odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

野間宏「暗い絵・崩壊感覚」(新潮文庫)

 今回読んだのは新潮日本文学の39巻「野間宏集」。新潮文庫で読んだことはあるが、手放したので同じ作品が収録されているかは不明。

暗い絵 1946 ・・・  近衛が「東亜新秩序の建設」声明を出したというから1938年ころか。その5年前の滝川事件で京都大学の左翼はほぼ壊滅し学生運動も沈黙していたが、深見進介らはほそぼそと運動を行っている。彼らの憂鬱と屈折はいろいろな理由がある。もちろん左翼や学生運動をすることが警察や特高の知れるところとなれば即座に逮捕され拷問をうけるであろう。その覚悟があるものの、彼らの学費を出す親たちは不況のために自分らの費用を削って子供に振込み、家業に戻るか企業つとめで返済されるのをまっている。そこで逮捕されたのを知れたら…という複雑な思い。そのうえで、進学率数パーセントの時代に大学生であることは他人の注目を浴びることであり、革命家であろうとするならモラルに秀でなければならず、それは青春時代の性欲を押し殺すことでもある。恋人からはわかれ話を持ち出され、近日中に決着をつけねばなるまい。そして、俺はいったい何者かという存在の不安と自我の未確立も克服すべき課題である。冬のころの深夜、深見は飯屋でノンポリの学生に冷やかされ、運動の仲間の中身のない会話を聞く。他の人は政治革命に集中しているが、深見にはその前の存在革命が問題なのであり、それは誰とも共有できない。仲間のなかにあっても孤独を感じずにはいられないこの精神のあり様のなんという矛盾に満ちたことか。それを1946年に回想するとき、運動の仲間はことごとく獄死し、3年の兵隊生活の後転向した深見だけが生き延びている。あのくらい学生生活と社会。その暗さはブリューゲルのいくつかの絵に重なる。冒頭の長い執拗で精緻な描写は、戦前左翼の文体(西洋文献の翻訳調)なのであるが、その文体を一度潜り抜けないと、あの時代を描けないのであろう。政治運動から小説家に代わるためには、文体革命が必要だったのである。主題や文体、人物像など「戦後文学」を開花させた記念碑的作品。まあ、現代の小説作法から見ると、いろいろつたないところはあるが、モデルになる文体も作品もないとき、このようないびつ(バロック)な作品になるのだろう。

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崩壊感覚 1948 ・・・ 30代の勤め人及川隆一はあいびきにでるところを下宿のおばさんに止められる。同じ下宿にいる大学生が首つり自殺した、警察に届けてくるので現場にいてくれ。そのためにあいびきはできず、肉欲の疼きに苦しみ、豆飯に腹を下してしまう。その間、彼は自分の精神というか自我が崩壊している感じがしている。筋らしい筋はなく、及川のとりとめない連想が延々と書かれる。精神が肉体を理解できず嫌悪すると同時に、そのような肉体嫌悪を催す精神にも愛想が尽きたという事態。及川のオブセッションは、軍隊時代のできごと。ひとつは古参兵の陰湿ないじめ。それと手榴弾で自殺しようとして失敗したこと。左手の指二本を失ったのがそのなごり。肉体ということで自殺死体、あいびき相手の身体、そして自分のからだがでてきて、いずれも観念においては差異がないとみなされる。そういう結論になるのは、及川が一人であって、他人と交通できないからなのだろう。

顔の中の赤い月 1947 ・・・ 戦争後復興は進まず、戦争帰還者は苦しい生活をしている。インフレの進行が彼らを苦しめる。元軍人の北川はあまり好きではない恋人と付き合っているが、死んだ以前の恋人を忘れられず、それを悟られてか恋愛は進行しない。北川が恋愛に踏み込めないのは、戦争体験。戦友が疲労死するのを見送るだけだったとか、古参兵や上官のリンチの記憶がフラッシュバックするとか、現地の豚を殺したとか。インテリゲンチャには克服しがたい悩みがある。それぞれの心のトラウマは北川には頬に浮かんでいるような気がする。それが表題の指すところ。

