odd_hatchの読書ノート

エントリーは2800を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2022/10/06

三浦しをん「舟を編む」(光文社文庫)

 21世紀になってめだってきた(当ブログ調べ)「珍しい職業」の小説。「職業小説」であるためには、その仕事に関する詳細が語られていて、仕事そのもののおもしろさ・難しさ・達成感などを示さなければならない。そうでないと仕事そのものへの興味がわかない。加えて、仕事をすることでキャリアアップしていく過程も描きたい。仕事を継続することによって、世俗的な成功を収めることももあると示唆してほしい。その職業への憧れが読者におきて職を求める人が増えることが起きるとなおよい。可能であれば、その仕事が普遍性に対する憧れや到達したいという欲望などを実現すると書いてあるとよりよい。形而上的な「真理」や社会正義に近づく手段であることも仕事に含まれることを言及してほしい。そうしたうえで、個性のない何に向いているのかわからない無垢な若者が仕事でもまれて、人間的に成長して行くことが最も重要なストーリーになる。これらを満たした小説は成功するようだ。
 本書はこれらの要素を全部入れた稀有なもの。これで辞書編纂や言葉の多様性と深さに触れた読者がたくさんいるのではないか。その点で、小川洋子「博士の愛した数式」(新潮文庫)に継ぐくらいの出来。多数の読者の支持を得たのはよくわかる。

 とはいえ手放しの絶賛をしかねるのは、個人的な思い出があるため。主人公・まじめくんは言葉に対して敏感な感受性がある。そのことに熱中するあまり、過度な集中力で食事を忘れたり、多書を購入して多読にふけり、多くの人が見過ごす「瑣事」にこだわりを持ち、コミュニケーションがうまくいかなくて(というか表現が苦手)、しかし他人が自分をどうみているか・どういう感情をもっているかに過剰に反応し、時に奇矯な手足の動かし方をする。こういう行動性向には名前がついていて、それは自分ももっているものだから、前半でまじめくんが辞書編集の手ほどきを受けている時に起きたできごとは自分に起きたことのように思えたのだ。彼の失敗は自分の失敗であるし、まじめくんが受ける嘲笑は俺も受けていたのだろうと共感を強くもちすぎてしまうのだ。しかも俺の周りには、まじめくんを受け入れる常識人の男性社員や上司のような存在はなかったからね。
<参考エントリー>
2021/12/23 田中美知太郎「ソクラテス」(岩波新書) 1957年

 ことに彼がヒロインと初デートにいくところ。香具矢さんの選択で後楽園遊園地にいく。俺もそうだったよ。後楽園遊園地に行ったよ。メリーゴーラウンドやジェットコースターに乗る。そうだったよ。俺もいくつものアトラクションをはしごしたよ。最後に観覧車にのる。あの箱にふたりだけになる。そうだったよ。あの観覧車からは東京ドームの「タマゴ」がよくみえるんだ。その時の陶酔。
 ただ、まじめくんとはちがって俺はそのあとフラれたのだった。なので、この日のことはずっと忘れていたのだが、思いだしてしまったではないか。思いださないようにしていたのに、思いだせて甘い感情がよみがえってきて、しかし彼女から拒絶された時のことを思いだしたりして・・・、陶酔と後悔、想起と反省が一度に押し寄せ困惑して、どうすりゃいいんだ。まじめくんと同じ行動性向を持ちながら、彼のような幸福には縁遠かった。俺がたんに嫉妬しているだけなのはよくわかっている。とはいえこちらの気分の整理がつかないので、本書は決して再読しません。
(まじめくんの恋が成就するのは、いくつか理由が考えられるが、そのひとつが同じ建物の中で寝起きしているところにある。デートの時以外に、彼らが観察しあい、個人的な会話を頻繁に交わせるまずめったにない状況にあるから。この状況を設定したのは、1980年以降のラブコメマンガの影響だとみたい。「めぞん一刻」「翔んだカップル」「タッチ」他多数)
(男の読者からすると、登場する男性は類型的なパターンのキャラにみえるのだが、女性はみな実在するかのような個性と深さと広さをもっている。この人物のとらえ方は見事でした。とはいえ自宅に帰ってからも仕事か読書しかしない松本先生、荒木、まじめくんの配偶者はよく男を我慢できるなあ。ほとんど登場しなかったのは、彼女らの心情を語らせると、主題がぶち壊しになるから?  ここは居心地の悪いところでした。)
 世の中に求人がある仕事は、単純な作業の繰り返しか、単価を下げないと受注できないか、いつ発注がくるかわからない不安定なものか、いずれにしても熱心に取り組むには程遠い仕事ばかりであり、或は大企業に入っても生産者や顧客の顔はみえず上司の機嫌や思い付きに振り回される味気ないものになってしまった。読者の物理現実の仕事がつまらなく、自己実現には程遠く、他人からの評価も得られない。となると、まじめくんのように上司に期待されるが抑圧を受けず、自分の裁量で仕事のやり方を変えることができ、実績からは程遠い長い期間のプロジェクトを任されるような有り方はとても稀有に見えるのだろう。まじめくんは仕事だけでなく、プライベートでも充実しているのも魅力的(ただし上のような問題はある)。
 読者の物理現実の仕事では魅力が失われているので、職業小説のお伽話の需要は高まるのだろうか。あいにく出版社にとって辞典や辞書の制作は負担が大きすぎる時代になってしまった。まじめくんの道を歩むことは出版された2012年以降年を経るごとに困難になっている。

