odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

坂巻哲也「隣のボノボ」(京都大学学術出版会)

 以前ピグミーチンパンジーと呼ばれていた類人猿は今ボノボと呼ばれる。体格はチンパンジーに似ているが、詳細にみると違いがあるし、行動がとても異なる。この類人猿がほとんど知られていないのは、生息域はコンゴ(旧ザイール)の一部に限られ、秘境にあるので観察がとても大変で、個体数も少なく、今では捕獲も商取引も禁止されているため。しかもコンゴは1980年代から2000年直前まで軍政になっていて、入国制限があり、国内の飢餓のため人間がボノボを捕食していたのだった。現在の政治体制に移行してからは、研究者が戻るようになり、現地の人といっしょに継続的な観察が続けられている。
 しかしグローバル化コンゴにも届き、森林の伐採と農地開発などが進められ、人口が増えた。そのためにボノボの生息域は縮小し、個体数も密漁などで減っている。そこで保全(コンサ―ベーション)が行われているが、著者の見方では国際NPOコンゴの官庁も地元の人も「保全」「人道主義」「市場経済」のお題目で思考停止になりやすいという。組織のうしろだてをもたず(国際NGOなどの客員研究員なので)、あるいは余所者であるので、決済や決定の権限がない著者からは、組織のやりかたがもどかしい。とはいえ、具体的な解決案はなく、迷わざるを得ない。このようなためらいや疑いは、保全や国際協力の資料からは出てこないものなので貴重。

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 著者はボノボの観察を20年近く続けている。夜明け前に起きて、森の中でボノボの残した痕跡を見つけて群れの情報を推測し、数時間ジャングルの中を追いかけ、彼らを発見したらゆっくりと近づく。森の中では数時間をボノボの観察にあてる。まずは個体が識別できるようにする。区別できるようになるのに1年はかかるという。区別できるようになると、夢に彼らの顔がでてくる。いつ行動するか予測できないから観察中は考え事はダメ。観察して気づいたことをメモし、ボノボが食べている果物を味見し、夕暮れまでに帰る。帰ると村人が様々な相談と問題を持ち込み、聞いて解決する。ときに彼らといっしょに政府交渉に行くこともある。服の中に忍び込んだミツバチを刺激しないように注意しながら、メモを整理する。そのころには日暮れて真っ暗になり、翌朝未明の起床に備える。タフでなければやっていけない。
 観察のやりかたもこの数十年で劇的に変わる。博物学時代の個体採集は自然浸食的であると批難されるようになり、餌付けをするようになったが、人に慣れ自力で食料採集をしなくなった群れの行動が自然であるか疑問がでるようになり(しかも餌付けされた群れが観察隊撤収後生き延びられるか不安視される)、いまでは人づけ(人間がかれらの場所にいることに慣れさせて自然にふるまうのをまつ)になった。それでも人慣れが良いかの議論があり、著者は観察中は存在を隠すようにしている。姿を見せないし、触れないし、声をかけない。そうすると著者はボノボと共感(エンパシー)を感じることがあるし、疎外されているとも感じるし、権力をふるっていると感じることもあるという。彼等との関係は一意には決まらない。観察することが自省になる。
(たとえば、家畜の牛が出産するとき、獣医師が観察していると、牝牛は緊張して出産しないという。人に慣れている家畜ですらこうであるとすると、人づけされた野生動物の行動が「自然」であるかどうか。以上は俺の思い付き。書いたこと以上に、研究者は真剣にこのことを考えているはずです。)
(個体識別による異種の認識と観察は、アダム・スミスのいう「利害関係のない観察者」を生むのか。人の場合、男性は中立的な観察者となれると考え自分のふるまいに自省は生じない。一方、女性は「見られる」という感覚があることで「上品」なふるまいをするようになる。社会的な関係で権力に勾配があるとき、「客観的」は強者のマジョリティにしかできず、そのことを観察者は意識しない。)
(この観察するものと観察されるものの関係は、ほかの場合でも参考になりそうだ。観察する<私>と言葉を共通にしないものに対する態度や姿勢を考えなければならないし、それが相手にどのように影響しているかを測り修正しなければならない。それは動物にかぎるわけではなく、エスニックやセクシャルのマイノリティあるいは障碍者との間でも起こる。観察する人間は強圧的で暴力を振るえる強い立場であるのだ。)
【社会調査で注意するべきこと】 LGBTセックスワーカーの「調査」をする前に~悪気なき上から目線