手首・足首 1960 ・・・ 学会で卒中か何かで倒れた身体から見た医者や義足会社社員などの様子。脳死(という言葉は当時はない)状態の身体の前では、彼らは口さがなく、期せずして神のような<普遍的な見るもの>になってしまった。まあ、そこではしゃべる肉体はほとんど存在感がなく、義足や義手のほうがリアルに感じられる。

 

 主人公が悩んでいることは大したことではない、というか、普遍的な青春のテーマ。禁欲の大変さ(恋人がほしいよお)、恋人との身体的接触の欲望(会いたいよおとか、俺の恋人のおっぱいは小さいとか)、大学の勉強にどんな意味があるのか、代わりに学生運動をしているが勝利する展望はあるのか、仕送りをする両親に負担をかけて気まずい(が、頭を下げるわけにはいかない)、なによりも自分はいったいどんな自分であるのか、自分はいったい何になるのか、などなど。自我の肥大と肉体の統御しがたさみたいなことかな。そう読み取ると、この小説の主人公たちの屈折や憂鬱は、終戦当時にだけあるようなめずらしいものではない。今でも青春のさなかにいる人たちの問題でもあるわけだ(なお、おれが若い時を過ごした高度経済成長からバブルの時代には就職が容易であったという事情があって、その前後の世代の人たちとは問題のとらえ方が違うかもしれない)。
 ただ、彼らに特権的な経験があるのは、戦争体験。軍隊に捕られれば(と当時の人たちは認識していたのだ)、古参兵や上官に日常的にリンチされ、異郷の風土は病気や疲労を生むし、物資の不足は飢餓になる。戦闘の前線に移動すれば、戦友との関係も気まずくなり、飢餓や疲労の極地で倒れた兵士は友人であっても見殺しにせざるを得ない。銃弾の飛び交う中では、生死の境はほんの数㎝の偶然。生き残った者は、フラッシュバックで不眠の夜を過ごし、帰還した「祖国」はまともな保障を行わず、生きるためには犯罪に手を染めることもやむを得ない(闇市場での売買は法律違反だからね)。兵隊にならずとも、国土は空襲で破壊(そのまえに国の命令で強制疎開があり、家屋が壊されたのだった)。職と食料がない。というような戦争体験をその後に生まれたものが網羅できるはずもないが、それこそ筆舌に尽くしがたい経験であった。
 で、その戦争体験は戦後数年では整理できるはずもないし、忘却の川に流すこともできない。そこでも存在に関するさまざまな問いが生まれるが、まず問いそのものを言い尽くせない。それは、大学や企業にいたときにもっていた平時の存在の問題と関係があるはずだが、うまくつながりを持たせることができない。なにより敗戦後の平時と戦時が切断されて、そのつながらないのだ。
 にもかかわらず、その経験と思考は文章にならねばならない。それを書くことでつながりを持たせることができるかもしれない。というわけで書く。それを書く言葉は、戦前の言葉ではだめだし、戦時の言葉でもだめ。それらは「現在」の彼らの存在を書くにふさわしいものではないし、それらの言葉ではとらえられない。なので、作家は晦渋な翻訳調の文体をさらに破格にして書く。それが収録された「暗い絵」「崩壊感覚」「顔の中の赤い月」。なるほど文章がながいだけでなく、文法をほぼ無視し、読者の読みやすさを顧慮せず、多彩な漢語を使って、くどいうえに尋常でない熱がこもる。主題は整理されていないし、現在を書くところに過去の体験がすぐに介入して、いま=ここがどこなのかさっぱりわからない。自分の内面を語る文章がそのまま他人の外見を書く文章に移動し、それが世俗の描写にもある。そのように整理されていないまま、多数の問題を一気にほとばしらせ、およそ他人の理解を期待していない。そのように書くしかない文章と小説。
 時を置いてしまうと、書いてあることの中身はそれほど深いとは思われないし、思索も常識的だ(まあ、30歳だからね)。違和感のあるのは、学生であり知識人であることが共産主義への傾倒と実践活動を目指すことになるという点。このような日本人の知識人に関する規定は1930-70年代頃によく見られたが、それは21世紀には失われている。なので、生活と思考の間に挟まれて苦悩するという図式がなかなかわかりにくくなってしまった。もうひとつは、実践に参加しない学生たちや生活の場にいる人たち(主婦とか会社員とか)をほぼ無視しているあたり。このような知識人の民衆に対する蔑視と崇拝のごっちゃになっているところ。「知識人」という視点で小田実野間宏を論じているので(「日本の知識人」「「政治」の原理、「運動」の論理」など)、参考にされたい(といっても、野間の小説同様、入手しにくいか、苦笑)。
 ただ、そのような文体でしか書けない時期があり、それがその時代(混沌と熱気において)を闊達に描写しているのだ、と思い当たる。さまざまにいびつで歪んで光沢の悪い小説ではあって、形式や構成からするとまず及第点には届かないが(志賀直哉芥川龍之介のような「珠玉な一品」ではない)、それ以外のところに魅力のある短編。なるほど、これが戦後文学の原点だし、1920-30年代生まれの人々に共通する「戦争体験」であるわけか。俺は、著者らの「戦後文学」(さまざまな定義があるけど、とりあえず昭和20年から35年までにデビューした人たちの小説群とするか)が最も小説らしい小説だと思う。戦後文学の小説ほど豊かな(共感と反発が同居する)読書体験をもたらす小説をこの国の文学史に見出していない。

