odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

西村京太郎「天使の傷痕」(講談社文庫) 作者の実質的デビュー作品(乱歩賞受賞作)だがまだまだ技術は不足。

  1965年の乱歩生受賞作。このとき作者西村京太郎は35歳。エンタメ作家としては遅いデビューだが、この15年後から屈指のベストセラー作家になって、毎年の高額納税者(文芸部門)で赤川次郎とトップを分け合っていた。すでに税務庁が発表しなくなったので、21世紀ではどの作家が高額納税者なのかはわからない。閑話休題

武蔵野の雑木林でデート中の男女が殺人事件に遭遇した。瀕死の被害者は「テン」とつぶやいて息をひきとった。意味不明の「テン」とは何を指すのか。デート中、直接事件を目撃した田島は新聞記者らしい関心から周辺を洗う。「テン」とは天使と分ったが、事件の背景には意外な事実が隠れていた。第11回乱歩賞受賞。 (講談社文庫
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000139370

 タイトルは「てんしのしょうこん」と読むのだそうだ。半世紀も「きずあと」と勘違いしていた(10代の時に既読)。被害者はトップ屋(死語)でゆすりの常習者。彼が残したメモに「天使は金になる」と書いていたのが、タイトルの由来。実際、彼の口座には頻繁に10万円、20万円の高額が振り込まれている(当時の大卒初任給は1万円に満たなかった)。トップ屋の交友をみると、関係のありそうなのは、エンゼル片岡というストリッパー(パスポートとビザを入手して沖縄に出稼ぎにいくのが時代を感じさせる)と、エンゼルというスナック。あいにくどちらの線もつながらない。そのとき、事件に遭遇したデート中の新聞記者があることにひらめく・・・。
 ここで半ばあたりなのだが、この先を続けると解決編に触れてしまうのでここまで。本作でデビューするまでにたくさんの習作を書いてきたと思うが、のちの作品を思い出すと、まだまだ技術は不足。容疑者が少なくて事件の構図がわかりやすいとか、案山子や捨てられた握り飯などの伏線があまり思わせぶりに登場しているとか、刑事たちの捜査が単調でほとんど興味をひかないとか。当時の推理小説は社会派全盛であって、庶民的な刑事が歩き回るのを書くものだった。作者も受賞を目指して、当時の流行に作風を寄せたのだろう。うまくいっていないのは、俺の書きたいものはこれじゃないという叫びがあったからのよう。この後の作品で記憶に残るのは(このブログで取り上げるのは)、社会派推理小説から外れたものばかりだ。そういうものが彼の書きたかったものだろう(でも15年後にベストセラー作家になったら、社会派風になってしまった。どういう心の動きがあったかは不明)。
 さて、本作の眼目は犯人あてにはなく、「天使」が示すものの正体。この小説の発表の数年前にあった大きな社会的事件が反映している。そこを取り上げたのは慧眼(というか、当時のメディアは社会悪や不正を権威や権力におもねることなくきちんと批判していた。いまの権力に追従するようなメディアとは志が違う)。そこはたとえば宮部みゆき「パーフェクト・ブルー」などよりはずっとましな所に立っている。でも、21世紀から見ると、正義漢の新聞記者がやっていることは被害者のアウティングであり、カミングアウトの強要。まあ、当時の社会運動は被害者を表にだすものだったので仕方がないのだが、今読むと居心地が悪い。

 

西村京太郎「D機関情報」(講談社文庫) 1944年のスイスを舞台にしたスパイ小説。右翼がリベラルに目覚めるというとても珍しいテーマ。

 西村京太郎デビュー直後の1966年に発表した長編。時代は1944年で、舞台はスイスの有名都市。日本人が主人公だが、ほとんどのキャラは現地及び周辺国の人たちだ。高度経済成長中、日本人が海外出張しているのと同期した小説として読んでみたい。

第二次大戦末期、密命を帯びてヨーロッパへ向かった海軍中佐関谷は、上陸したドイツで、親友の駐在武官矢部の死を知らされる。さらにスイスでは、誤爆により大事なトランクを紛失。各国の情報機関が暗躍する中立国スイスで、トランクの行方と矢部の死の真相を追う関谷。鍵を握るのは「D」。傑作スパイ小説!
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-08-EK-0262277


