odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

エリザベス・フェラーズ「その死者の名は」(創元推理文庫) 素人探偵が警察の暗黙の了解を得て、村の事件を捜査するが、よそ者にはそう簡単に心の内を明かさない。

 深夜、ミルン未亡人は人をひいてしまったと、警察に飛び込む。要領を得ない話を聞くと、道の真ん中に寝込んでいた男を自動車で轢いてしまった。困ったのは、この男のことがさっぱりわからない。泥酔していたのはわかったが、ホテルに泊まっているわけでもなく、パブで飲んでいたわけでもない。スーツケースもなく、ズボンが消えている。南アフリカのレシートを持っていたので、そこからやってきたのと推測されるが、事故の加害者も村の人々もだれもこの男を知らない。
 警察が聞き出そうとするが、だれもが口をよどませ、声をひそませるのだ。だんだんわかってくるのは、村人(のうち事故の加害者と、彼女が嫌う村の荘園主の一族)の憎悪の関係。たとえば、加害者の女性は荘園主と犬猿の仲。どうしてかはよくわからないが、とにかく顔をあわせないようにしていて、顔を合わせるとすさまじい罵倒が女性から現れる。その女性は娘とうまくいってなくて、フィアンセとの結婚を許そうとしない。荘園主もまた悲劇の影が覆っていて、どうやらできの悪い息子が20年以上前に失踪していることにあるらしい。しかも行先は南アフリカ(発表年の1940年当時はイギリスの統治領でパスポートなしで行けた)。

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 こういう情報は整理してでてくるのではなく、警官が酒瓶をさがしているのを手伝った高等遊民のトビーとジョージ(前者は新聞記者かジャーナリストのようだが、後者は何をしているのかわからない)が刑事を親友だったので、なんとなく捜査をするなかでわかってきたこと。好奇心の強い素人が知り合いのつてをたどって聞き歩くので、捜査の進展はまだるっこしい。もちろんそれは事件のカギを隠す手段であって、荘園主の奥さんが牧師の説教をのせた新聞記事をマークするようなどうでもいい挿話が後で効いてくるというなテクニックになるのだ。
 素人探偵が警察の暗黙の了解を得て、村の事件を捜査するというのは、クリスティのミス・マープルもののパスティーシュといえる。男女老若、アッパークラスからロウワークラスまで多彩な人物がてんでにおしゃべりする。マープルものと違うのは、トビーとジョージがよそ者なので、そう簡単には彼らに心の内を明かさないところ。なので、トビーとジョージの捜査は遅々として進まない。
 おもしろいのは、捜査の主導権を握るのは饒舌で行動的なトビー。一方ジョージは口数が少なく、ほとんど質問をすることはない(その数少ない質問はあとで解決に聞いてくる)。まあ、ホームズとワトソンの関係かと思いたくなるが、それも作者の仕掛けた罠。
 というのも、この事件では解決の説明が3回行われる。最初の告発をトビーが否定する。それが見事な解釈で、事件の全貌をちゃんと解き明かす。とにかく事件の形がさっぱり見えなくて、トビーとジョージが何を問題にしているのか不明なまま読み進めるページがずっと続いていた。そのときにタイトルを思い出し、トビーによって「その死者の名は」なにかがわかったとたんに一気に事件の構造が見える。こういうテクニックはすばらしい。もしかしたら初期のクリスティ(「牧師館の殺人」「晩餐会の13人(エッジウェア卿の死)」「エンド・ハウスの謎」あたり)よりも上。それがさらに最後の数ページでジョージによってひっくり返される。これは読書の至福。
 とはいえ、ミステリーのデビュー作である本書はテクニック以外の魅力に欠ける。長編を支えるには謎が小さいとか、未亡人の一族以外のキャラが十分書かれてないとか、男性キャラが弱いとか。次作に期待したくなる佳作(この長編の発表前に普通小説を書いていたそう)。
 翻訳は2002年。フェラーズの紹介はとても遅れたが、その代わり翻訳が流麗。平成の日本語と会話で書かれているので、ノックスやクリスピンやマイケル・イネス、ニコラス・ブレイクといった同時代の作家の昭和の翻訳よりも読みやすい。昭和の翻訳で戦前のイギリスをイメージしていたものには、この翻訳のイギリスは軽薄で明るすぎ、教養にかけるように見えてしまうけど。