 

    

 

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佐倉統「進化論という考えかた」(講談社現代新書)

 自分の進化論の知識は1980年までで途絶えている(そのあとに紹介されたビッグネーム、たとえばドーキンス、グールド、ウィルソンなどを読んでいない)ので、手ごろな新書で補完することにする。著者・佐倉統はたとえば別冊宝島「進化論で愉しむ本」で名前は知っていた。読むのは初めて。

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 20世紀の進化論の推移は最初の章で概観される。ダーウィン種の起源」は進化論の基本的な考えを示す。ダーウィンは個体の形質や種について進化が成り立つとしたが、20世紀の生物学者は進化の概念を拡張した。その結果、新しい学問が生まれる。動物の行動の進化を探る動物行動学、生態の進化を見る社会生物学ダーウィンが遺伝因子と概念だけを提示していたのを実態として明らかにする分子生物学、個体から遺伝子プールに主役を変えて動態を見る集団遺伝学など。さらに、情報理論などの生物学以外の学問成果を取り入れる学際的な方法が取り入れられたりする。自分なりに要約すると、進化論を遺伝子の情報伝達システムやアルゴリズムとみるなど形式化を徹底し、コンピューターやAIなどに解析するなど大量のデータを処理して観察能力を飛躍的に向上させた。それらは進化論を生物に限定するのではなく、系統を作るものなら何でも進化論のエッセンス(突然変異、適応、自己複製)で説明可能であると考えるようになった。なので、言語や法律や音楽のみならず文化現象までも進化論で説明することを検討しようとしている。
 進化を遺伝子による情報伝達であると見ることによって、全体論有機体論と還元論・機械論の対立を解消する新しい見方を提供するというのだ。ゲーテやヘッケルのように統一する試みがあったが、過去のはオカルトや神秘主義が入っていたからね。情報とみなすことで、普遍的で明解な記号で記述することができるから神秘主義がはいりこむことは(たぶんそうそうには)ない。
 そこから著者は、理学と人文学と架橋した新しい文化ができることを構想する。というのは、哲学・思想の思弁はたくさんの情報を持っていたが、20世紀後半には科学のほうが情報を持つようになり、これまで人文学が対象にしていたできごと(例えば文化)を科学が記述する試みがあり、成果を上げているから。これまで理学と人文学の架橋は科学哲学が行ってきたが、論理実証主義ポパー)と歴史主義(クーン)では不十分。でも、上のような進化論の進化によって自然主義でやっていけるのではないか、著者は構想する。とはいえ、自然主義は人間優位主義や擬人化などを持ち込んで、差別や戦争を肯定する論理に使われた過去がある。そうならないためには学問と研究者は多分野への関心と自然への謙虚が必要という。
 まあ、第三の文化や「センス・オブ・ワンダー」という理学と人文学の架橋の試みはやっていいのでは? どのくらいの知を創り出すかお手並み拝見、という気分。でも著者のような楽観はとれない。すなわち、311とコロナ禍の体験は、理学と人文学の架橋ができるどころか、人々の分断を招いてしまった。科学者・研究者の通訳不可能性や、科学者の他分野への無知、人文学者の科学の誤解、メディアのリテラシー不足、政治家による権益の恣意的な配分、デマゴギーの発生と一定数の支持者の存在、大衆の無理解など。単純化すると、学者にも政治家にもメディアにも大衆にもバカがいるということだ。そのバカが事態をひっかきまわして、分断を広げ、差別と格差を拡大した。ここを改善しようとする動きはあるような、ないような。とても心もとない状況になっている。
 それに研究者など関係者を縛る倫理が「多分野への関心と自然への謙虚」というのは全く不足。これでは差別や戦争の肯定、格差の拡大の放置などを防ぐ手段にはならない。国家や企業などの権力の命令に従わない根拠を作れないからだ。俺が考えるには、自然主義を実行するには正義と善を理解することが必須。どうして正義と善が必要かは以下のエントリーを参照。
2019/07/04 斉藤孝「読書力」(岩波新書) 2002年
2019/07/05 外山滋比古「思考の整理学」(ちくま文庫) 1983年
 自戒を込めて言うけど、戦後生まれの日本の人々は教養が欠けていて、正義や善の考えが足りない。だから書いたものがいつも物足りなく思うのだ。

