顧問にし、ギュイーズ公はスペインの後ろ盾をあてにし、ドイツやオランダのプロテスタントと組もうにもフランスのプロテスタントはわずか5%。聖バルテロミーの虐殺の後プロテスタントが伸張したとしても全土を圧するだけの力はない。それが1588年のスペイン無敵艦隊の敗北の報に乗じて、アンリ3世がギュイーズ公を暗殺。翌年カトリーヌ死去、アンリ3世暗殺と続き、生き残ったナヴァール公がアンリ4世となる。1598年になんとの勅令を出して16世紀の長々と続いた宗教戦争が終わる。まだまだ異端審問があり、異教徒同士は口を利かないなどの角突き合いはあっても、信仰の自由が法的に確立するのだ。王権は安定し絶対王政の繁栄期となるも、ユマニストらの思想活動は200年後の革命を準備するものであっただろう。
 モンテーニュは王権、ギュイーズ公のカソリック、ナヴァール公のプロテスタントのいずれにも好意的に受け入れられ、ボルドオ市の市長を2期4年務め、しかも自身の著作があるという実績で、侍従武官や顧問になったりもしたのだった。晩年はモンテーニュの町に隠遁してナヴァール公の要請には応じなかった。
 モンテーニュの時代は大航海時代であった。コロンブスののちスペイン人が大挙して新大陸に押しかけ、宝玉を奪い、地元民を殺戮した。そのできごとはモンテーニュの知るところにもなった。

「われわれは逆に、彼等の無知と無経験を利用して、われわれの生き方にならって、一層容易に裏切りや識伊や各沓や他のあらゆる非人道と残酷の方へ、彼等を曲げてしまったのである。これまでに商業と交易の便宜のために、これほど高い犠牲を払わせた者があるだろうか。真珠と胡淑の取引きのために、これほど多くの都市が劫掠され、これほど多くの国民が絶滅され、何百万という人々が刃にかけられ、世界でもっとも富裕で美しい土地が顛覆されたのである。なんと卑劣な勝利ではないか。これまでに如何なる野心も、如何なる国家の敵意も、人間同士をこれほどの恐ろしい敵対関係と悲惨な災難に駆り立てたことはない。」

と激怒したのだった。

「この当時としては、新大陸を征服したスペイン人の残虐行為を、ここまできびしく批判し告発した人は、ヨーロッパ広しといえどもモンテーニュただ一人であった。(P428)」

 なんとなれば、この告発を収録した「エセー」(第三巻第六章の〈馬車について〉)がフランス語で出版されていて、キリスト教圏で広く読まれていたから。この恥ずべき行為を西洋が反省するようになるのは、この後400年以上を経なければならないが、最初のひとりがモンテーニュであったことを名誉とみるのか、その間数千万数億の西洋人がいてほとんど無関心であったのを恥とみるべきか。

2022/03/22 本田創造「アメリカ黒人の歴史 新版」(岩波新書)-1 1990年
2022/03/19 本田創造「アメリカ黒人の歴史 新版」(岩波新書)-2 1990年

 

  

堀田善衛「ラ・ロシュフーコー公爵傳説」(集英社文庫)-1

 前作「ミシェル 城館の人」で16世紀フランスを描いた次作「ラ・ロシュフーコー公爵傳説」では17世紀フランスを取り上げる。この博識な観察家によると、ばらばらだった断片が一つにつながる快感を得られる。箴言(マキシム)で高名なラ・ロシュフーコー公がデカルトパスカルの同時代人であることを本書で知って驚くという具合に。


 公爵の評伝に入る前に、社会や歴史などで教えてもらったことをメモしておこう。
・フランスは森の国であって15世紀までは森の収穫で年間に必要なものの3分の1を賄えた。それが17世紀にはいると、突如開墾の手が入る。牧場と小麦と葡萄畑。この時の人為によってフランスの景観が一変する。それは産業構造を変えることであり、政体にも影響する。隣国イギリスでは清教徒革命が起こっている。

・開墾によって自給自足体制になったので、貿易や植民地には関心を持たない。そのため国庫の収入は周辺国(イタリア、オランダ、スペイン、イギリスなど)に及ばず、王室の経営は常に危うい。

・前世紀の宗教戦争は継続。ルイ13世の時代にはリシュリュウ枢機卿が実権を握り、有名貴族と組んで、内外の戦争を継続する。途中、プロテスタントの牙城を制圧し、スペインとの戦いにも勝つ。おおよそカソリックが主権を得ることに成功。とはいえ外交の進捗は遅く、内戦が頻発するので、王室の財政はいつもからっぽ。諸外国に借金することで対応していたが足りなくなり、さまざまな税金を課していたので、民衆の不満は高まっていたのだった。

・それを鎮められない理由は王権の不安定さにあり、王と外国から嫁いだ王妃との関係はよくなく、枢機卿政権運営をするのを王が統制するのも難しい。王妃は枢機卿を蹴落とす陰謀を企み、貴族は誰につくかをしょっちゅう変えていた。もはや政治を動かすのは、貴族とその集まりの高等法院ではなく、枢機卿のまわりにいる官僚の側になっているのだった。

「貴族、聖職者、第三身分(市民)の三者から成る三身分制の区別が、まことにあいまいなことになっていた。(P281)」

・17世紀(のフランス)は女性の時代。陰謀をすることで政治にかかわるものが出て、貴族の女性は屋敷にサロンを設けて、文芸・文学の徒を集める。男性のみだった舞台俳優に女性がなることが許された、など。

・1642年に、リシュリュウ卿、ルイ13世が相次いで亡くなる。王権は4歳のルイ14世にうつるが、リシュリュウが後を継がせたのはイタリア出身のマザラン枢機卿。王が政務をとれない時、取り巻きが権力を代行し、その権力を獲得する闘争も起こる。1648年のフロンドの乱がそれであるが、新しいのは民衆が税務をつかさどる官僚に反抗し、古い権力である貴族らの高等法院を支持したこと。民衆(ただしパリ市民くらい)が政治に関与するようになる端緒。

 このあと1650年のボルドオの乱があり、マザランが失脚、ルイ14世も権限を失うわと混乱は続く。でも主人公のラ・ロシュフーコー公爵は老年(40歳)になり痛風に悩まされ、政治と軍事の一線からは退く。どうやらこの後30年ほどたった1680年にはルイ王朝に権力が集中し、絶対王政が確立する。あと重要なのは、ルイ14世の宗教寛容令が出てもプロテスタントへの迫害、差別は続き、プロテスタント周辺諸国アメリカなどに脱出移住するようになった。

 

 

2022/08/01 堀田善衛「ラ・ロシュフーコー公爵傳説」(集英社文庫)-2 1998年に続く