 背景を書いておくと、1944年のドイツ(および日本)は敗色が漂っている。本書中でも、ムッソリーニの失脚、連合国軍のノルマンディ上陸、ヒトラー暗殺事件、パリ陥落がでてくる。日本の戦線でも、サイパン島玉砕、東条内閣辞任などがある。そこにおいて、希少金属の確保のために中立国スイスへ買付に行くのであるが、やはり日本の軍人は目立つせいか、すぐに襲撃され、尾行され、不審人物の接近が相次ぐ。当初は、サマリーのようにトランクの行方を捜すことがミッションになる。容疑者は同じ自動車にのったドイツ人、フランス人、アメリカ人など。中立国スイスであっても、人の移動が多いせいか、彼等怪我人の行方は用として知れない。とりあえず関谷の目の前で死んだ女性が「ディー」とつぶやくのが唯一のでがかりである。そして関谷に接近してきた日本人ジャーナリストやホテルのバーテン、ドイツのエージェントなどが次々と死んでいく。
 それをみても関谷のあたまがうまく動かないのは、この国の構造や教育に問題があるはずなのであって、単一民族幻想と植民地の存在は「スパイ」の思考と方法を学ぶには不適なのだ。人を見れば疑えととりあえずの友好関係を築けと相手を出し抜く会話の妙を身に着けることはむずかしい。ことに「帝国不滅」「我軍不敗」幻想に凝り固まる軍人においては。なのでその種の職業が古くからある国で書かれたル・カレやフォーサイス、グレアム・グリーンなどのスパイ小説に遥かに及ばない。
 というのは、この小説のもうひとつの主題は右翼がリベラルに目覚めるというとても珍しいテーマを扱っているから。関谷は先にスイス入りしている友人矢部の事故死に不審の目を向ける。ジャーナリストの手によって保管された矢部の遺書を読んで、彼は帝国側からリベラルに転向する。その心理過程はうまく書かれない。矢部の遺書を繰り返し読み、戦況を分析する中で、和平こそが達成すべきミッションなのだと確信するのである。したがって、誰が盗んだかからどうやって和平交渉相手にたどり着くかが「スパイ」の仕事になる。そうすると、すぐに関谷が和平の側にあることがスイスの諜報機関の知るところとなり、連絡先は探さずとも接触するようになる。それはどうもお手軽なお伽話であるようなのだが、転向した関谷はもはや不審をいだくこともしない。もうひとつお伽話といえるのは、一介の海軍中佐である関谷が分厚い壁を突破して海軍首脳と政府を説得できると豪語するところ。こういうところに日本人スパイの素人臭さがある。
 史実のように日本政府および軍が行った和平工作はすべて失敗する。史実を曲げるわけにはいかないのだが、関谷のような和平工作が「あった」とする。それをフィクションで書こうとする意図が分からなかった。戦時下でも日本には和平の意志を持つ人間がいたと賞賛するのか、軍隊にも和平交渉の意図があったと擁護するのか。
 前半はなかなかよいスパイ小説と思ったが、後半の転向以降は失速。1966年では海外情報が入手できなかったのか、スイスの都市が無機質で書き割りのような平坦さだったし、キャラは日本語ネイティブな人たちばかり。作者は自作の代表作と見ているようだが、それには首肯できないなあ。こういう日本の「スパイ」であれば、堀田善衛の「歯車」「歴史」「スフィンクス」の方が優れている。

 


<参考エントリー>

odd-hatch.hatenablog.jp

西村京太郎「太陽と砂」(講談社文庫) 総務省がイメージする「二十一世紀の日本」に沿うようにこしらえた迎合と翼賛の小説。

 この小説の来歴は少し変わっている。1967年に総務省が「二十一世紀の日本」をテーマにした懸賞小説を募集した。これに当時新進作家だった西村京太郎が応募して、賞金500万円を手に入れた。すでに乱歩賞も受賞していたが、ヒットに恵まれていたわけではない作家にとってこの賞金額は魅力的だったに違いない。当時の大卒初任給は3万円少しだったので、総務省はかなりの太っ腹だった。

