odd_hatchの読書ノート

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上野千鶴子「家父長制と資本制」(岩波現代文庫)-2 を変えないと、女性問題は解決しないし、男も資本制や家父長制から解放されない。

2024/04/19 上野千鶴子「家父長制と資本制」(岩波現代文庫)-1 家父長制と資本制は市場とそれ以外の空間を支配する構造としてできている 1990年の続き

 

 1の理論編は家父長制と資本制の二元論を共時的にみた。2の分析篇は二元論を通時的にみる。大賞は日本。日本の資本制は遅れて誕生したのと、コモン・共同体が破壊されたのは資本制以前なので、最初はイギリスやドイツの例から。とはいえ男性優位社会のマジョリティである男性の俺にはどのページも「目からうろこ」の記事ばかりなので、要約もメモ取りもできない。

2 分析篇
家父長制と資本制第一期 ・・・ 近世までは生産=再生産の基本単位は土地を所有する拡大家族のドムスで行われてきた。そこでは家内労働と生産労働の区別はない。18世紀の近代化に伴う都市化と工業化によってドムスは解体。生産労働と家内労働に分化した。資本制は労働者を自由な個人であることを望んだが、実際は自由な孤立した単婚家族だった(なので生産労働でも家父長制が介入して女・こども・独身労働者を搾取した)。単婚家族は近代の産物であり、独立性が高まり公的な領域から隔離され孤立した。大雑把すぎるな。
(「家」制度は武家のしくみを1898年明治31年の民法で庶民に持ち込んだ。私小説は家と近代的自我の葛藤を描いたと男性評論家は説明するが、フェミニズム評論家によると「家長責任を負いきれない弱い自我の悩みや煩悶を描いたもの」で「家長責任から逃避する未成熟な自我」の持主は妻や子供を傷つけ、かえって自分の加害性に無知で無恥であるという。ここでは島崎藤村太宰治をあげるが、夏目漱石石川啄木もそうだし、ほぼすべての戦前作家にあてはまる。これこそ「目からうろこ」。戦前の日本文学がダメなのはここに理由があったか。中村光夫「風俗小説論」(新潮文庫)-2の感想で行った分析では不十分だった。)

家父長制と資本制第二期 ・・・ 20世紀の半ばころまで。市場はその内部では好況-不況の循環だが、外部を開発することで拡大できる。そこで発見したのが国家と戦争。前者はドムスや市場ではない3番目の経済セクターで、統制経済を実施する(資本-民族-国家の三位一体が完成)。後者は蕩尽であって生産を拡大する。一方戦争は女性解放を促進し、自身と実績を積み、家父長制は自然ではなく禁止と排除で成り立つことを知り、失業した夫の権威を失墜させ、夫に代わって家長になる。戦後の経済成長は「夫は仕事、妻は家庭」という近代の性別役割分担制度を完成させる。結婚は女性を妻という家政の権力をもつが、無償の家事労働に従事させられる。この制度の家父長制は封建制での家父長制とは別。

家父長制と資本制第三期 ・・・ 1960~1980年代。「夫は仕事、妻は家庭」という近代の性別役割分担制度は解体されだす。女性は結婚を機に退職するが、出生数減少と家事労働の省力化で、ポスト育児期に就労するようになった(M字型就労)。目的は家計負担(教育費と住宅ローン)のため。企業は労働力不足を女性のパートタイム就労で補った。女性は男の仕事をとったのではなく、新しく成立した周辺的な仕事につかされ、競争外の存在で低賃金と不安定な二流労働者にされた。不況期に正社員の男は解雇され、パートタイムの女性は就労数が増えた。企業は低賃金で不安定な二流労働者を増やすことでコストカットを行った。就労数は増えても、家父長制は強化される。自立できるだけの賃金はないし、生産労働と家事労働の二重負担が押し付けられる。
(このあとの「平成」でどうなったかというと、この構造は変わらない。男が正社員につくことが難しくなって、単身者が増え、パートタイムの女と就労を競争することになった。ともに自立することができなくなり、婚姻数も出生者数も増えない。そのせいか男による女性差別や暴力が増えている。)
(ここらの分析は日本の労働問題や男女共同参画の啓蒙書より深い説得力があるものになっている。)

家族の再編 ・・・ 人口を資源とする見方は近代になってから。近代は人口増加期で、家庭から生産を切り離して再生産だけにした。その結果、夫婦と子供の家族は減少する。これを「家族の解体」として攻撃する者がいるが、核家族と主婦を標的にする母性の家族主義のイデオロギストだけ(日本では宗教極右)。実態は老人と養育の負担を主婦に押し付けるだけ。家父長制に抑圧と搾取される女性は離婚するが、自立できないので貧困層に転落する。かわりに夫は可処分所得が増えて経済的には豊かになる。
移民労働者は日本人男性労働者とは競合しない。非熟練労働で女性と競合する。一方、能力ある女性は高収入を獲得する機会を得る、こうして収入格差が進む。仕事する夫、育児する(内勤の)妻、子供という家族がモデルであるわけではなく、家族のありかたが多様化する。日本では既婚女性は妻であるより母性を要求され、長い養育期間で母に依存し従属する子供をつくる。資本は養育と教育の負担を女性に押し付け、成人したこどもを労働者として収奪する。資本制と家父長制は対立するのではなく、相互に補完関係をもっていて、女性差別を強めていく。

結び―フェミニスト・オルターナティヴを求めて ・・・ 市場をめぐる国家・企業・家族が再編されている。これを扱う経済学はそれぞれを一人格とみて中にいる個人を相手にしてこなかった。フェミニズムはこうした経済学を批判する視点を提供する。なので、労働概念(神聖であるとか自己実現であるとか人間の本質であるとか)の再検討が必要。なお、フェミニズムレイシズムやエイジズムを説明できないので、これらを扱う学問と多元的に結びつくべき。
(労働laborはアーレントが定義をつくっていたが、彼女のアイデアでは経済学には使えそうにないなあ。)

付論 脱工業化とジェンダーの再編成―九〇年代の家父長制的資本制 ・・・ 以上のまとめのような講演会用原稿。

 

 日本の労働問題はいくつか読んできたが、本書の分析がもっともしっくりきた。
 読むほどに女性問題はなくて、男性問題があることを確認した。男を変えないと、女性問題は解決しないし、男も資本制や家父長制から解放されない。

 

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