 

エリザベス・フェラーズ「細工は流々」(創元推理文庫) 頭が切れて口かずの多い若者がときに無遠慮に他人のプライバシーに踏み込みながら、一族の隠し事を調べていく。

 ルー・ケイプルという若い女性がトビーに15ポンド貸してくれと頼みに来る(リンク先の回答を使うと、2019年の現在価値で30-35万円くらい)。トビーは断り切れなくて小切手を切る。

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 翌日、男の声でルーが殺されたという電話がかかってきた。現場にいくと、お人好しで人を疑うことのないルーは出版社社長の家で毒殺されていた。珍しい種類の毒物を鼻炎薬と入れ替えられていたのだ。ルーはこの家によく出入りしていたが、必ずしも好意的にされていたわけではない。底なしのお人よしは住まう人たちをときにイラつかせる。というのも、社長と妻は離婚調停中。このころにはそれぞれが愛人をもっていて、互いに隠しているのではあるが、すでに秘密ではなくなっている。社長はふだんは家にいないので、妻は愛人を連れこんでいる。植物生理学者は奇妙な人格の持ち主で、毒物も研究室にふんだんにある。さらに、ルーと同居している友人もときにルーに冷たくあたることがあり、金に困っていたルーは友人の持ち物である中国陶器を勝手に売り払ってしまっていた。

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 さらに奇妙なことに、この家のかしこには古い短編探偵小説にでてくるようなトリック機械(引き出しを開けるとナイフが飛び出すとか、ドアを閉めると吹矢が飛ぶとか。殺人まではいかなくとも実効性のあるものばかりなので、かなり危険。捜査の途中で、社長が殺され、妻の娘(女児)も行方不明になってしまった。
 トビーとジョージのコンビもの第2作(1940年)。トビーが大活躍で、本書はトビーの三人称一視点で書かれる。頭が切れて口かずの多い若者がときに無遠慮に他人のプライバシーに踏み込みながら、この一族(上記の人のほかに妻の叔父の老夫婦や医師など)の隠し事を調べていく。おおよそ警察の黙認を得ているとはいえ、私人がここまで踏み込んでいいのとは思うけど、まあいいでしょ。相棒のジョージは小男で口かず僅か。トビーを称賛しているものの、ときにいなくなり、誰もいなかったからと他人の部屋に忍び込んだりする。トビーの推理や捜査からすると、突拍子もない質問をして困らせる(でもあとで重要な問題提起だったのがわかる)。
 女性の描き方はみごと。結婚後の倦怠期にはいった社長の妻の倦怠と不満、底抜けのお人よしの若い女性、頭が良いので相手の鈍感さにイラついてくる同僚、妄想癖のある老人に付き合う妻、物心がついたばかりの女児など、女声の描き分けができている。それに比べると、トビーやジョージ、警察官や学者などの男性はどこか生気のない、カタログのような人物になっている。
 事件の中心は殺された若い娘にあるのではなく(でもなぜ15ポンドを必要としたのか、友人の持ち物を勝手に売ったのかなどの背景は切実な社会問題)、中年になった社長夫婦の倦怠と人生の再冒険。もう一度、ここではないどこかに出ようとして、しがらみとか持ち物のために思い通りに行かない不満と諦念。こういうところの心情が物悲しい。
 1940年作というのに、イギリスの社会状況がほとんど反映されていないのが驚き。すでにナチスとの闘いが始まっていて、ロンドンも空襲を受けていたころ。同じ時期のカーにもそういう描写はなかったので、作家たちはエンターテインメントに徹することで、読者を慰撫しようと考えていたのだろう。それも見識であり、戦時体制でも表現の自由に介入しない自由主義を徹する国家だった。

 

