部落差別はまず角岡伸彦「被差別部落の青春」(講談社文庫)を取り掛かりにした。つぎに、本書で歴史を学ぶ。組坂繁之は部落解放同盟の重鎮、高山文彦は作家で水平社運動を担った松本治一郎の評伝「水平記」を書いた。高山が質問し組坂が答える形で対論となる。
日本の部落差別の起源をこの小著からまとめるのはおこがましいのでやらないが、気の付いたトピックがいくつか。
・鎌倉の新興仏教は世の「悪」(ここでは家畜の屠殺(とさつ)や狩猟従事者、死体処理を行うもの。不浄や穢れにかかわるものの謂い)の人たちを救う教えを説いた。さらに進んで悪人正機を唱えるものもでる(「悪」にかかわるひとこそが救われる)。これが庶民や被差別者に指示された。
・江戸時代の農民統治は「上見て暮らすなした見て暮らせ」で、過酷な生活にある農民が蔑む対象として部落民を利用した。嫌がる「汚れ仕事(警察、公安など)」に部落民を採用し、農民の憎悪が彼らに向くようにした。基本的な政策は棄民(大日本帝国でも棄民政策は受け継がれ、「満州国」ができたあと、部落ごと移住するケースがあったという)。
・大逆事件に連座した者には部落出身者がいた。組坂の考えでは、万世一系神話に部落差別は不可欠である(聖と穢れの象徴的な構造とか、実際の政策であるとか)。
明治維新後の水平社運動や敗戦後の部落解放運動は、被差別者の人間の尊厳を損なうなという趣旨。特に行政に対して、公共サービスに他地域との違いを作るなという運動。土地や道路の整備から義務教育の平等まで、貧困者の支援から同和教育まで。行政は生活と仕事に直結しているので、ここを変えるのはとても重要。マジョリティと同一のスタート地点に立てることが重要なのだ(しかし行政を動かすのはとても困難。まず法整備が必要であり、それを実現するのに数十年がかかった)。ときに「自分の力で」という人がいるが、自分の力が発揮できるようなサポートの仕組みがその人にはあったのだ。しかし部落にはサポートの仕組みがないので、いつまでも不公正で不平等な社会で差別を受け、可能性を狭められている。
それでもなお差別はなくならない。マジョリティの精神や行動性向に深く根差していて、世代が変わらないと世間や社会の意識は変わらないだろう。組坂は差別する側の心理を分析している。すなわち、差別者は人間を道具としてみる(この指摘はカントと同じ。カントは「手段」という)。というのも、差別者は自分は無価値だと考え自暴自棄になりやすく、他人や人間の尊厳に無関心で、むしろ価値がないから損なってもよいと考えている。そして自分の人権や尊厳を貶しめる(他人を巻き込んで社会全体の権利や尊厳を貶しめる)。ここらはアーレントの「全体主義の起源」での分析と共通。こういう心情になる背景には資本主義による労働疎外がある。収入の格差、ワーキングプア、長時間労働、ブルシットジョブなど。経済が良くなれば差別がなくなるわけではないが、縮小させるためには経済と社会の安定は必要。
差別問題の解消を当事者が取り組むのはしんどい。差別の実態をあきらかにするときに、二次被害(トラウマ、PTSD、知人・友人・職場・地域に知られるなど)を生むからだ。当然、彼らを支援する運動にも気を付けなければならない。当事者やマイノリティをヒーローにして周囲にいることで、差別者に注意・啓発したりしなくなるから。となると、マジョリティが差別を問題にして、差別をなくす努力をしなければならない。そういうことを痛感した。
(念のためにいうが、差別をなくそうとするものに「おまえには差別心はないのか」と問いかけるのは無意味。自分の差別心を克服する内面の運動をすることも不要。内面がどうかはわからないので、そこに介入する必要はない。差別する行為、言動をしなければよい。もし他人を踏みつけることをしてしまったのなら、同じことを繰り返さないようにすればよい。どうも日本人は内面や道徳を優先するのだが、それはなにもしないことのいいわけになってしまう。)
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