togetter.com


(このような観察問題は、実験室や飼育・育種室にいる研究者には多分起こらない。他者や異種の社会とかかわることがないからだろう。)
 で、本書の大部分を占めるボノボの社会行動であるが、著者は安易に答えを出さない。モデル化しない。単純化しない。チンパンジーとは異なる行動がみられるとはいえ、それはボノボ全体にみられるとも、一時的なものであるとも断定しない。なにしろボノボの観察者(のうち論文を書けるもの)は全世界に数十人くらい(俺の推測)で、コンゴの内戦で観察できない時期があり、複数の群れの異動や社会構造を把握しているわけではない。となると、巷間でいわれるボノボの特長もそういっていいといえず、どれもが「らしい」になる。研究者の謙虚さ。

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 というわけで、研究方法にフォーカスした読書になったので、ボノボのことはほとんど記憶に残らなかった。


 さて本書は著者から献呈された。ボノボの前にはチンパンジーの長期観察をしていて、この30年はほぼ日本にいないので、自分も久しく会っていない。これを読んで息災であることを知り、不在の間に何をしていたかの一端を知ることになった。研究者の真摯さといっしょに詩を愛好するロマンティストの面があることに驚いた。

 

アーネスト・ヘミングウェイ「老人と海」(新潮文庫)

 カリブ海の島にある漁村。WW2のころは活気があったが、大資本の沿岸漁業がでるようになって、小舟による漁はさびれるばかり。若者は島を出ていき、中年以上の漁師しか残っていない。そこにいる老人は84日の不漁に出会っていた。あまりの運のなさに、手伝いの少年も船に乗せることができなくなる。老人の妻はすでに死んでいて、おそらく子どもらは島にいない。孤独で静謐な生活。85日目の漁にでたとき、「それ」が来た。以後3日間の魚との格闘。しとめることができたとき、海に漂う魚の血は、飢えたサメを呼び寄せた・・・
 1952年の小説は1958年にジョン・スタージェス監督によって映画化された。中学生のときのテレビ放映でみたとき、少年に感情移入してスペンサー・トレイシーの老人を見上げるように見たと記憶する。太陽の下のカリブ海での3日間の格闘は鮮烈な印象を残した。

f:id:odd_hatch:20211022085525p:plain  老人と海 (The Old Man and the Sea・米・1958)> | こんな映画見ました