エリザベス・フェラーズ「自殺の殺人」(創元推理文庫) 隠れテーマは父のパターナリズムと娘のリベラリズムの葛藤。

 ジョアンナ・プリースは23歳になっても職に就かずにぶらぶらしている。そのことを父エドガーは気に入らない。同居する秘書ペギィ・ウィンボードがしっかり者なので、どうしても実の娘に厳しくなる。最近はますますよそよそしくなり、ジョアンナに厳しく当たる。ある嵐の夜、ジョアンナは身投げをはかった。植物園館長をしているエドガーの助手ゴードンが運よくみつけ、さらにトビーとジョージという青年がいあわせて、家に帰らせた。翌朝、不機嫌なエドガーは朝早く出勤し、一発の銃弾とともにこの世を去った。警察は他殺であるとみなした。でも、ジョアンナとその周辺の若者たちは、前日自殺しようとした男が翌日殺される理由が思いつかないと自殺ではないかと推測する。捜査を進めると、部屋の鍵が窓から捨てられている、机の上の手紙が消えている、前日に秘書のペギィが突然解雇される、と不可解なことばかり。それに気難しいエドガーはほとんど友人をもっていなくて、ジェラルド・ハイランドという同年配の親類くらいしか近しくないのに、ジェラルドにもヴァネッデン博士という小男と懇意にしていることを隠していた。さらにエドガーは助手のゴードンやダンの研究に嫌がらせじみたことをして、追い詰めていた。

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 というような情報は断片的に知らされるのであって、小説のほとんどはエドガーの部屋や近くのパブや事件のあった植物館などでのジョアンナの振る舞いについて書かれる。電話も自動車も持たず、ネットもない時代には、若者は歩いて人と会い、おしゃべりをし、遊びの打ち合わせをし、パブでビールを飲み、自宅に招いてパーティを開くしかない。必然的に、ジョアンナには上記の事件の関係者が入れ代わり立ち代わり現れては、事件のことをうだうだとしゃべるのだ。そこに上のような情報が紛れ込んでいるので、きちんと読み込もう。
 作家の人物描写と会話の腕は相当なもので、ヒロインであるはずのジョアンナもまた気難しく、他人への配慮ができず、感情のままに相手を攻撃し、その感情も激発的に変わる(泣いたり怒ったりが頻繁に交代)というややこしい面倒くさい行動性向の持ち主。まあ、(男から見て)いやなやつなのだが、生き生きとしているところは感服。内向的で気難しいペギィの描写もよい。総じて女性は個性的。一方、男性陣はそこまでの深みはなく単純な性格の持ち主。「私が見たと蠅は言う」でも女性の描き方に感心し男性が類型的なのにほくそ笑んだが、ここでもそうだった。
 隠れテーマは父のパターナリズムと娘のリベラリズムの葛藤。これは戦前(1941年作)のイギリス社会だから起きていることで、四半世紀のあとの1960年代になれば、娘のリベラリズムに父は対抗できなくなり、奔放な生き方ができただろう。その点で、戦前のイギリスの中流階級では女性はいろいろ抑圧されていたのだと思いをはせることになる。
 さて、後半になってペギィがエドガーの睡眠薬を大量に飲んで死亡するという事件が起こり、これも自殺とも他殺とも判別しがたい。そしてヴァネッデン博士とジェラルドが行方不明になり、かれらはあとを追いかけることになる。
 真相はというと、最後になって二転三転。自殺か殺人か決められない状況から、自殺である、いや殺人であるという推理がいくつも披露され、納得しかけたところでひっくり返る。事件が明るみにでたあと、ふとした問いかけによって、もう一回事件の様相がひっくり返る。このトリッキーな構成はみごと。それに前半のジョアンナにフォーカスした描写もこの仕掛けに関係していて、これも優れたテクニック。気持ちよく騙されたのも楽しいものだと、良いミステリーの余韻を味わえた。
(ここの事件でも超法規的措置が取られるのだけど、クイーンやヴァン・ダインやクリスティやカーの諸作のような違法性・犯罪性は認められない。彼の裁量であれば、それも仕方ないと思える解決だった。ここもうまいと思う。)
 ミステリーのテクニシャンであり、人物や風俗の描写がうまく、会話もうまい。でも少し物足りないのは、登場人物がイギリスの中産階級の若者たちに限定されているところ。多様な階層と年齢とジェンダーの人物を書き分けられるクリスティはすごい。