 

 

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 著者のエルンスト・ヘッケル評価。最近ヘッケルが持ち上げられすぎ。彼の進化論はトンデモです。

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マーク・トウェイン「トウェイン短編集」(新潮文庫)

 初出が解説に書いていないが(いつ書かれたかの情報は必須!)、最後の中編を除いて1860年代、作家初期のものらしい。
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私の懐中時計 ・・・ 正確無比な懐中時計が時を正しく刻まなくなったので、修理してもらう。そのたびに、ますます正しい時刻(とは何か)からずれていく。
(20世紀になると時計は人間を拘束するようになる。チャップリン「番頭」「モダン・タイムズ」、フリッツ・ラングメトロポリス」。でも、このころはまだ時の管理から自由であろうとする意欲があって、かつ技術が不十分であって、時計に対して憤慨するだけの強さはあった。でも社会から時刻を守れという強要があって、人間は時計の管理から逃れられなくなる。エンデ「モモ」など。またテイラーシステムやフォーディズムの前であったこの時代、労働者は時計の管理に反抗することもあったらしい。スコット・M・ビークマン「リングサイド」(早川書房)。)

私が農業新聞をどんなふうに編集したか ・・・ 農業のことを全く知らない男が農業新聞を編集した。
(もしもイエロー・ジャーナリストがビジネス書を作ったら。この時代はアメリカの開拓時代で、町ごとに新聞があった。)

百万ポンド紙幣 ・・・ 最初の作品という。一文無しでロンドンにたどりついた青年に、老人二人が「百万ポンド紙幣」(現在のレートにしたら、1のあとにゼロが20くらいつくのか)を渡して、一か月後に戻れという。文無しがひと月その紙幣で生きていけるかという実験。
(紙幣にはイングランド銀行の印があるので書式上では有効で国家の裏付けもある。でもおつりを手配できないから、誰も決済できない。結果、それを持っている個人は実質ただでものを購入でき、名士にさえなる。この想像上の紙幣は有効にはたらき、しかも誰にも支えられない信用で、さらに貨幣を集めることになる。この紙幣のマジックがほら話を支えて、いかにもありえると読者を思わせるのだ。このおとぎ話のリアリティを支えるのは1860年当時、世界の経済と金融の中心にあったロンドンという都市の存在。「イングランド銀行」の印が紙に書かれた幻想をリアルにしたのだ。これだけの資本と貨幣が集積する都市はロンドンのほか世界中のどこにもない。一方、ロンドンでは格差の拡大が進行していた。悲惨な生活を余儀なくされた人はディケンズの小説やエンゲルス「イギリスにおける労働階級の状態」に詳しい。)