 

  


<参考: 他の珍しい職業を描いた小説>
井上尚登ホペイロの憂鬱」(創元推理文庫) 2009年 プロサッカーチームのスパイクメンテなど
大崎梢「平台がおまちかね」(創元推理文庫) 2011年 出版社の営業
2020/12/07 有川浩「明日の子供たち」(幻冬舎文庫) 2014年 児童養護施設職員
2021/04/22 宮下奈都「羊と鋼の森」(文春文庫) 2015年 ピアノ調律師
2017/12/20 又吉直樹「火花」(文春文庫) 2015年 漫才師

 

 珍しい職業ではないが、全社一丸となって大プロジェクトを達成するというお伽話。
2014/07/29 池井戸潤「下町ロケット」(小学館文庫) 2010年

三木笙子「クラーク巴里探偵録」(幻冬舎文庫)

 花の都パリへの憧れというと、荷風の「ふらんす物語」に始まり、久生十蘭金子光晴が集い、笠井潔が駈込むという具合に繰り返し書かれてきた。ここにタイトルの最新作(2014年刊)があり、日本人はどのようにパリを観るのか、そこの興味を持って読むことにする(読書前の書付)。
 と思っていたら、日露戦争直後のことでした。その前の1900年に川上音二郎一座がヨーロッパ公演をしたのが有名だが、もっと小さな芸人一座も洋行していた。漱石荷風の随筆にあったと記憶。なので、以下の設定は不思議ではない。

川上音二郎一座がパリ滞在中に録音した演目。1900年

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ヨーロッパを巡業中の曲芸一座で、敏腕の番頭として名高い孝介と料理上手の新入り・晴彦。裕福な贔屓客から頼まれ、ストーカー退治や盗難事件の解決など厄介事の始末に奔走する日々を送っていた。華やかなパリで生きる人々の心の謎を解き明かすうちに、二人は危険な計画に巻きこまれていく。人の温もりと儚さがラストを彩る連作短編ミステリ。
https://www.gentosha.co.jp/book/b7799.html

幽霊屋敷 ・・・ ブルジョアの家でポルターガイストがでたので調べてほしいと言われる。おとなしそうな息子とその母の家に深夜石が降る。家をうろつき女中に聞きこみを開始。何とも古風な探偵小説。
(書き方も古風。全体が3-4パートに分かれているが、このサイズ98ページなら10パートくらいにして静と動のコントラストをつけたほうがよいし、女中のヒアリングはもっとページが必要だし、冒頭に孝介の推理力を披露させるエピソードがあったほうがよいし。)

凱旋門と松と鯉 ・・・      日本大使館の職員から下宿のお内儀が誰かに尾行されているので調べてほしいといってくる。お内儀の部屋にある絵葉書から孝介は推理する。

オペラ座の怪人 ・・・ パリのアパルトマン。劇場関係者が多く賃貸している部屋の三階は家主の書いただまし絵で飾られた部屋ばかり。孝介と晴彦が無断で見物していると、家主が賊に襲われ、売れない役者のがあてた宝くじの当選金10万フランが盗まれた。アパルトマンから抜け出すには門を通らなければならないが、そこは孝介らが監視している。賊は脱出していないのに金もろとも見つからない。そのうえ、だまし絵の部屋には盗まれた紙幣と同じ番号の紙幣が書き加えられていた。幽霊?

東方の護符 ・・・ 「幽霊屋敷」からほのめかされていた晴彦の秘密が暴かれる。孝介そっくりになるよう真似して、身代わりが務められるようにしていた。その芝居の結末。

 

 パリの中産から上流階級で起きる不可解事件を超人的な探偵が解決する。それは家族の確執を明るみに出し、桎梏から解き放つ。19世紀末から20世紀初頭の短編探偵小説はそういう構造の物語だったが、21世紀の本書は忠実に再現する。
 とはいえ、途中から関心を失ったのは、ドレフィス事件や日露戦争、普仏の外交などが一切かかれず、どのキャラクターも西洋人の衣装を着けた日本人ばかりで、パリどころか江戸の下町で起きていそうな話だったから。オカルト、絵葉書、だまし絵、阿片窟など当時の流行りを調べて登場させたのだが、細部の描写からパリで起きているという感じがまったくしなかった(絶対にパリなど知らない黒岩涙香の作のほうがパリらしさを感じるのだ)。どこかに的確な比喩か固有名が出ていれば、そうはならなかったと思う。一方で、現代の若者読者はそういうのを不要にするのか。異国で過去の物語であっても、実際はコスプレ現代劇であればよく、その要請に従ったのかしら。
 とりわけ日本大使館の後ろ盾がある旅芸人一座に、パリのブルジョア中産階級が事件の捜査を依頼するというのに鼻白んだのだった。同時代にロンドンにいたガンジーを持ち出すまでもなく、漱石や熊楠らは西洋人からの警戒や蔑視の視線を受けていたのだからね。そこまでの信用をパリ市民から受けるような存在になる理由がないし。
海渡英祐「ベルリン1888年」(講談社文庫)
柳広司「吾輩はシャーロック・ホームズである」(角川文庫) 2005年
 通常のホームズ-ワトソン関係にひとひねりを加えた趣向は興味深い(ちょっと先例を思いつかない)。でも、自分は家族関係の修復がテーマになるところで冷めてしまう。探偵は家族の紐帯から解放されて、第三者のカメラアイを保持することが重要だと思うから。なのに探偵が家族の重さに耐えるというのがどうにもうっとうしい。最後の晴彦の決断に、座の全員が後押しするというのも。ああ、ふたつの家族からがんじがらめになって晴彦は自由を失ってしまったなあ。
 これが1920年代に書かれていれば傑作だったのだがなあ。