 さてほぼ半世紀を経ての再読の感想は困惑。もはや少年の視点にはたてず、老人の側から読む。
 この3日間の苦闘は資本主義や商品経済の視点からすると、なんの生産も無かった。むしろ老人のわずかな資産をなくすことでもあった。老人は魚との格闘で何かを学んだり思いだしたりすることはなかった。成果をあげずに戻って、ふたたび不漁の暮らしに戻るのであった。およそ近代の小説にあるようなテーマがここにはないのだ。そうすると、老人の3日間は自己発見や自己回復の機会だったのではなく、苦行とみなすべきか。でも、老人はもはや苦行しても何も変わらない。苦は仕事につきものなのであって、それは特別な体験であるということはない。それに老人は心身二元論の人なので、身体の苦痛を心の不安と切り離してしまえるのだ。そこに男の剛毅みたいなことを見ることも可能だろうが、偏屈や頑固や辛抱強さは老人の一般的な属性なので、彼個人の特長になるわけではない。
 参考になるのは1960年の「危険な夏」だろう。スペインの人気闘牛士のひと夏を追いかけたドキュメンタリー。彼ら闘牛士はスペイン中を巡業し、行き先々で闘牛の妙技を見せる。牛は必ず死に、闘牛士は牛の死に意味を考えない。同様に、老人も魚の生死の意味を考えない。自分の存在根拠を魚に問いかけることもしない。メルヴィル「白鯨」で白鯨が存在の意味を投げかける対象であるのとは正反対。老人は魚つりをルーティンとしてやっていた。彼は必ず魚に勝つ。魚は必ず釣りあげられ、市場で現金に換金される。そのような自然から収奪するものとしてしか価値を持たない。老人は魚をそのようにみている。老人が大(ジョー)ディマジオや腕相撲のことを思い出し、自分の釣りと重ね合わせるのは、闘牛と同じようなスポーツであるのだ。
(2021年10月のNHK「100分de名著」で取り上げられたとき、評論家は老人が魚に持つ共感や同士関係などにフォーカスしていた。なるほど。なんだけど、俺は他人や他者に共感エンパシーを持つことはめったにないから、評論家のようには読めなかった。サメに襲われても体力が尽きるまで格闘することに意義を見出そうとしていたが、身体の苦行や努力それ自身にはさほど価値を感じないので、老人の職業意識は認めても、「あきらめないこと」自体を評価する気持ちにはなれなかった。評者はカジキとの格闘を一回限りの特別なできごとと見ていて、その体験の独自性を強調しているようだが、そこは俺の読みとは違う。この三日間は過去に体験してきたことの反復なのだ。ラストシーンでライオンの夢から覚めたら老人はまた漁にでかける。そのときには巨大な魚を釣り損ねたことは気にしていないし、特別なできごととも思っていない。)
(なお、老人がジョー・ディマジオのファンであるのは、ディマジオがイタリア系であり、キューバ人からすると共感を持ちやすいという説明があった。ここは同意。同時代のニューヨーク・マジソン・スクエア・ガーデンで最も人気があったプロレスラー、アントニオ・ロッカもイタリア系。移民の国アメリカではマイノリティの貧乏人は同じルーツのヒーローを応援し、ラジオや新聞などでカリブ海諸国の人々も同じ思いを持っていたのだ。しかし白系アメリカ人はエスニックマイノリティに興味を持たない。ラストシーンでアメリカ人観光客があれは何と問い、ウェイターが「カジキ」とスペイン語で言ったのを「サメが・・・」と英語で言い直す。観光客は勘違い。ここにキューバに関心を持たないアメリカ人への批判や嫌悪があると指摘していた。ここは見逃したので、よい指摘でした。)

 ジョー・ディマジオ。本作出版の後、マリリン・モンローと結婚。新婚旅行で来日していた。

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 もうひとつ別の見方は、老人を神話の人物としてみること。85日間の不漁によって老人がかつて持っていた豊穣は失われた。それを回復するために老人は海にでる。観光客が来るような俗世から海という神話世界に入って、宝を獲得するためだ。その宝は巨大な魚の形になって老人に現れる。3日間の苦闘(イエスが荒野に入って悪魔の誘惑を退けた苦行も3日間だったのを思い出す)のすえに宝を獲得するが、老人の力はすでに衰え、地獄の番をしているようなサメに奪われる。海の宝は再び海に戻され、地上にはもたらされない(ラストシーンで魚の白骨も海に帰るのだ)。老人のクエストは失敗に終わる。豊穣さは地上にもどらない。漁村の漁師や店主、少年らは老人の仕事に感嘆するだろう。でも、宝を持ち帰らなかったので、村は衰退するしかない。観光客が来るようになった1950年代のカリブ海はいずれリゾート地として再開発され、漁師らは転業しているだろう(同じ漁村で、1980年にマキャモン「ナイト・ボート」事件が起きたと想像するのは楽しい)。その点ではクエストに失敗した神話の再話であり、最後の神話なのだろう。
<参考エントリー>
イギリス古典「ベーオウルフ」(岩波文庫)

 という具合に、強い印象を残しながら、ではいったいなんであったかというと心もとない。
 ヘミングウェイのテクニックは冴えている。冒頭とラストに漁村の現実がある。そこで疎外されている老人が海の神話的風景に飛び込む。大きな海に囲まれながら、舞台は数人乗りの小さいボートの中に限定され、そこから先は個物の描写がほとんどなくなる。時間の推移はあいまいになり、いつ-どこにあるのかがまったくわからなくなる。その間は3つのパートに別れ、出港-ヒットで3分の1、苦闘-釣りあげで次の3分の2、サメの来襲-帰港で残りの3分の1。厳密にページが割られている。そのような技術。あるいは、船の上でマグロ、シイラ、トビウオを食べるシーン。たんに3枚におろして生のまま食べるだけなのに、極上の饗宴を見ているかのよう(これほど食べることの描写がうまい作家はほかにいない)。こういう細部を楽しむ。
 ヘミングウェイの小説では世界規模の危機と男女のロマンスがつきものであるが、ここにはどれもかけている。ヘミングウェイらしくないが、魅力的な異色作。(なので最初にこれを読むと、他の作品を読んだときに面食らう。俺がそうだった。)