https://nenji-toukei.com/n/kiji/10021
 そのことが頭にあったので、途中でどういう小説になるかがすっかり分かってしまった。

 団塊世代の若者がいる。コスモポリタンモダニストを自称する若者は、日本文化には興味がなく発展がないと考えている。そこでアフリカ(エジプト)に太陽熱発電基地を作る事業に参加した。砂漠に圧倒され、工事現場近くで落盤事故にあってから懐疑が生まれる。人間を拒否する砂漠において西洋の知識は役に立たず、芭蕉の一句が心の支えになった。工事現場ではラマダンで働く意欲をなくした(ように見える)アラブ人に困惑と怒りを覚える。
 もうひとりの若者はアメリカ人の母を持つ能楽界の異端児。能が国家の支援を受けるようになってから堕落しているのに、誰も危機感をもっていない。これでは日本の伝統が失われるではないか。それならば権力に弾圧された世阿弥のように、舞台から飛び出して能を実践するべきではないか。太陽熱発電の工事現場で能を上演することをもくろむが、能協会は彼を除名し一切の支援を拒否する。そこでアマチュアといっしょに上演にこぎつけるが、砂漠は彼を厳しく拒否した。
 この二人に愛された女性は、ひとりを選ぶことができず、求婚された晩に睡眠剤を飲む。
 作家西村京太郎は総務省の懸賞小説で当選するようにこういう仕掛けを施す。

・未来でも東西冷戦体制は継続し、中国は毛沢東亡き後も「文化革命」を行うほどに遅れている。日本は西側ではあっても戦争に加担しない「中立」なので、経済と技術支援で後進国第三世界に行ける。これは当時の日本の立ち位置そのまま。

・政治と経済の仕組みは変わらないが、技術とガジェットは少し進む。大型ジェット機やエアカー、太陽熱発電が実用化。これも当時の未来イメージそのまま。

・黒人と日本人のハーフ(ママ)の女性歌手は差別にあって自殺するが、白人と日本人のハーフである能楽師は差別されない(しかし伝統団体の幹部にはなれない)。工事現場を仕切る欧米人は名がありしゃべるのに、労務を行うアラブ人は無名で彼らの言っていることは聞こえないしわからない。ラマダンを前近代とバカにして、アラブ人の悪口をいう。これも日本人のナショナリズム差別意識そのまま。

・エジプトに太陽熱発電が必要である理由は説明されず、環境アセスメントをした様子はない。アスワンダム同様に西洋の技術を押し付けている可能性を懐疑することはない。むしろ日本は協力することに誇りを感じている。これも当時の後進国支援そのもの。

・伝統の変革を要求する若者は、父に激しく拒絶される。国の支援保障を受けたことを批判されても、父権的な高圧で若者の主張を圧殺する。能楽協会がそこまで頑迷固陋であるかはわからないが、この対立は当時の大学闘争のカリカチュア。変革を要求する若者はのちに自己批判して失敗を認める。政府官僚からすると、権威に対抗して勝利するのは認めがたいからね。それに白人と日本人のハーフが伝統芸能を継承するのも認めがたいことだろうし。

・二人の男性に求愛されて分裂し誰かにつくことを潔しとしなかった女性は「ヤマトナデシコ」の価値観を体現しているのだろうが、男性からすれば都合の良い女性。自立して自分の意見をいうのは認めがたい。(なので本書に登場する主張する女性はハーフや白人だけ。もちろん主張はするが、それを日本人は聞き流す。)

・日本文化や伝統に懐疑することはかまわないし、たしょうコスモポリタニズムやモダニズムにかぶれることはかまわない。西洋由来の観念で文化論をやることは大いに奨励される。でも、日本の体制から逸脱することは認めない。それは絶対に阻止するし、なんなら収監してでも思想矯正をする。この主人公のように自発的に日本に回帰し愛国心に目覚めるのがのぞましい(完全転向を表明するまでするとあざといので、本書のように西洋を懐疑するところで十分)。

 タイトル「太陽と砂」の太陽はエジプトの象徴、太陽熱発電などを思わせるだろう。でも上のようにみると、「太陽」旭日旗に他ならない。西洋でも日本でもない砂漠の「砂」で日本人は生きていけず、日輪を仰ぐ慈愛の場所には勝てないというメッセージになる。外国に行っても、日本の共同体から離れようとも、「太陽」たるシンボルから日本人は逃れることはできない。なので、それを受け入れてしまえ。
 本書は総務省がイメージする「二十一世紀の日本」に沿うようにこしらえた迎合と翼賛の小説。その献身ぶりは懸賞賞金になって報われたが、作家の仕事として誇れるものじゃない。