深木章子「猫には推理がよく似合う」(角川文庫)

 弁護士事務所が舞台になる探偵小説は久しぶりだなあ。古いのは浜尾四郎大阪圭吉が書いていたし、昭和では和久俊三などが法曹ものを書いていた。弁護士や検事の出身者が探偵小説作家になることは珍しくはなかった。それが平成以降になると激減。本書は久しぶりの弁護士もの。
 しっかり書けているなあと感心したが、作家紹介によると元弁護士で、60歳を過ぎてから執筆活動を開始したという。なるほどこの小説からわかるのは、才気よりも観察力があり、細部までの目配りがしっかり行われているということだ。給湯室になにがあるか、どういう仕事でどういう配慮がいるか、しっかり描いている。実際の仕事をみている/やっているからこその描写だと安心して読めた。

とある弁護士事務所に勤める花織は、先生に寄せられる依頼を盗み聞きしては、“おしゃべりする猫”のスコティと噂話に花を咲かせていた。ある日、愛らしく気高くちょっと生意気なスコティが、推理合戦を仕掛けてくる。「もしいま先生が殺されて、金庫の中身が盗まれたら、犯人は誰だと思う?」。金庫に入っているのは、5カラットのダイヤ、資産家の遺言書、失踪人の詫び状、12通の不渡り手形。怪しい依頼人たちを容疑者に、あれこれと妄想を膨らますふたり(1人と1匹)だったが、なぜか事件が本当に起きてしまい―。現実の事件と、謎解きに興じる“しゃべる猫”の真実は?ミステリ界注目の気鋭による、猫愛あふれる本格推理。
https://www.kadokawa.co.jp/product/321902000603/

 民事しか扱わない弁護士なので、現在進行中の案件は、離婚の準備、遺産相続書の管理、使い込みをした経理社員の告訴準備。「5カラットのダイヤ、資産家の遺言書、失踪人の詫び状」があるのはそのため。依頼人たちは、これらを必要としそうな動機があり、数日前にも所内で騒ぎがいくつもあったのだ。それを聞いている事務員の花織は人語をしゃべる猫スコティといっしょに探偵小説のプロットを考えていたのだった。どちらも大のミステリ好きだけあって、いいかげんな犯人をつくることができない。ついにスコティが花織を犯人だとなざししたとき、事務所に誰かが侵入し、プロットとは違って花織が襲われてしまった。
 というのが第1部。続く第2部は第1部の事件の読み直し。すでに花織とスコティの推理によって、事件の関係者は全員シロであるのが判明している。そうすると、新たな証拠をもとに事件を再構成しなければならない。それを依頼された別の刑事事件専門の弁護士は第1部の記述に着目する。第1部は「信頼のおけない語り手」であるが、とても正確に事態を書いている。その切り分けをすることによって、事件の謎解きが可能になるのだ。というわけで、探偵小説は実は言語分析ととても近しいところにある、あるいは「夢判断」に近いことがわかる(フロイトの「夢判断」は夢そのものを分析するのではなく、夢を語るテキストを分析しているのだ)。新たな弁護士の第1部読み替えは見事。それが手掛かりだったの?と叫んで、おもわず再読することになりそう。
 この小説の後味が良いのは、35歳独身の女性事務員を見る目が温かいところ。読後思えば、70歳の高齢老人しかいない事務所に、ほとんど人が訪ねてこなくて、猫としゃべり、休日も出勤するという勤務はとても孤独なように見える。でも、彼女の日常は誇り高く、充実しているのだと、作家は突き放さない。謎が解決した時、男性作家だと女性に同情しても共感しないだろう。この人にも人権があるのだ、人間らしく扱われるべきなのだと作家はいう。
 2016年刊。

 


<参考エントリー>
ドストエフスキー「分身(二重人格)」
2018/08/31 フィリップ・K・ディック「時は乱れて」(サンリオSF文庫) 1959年
2018/08/03 フィリップ・K・ディック「パーマー・エルドリッチの三つの聖痕」(ハヤカワ文庫) 1965年
2018/07/02 フィリップ・K・ディック「アルベマス」(サンリオSF文庫)-1 1985年