 

    

 ジョン・スタージェス監督の映画。

ロバート・マキャモン「ナイトボート」(角川文庫)

 マキャモンの出版第3作長編(書かれたのは2番目)。

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 カリブ海のコキーナ島。戦時中は造船と修理で儲かったものだが、今(1970年代後半)は仕事がない。観光客も来ない。心に傷を負ったアメリカ人がつぶれそうなホテルを居抜きで買って経営しているが、心は晴れない。あるとき、ふだん行かない環礁にダイビングにいき、なにか硬いものを掘り起こす。それは爆雷の信管。慌てて浮上すると爆音のあと、古い潜水艦が浮かんできた。それから、船の修理に必要な部材が大量に盗まれ、コキーナ島の住民が日々殺されていく。何が起きたか把握しているのはヴードゥー教の「導師」とカリブ族メンバーだけらしい。
 この後の充実からすると、凡百なできばえ。1980年初出当時を振り返れば、直前から流行りだしたゾンビ映画他のホラーとドイツ映画「Uボート」の合作であると知れる。そこで、物語を楽しむ代わりに、マキャモンの小説技法に関心を向ける。
 そうすると、まずキャラクターの設定がよくあるタイプだ。危機に対処する勇気を持つのは、上記の心に傷持つ中年白人、地元の警察署長、気の強い女性科学者。犠牲になるのは、最初は貧乏で怖いもの知らずの余所者の白人で、過去を知るのは異教徒の「導師」と潜水艦の唯一の乗組員だった老人。アメリカのB級アクション、ホラー、SF映画の配役を思い出せば、それぞれの役割がよくわかる。心に傷持つ白人は父との確執に加え、家族との別離に原因があり、その克服が冒険に参加する理由となる。これはのちの「アッシャー家の弔鐘」や「遥か南へ」などで繰り返されるテーマとはいえ、ここでは付けたし程度。くわえて、白人女性科学者やカリブ族へのまなざしが白人優位・男性優位であることに気づくと、「スワン・ソング」「少年時代」のような平等・多様性主義にはほど遠い。
 小説は起承転結の4部構成。起は危機のきっかけと予言(全体状況と主人公への個人的なもののふたつがでてくる)。承は最初の危害と関係者の否定、物語が行き詰まりそうになるので新キャラ(女性科学者)が登場。転でさらなる危害と原因判明、ようやく危機に立ち向かう決意が生まれ、結で最終決戦。40年前の老朽艦とはいえUボート対古い漁船という圧倒的に不利な状況で、しかも嵐の中というクライマックス。各パートは8-10の章に分かれていてほぼ等分。きわめてエンターテインメントの教科書的な構成になっている。
 とはいえ、本書の弱点は危機に立ち向かうクルー集めが拙速なことで、途中で失敗していないしグループ内の葛藤が起こらないので、彼らに共感がわきにくい。危機に立ち向かう決意を示したところで残りページが90ページもないので、最終決戦でカタルシスを得るには十分なテキスト量がなかった。「奴らは乾いている」以降はクルーが集まった後、その後の結だけで全体の半分という膨大な文字数をあてた。まあ老朽潜水艦と民間人の対決では、いまある形以上の文字を費やすのは困難だろう。
 それより残念なのは、これらの中状況を支える大状況の葛藤、マキャモンで悪と愛の対立、がなかったことだ。悪はナチスの亡霊で、窒息死の中で芽生えた復讐心ということでは、暴力を辞さない愛の側を応援する気持ちがわかない。この後は吸血鬼、地霊、宇宙生物などの圧倒的な強さをもつ悪を想像することで、ここを克服していった。
 というわけで、さまざまな不備がある習作であるが、この後の作品を読んでから読み直すと、後の作品にでてくるモチーフが本書に詰め込まれているのを見つけられる。なるほど、ここを出発点として更なる高みを目指したのだった。(修練は大ベストセラーを生んだので、重畳重畳。)