噂になったキャラベラス群の跳ぶ蛙 1865 ・・・ なんでも賭けにする男がカエルを使って儲けていた。たまたま居合わせた旅人をあいてに賭けを持ちかけた。
(このほら話はよく知られているので、置いておくとして、ある人の消息を尋ねに来たのに、名前のよく似た別人の話を延々と聞かされるという枠をどう解釈しよう。)
(参考。PKDの「根気のよい蛙」 The Indefatigable Frog 1953.07
2018/09/25 フィリップ・K・ディック「ウォー・ゲーム」(朝日ソノラマ文庫)

エスキモー娘のロマンス ・・・ エスキモー(ママ)の娘が自分の家の財産自慢をする。婚約者を呼んだとき、父の宝物である金属製の釣り針を盗んだという疑惑がかけられた。
アメリカがアラスカを購入したのは1867年。そのあとに書かれたものだろう。釣り針紛失とその解決は、最初期の探偵小説として読めないこともない。それを台無しにするのは、語り手の善意の差別意識にある。エスニックマイノリティの自慢をそれより多くの富と物をもっている西洋人が慇懃無礼に聴くという構図になっているから。そして本人のいないところで悪口を言う。気分がよくならない作品。)

実話 ・・・ 奴隷だった黒人が生き別れになった息子と出会う話。息子とわかるのは、幼いときにつけた傷跡。

ハドリーバーグの街を腐敗させた男 1890 ・・・ 正直者で有名なハドリーバーグに匿名の外国人がかつて受けた恩義に報いたいが、だれかわからないので探してほしいと、行李を置いて行った。自分が受けた恩義の言葉と同じ文句を言ったひとに莫大な金を贈るという。そんな外国人は知らないと誰もが思ったが、匿名の手紙で秘密の文句を教えてもらった。その直後から町の名士は金をはずむようになり、日曜日の教会で行李が開けられるのを楽しみにしたのである。とても皮肉な結末。
(名士たちは金の誘惑に負けて偽証したのであるが、そうなったのは「百万ポンド紙幣」と同じく貨幣の秘密にある。額面は大きいが、信用の裏付けのない貨幣がきたとき、貨幣の流動性を所有できると思い込んだときから、経済は流通する。字義通りのバブル経済が発生する。そして信用が破綻したときに、バブルははじけ、貨幣は暴落する。この町ではバブルに巻き込まれた者が少数で、ものやサービスの移動がなかったので、恐慌はすぐに終焉した。貨幣の信用はそれを所有する個人の信用も支えていたので、名士たちの名声も失墜することになる。作者は貨幣の秘密をよくつかんでいるなあ。なお、作中にはAP通信社が登場。ピンカートン探偵社らしき人物も登場。)

 
 1860年代というと、日本は明治維新前で近代文学はない。ロシアはドストエフスキーが「罪と罰」以降の五大長編を書きだしたころ。イギリスはディケンズとコリンズが活躍していた。その同時代のアメリカ人は、とても今日的なスタイルの小説を書いた。とくに貨幣経済についての観察は鋭い。これとマルクス資本論」があれば、貨幣の秘密は全部わかるのではないか(と、ほらを吹く)。ヨーロッパの作家のように人物の内面を描写することには拘泥せず、行動と会話だけでその人を描く。おそらくディケンズやドスト氏のみたような人物と同じような人物が描かれているのだが、彼らの描く人物ほどのすごみはない代わりに、隣にいるようなリアリティをもっている。アメリカの行動主義的な心理観が一貫しているのだ。それはジャーナリズムの方法と同じで、センセーショナリズムを除けばトウェインのようになる。
 アメリカは西部開拓時代で、草の根民主主義を実行し、資本主義の自由経済で生活と労働をしている。貴族や王侯などの封建社会の遺物による抑圧がないのが、トウェインの平明さとリアリティのもとになっているのかな。とはいえ時代の制約はあり、とくに「エスキモー娘のロマンス」にあるように、ヨーロッパの移民には敬意をもち人権を尊重しても、ネイティブに対しては敬意も人権意識も持たない。黒人も「見えない人」となって作中に登場しない(「トム・ソーヤー」や「ハックルベリー・フィン」には登場する)。ここはとても気分の悪いところ(当時のアメリカ社会全体がそうだったから、トウェインを責められないが)。