odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

斎藤洋一/大石慎三郎「身分差別社会の真実」(講談社現代新書) 江戸時代の身分制は、士農工商ではなく、公家・武士-平民(農工商が含まれる)-被差別者(えた・ひにん)の三層構造。

 歴史学者大石慎三郎監修による「新書・江戸時代」の一冊。江戸時代の身分制は時代劇などで牧歌的に描かれているが、そうではない。たとえば「士農工商」が江戸時代の身分制の序列とされているが、この言葉ができたのは明治時代で、昭和の義務教育で定着したのがわかっている。


 江戸時代の身分制は、むしろ、公家・武士-平民(農工商が含まれる)-被差別者(えた・ひにん)に大まかに分けられていた。平民の農工商は必ずしも厳密に区分されていたわけではなく(網野義彦の「百姓」解釈と合致)、武士と平民の身分移動は可能であった。そのような階級・階層間の差別よりも、平民内部の序列のほうが強固であった。共同体の中で行われていたので逃れようがない。村八分は武士と農民の間で起こるのではなく、農村の中で起こることなのだ。身分制の在り方は、体制・権力が格付けした構造を固定化することであり、はみ出した者への暴力を許容することだった。「身分不相応」というのが他人の行動に対する価値基準になっていて、その都度の状況でいかようにもレッテル貼りが可能になる。(この考えを強固にする概念のひとつが「武士道」なのだろう)。
 本書のテーマは江戸時代の被差別民の歴史。先行する啓蒙書として、原田伴彦「被差別部落の歴史」(朝日選書)1975年を読んでいるが、1995年の本書がでるまでにこの分野の研究が進んでより詳しくなっている。著者によると、

・列島の差別意識は古代のケガレ概念が社会に浸透するうちに生まれたらしい。ケガレを排除することを行ううちに、ケガレた人々を差別するようになった。なので被差別民は江戸幕府が作ったのではなく、中世にすでに幅広く定着されていたケガレた人々を差別する意識と行為を体制維持に利用するために江戸幕府が制度化したのだとみたほうがよい。
(列島の社会に差別意識が定着していた、しかも平民の中でも相互監視と異人排除の仕組みができていて当然とされていた。この指摘は重要。明治政府以後の征韓論脱亜入欧論などで差別意識が生まれたと思っていたが、それより以前から根強く日本人の精神そのものになっていたのだ。しかも宗教感情が差別意識をもたらすところが問題だ。キリスト教イスラムでは教義の中に差別解消の意図があるので、反レイシズムで動く人が多い。)

・中世のケガレた人々は放浪する人々や工・鉱に携わる人などだったが、寺社の系列にあって聖性ももっているとみなされていた。恐怖や嫌悪と同時に畏怖を感じてもいた。しかし後醍醐天皇承久の乱によって朝廷と天皇の権威が失墜する。それに応じてケガレた人々の聖性が失われ、被差別民とされるようになったとされる。

・江戸時代の身分制で「えた・ひにん」らの被差別民(地域によって呼称はさまざま)は職業・居住・縁組・戒名などの制限があり、服や身なりを武士や平民と区別するよう強制された。西国では主な産業は皮革業。においや死骸処理のために、劣悪な居住地に押し込められる。重要なのは、平民は被差別民の生産物を必要としていて、差別しながらも彼等から商品を購入するという共存関係にあった。なので、被差別民から財を成したものもいる。
(被差別民が職業制限を受けたのは、その職業がケガレたものであるとされたからで、被差別民はケガレをキヨメる役割を担わされた。危険な仕事をやらされたのはその理由。また下級警察の一員に組織化されたが、これは百姓や町人の一揆に敵対する行為なので、平民の憎悪を権力や体制に向かわせず、被差別民に押し付ける効果をねらった。このような差別の仕組みはのちの植民地で現地民に対して使われた。大日本帝国軍でも植民地出身兵士は汚れ仕事ばかりをあてがわされた。)

・明治政府は身分廃止令をだしたが、同時に牛馬処分や皮革業を自由化した。そのために零細資本である被差別民の業者はいっせいに窮迫する。身分廃止令が出たからといって、社会の構造や人民の意識が変わったわけではなく、アジア人への民族差別が強化されることで、被差別民への差別も強くなった。以後の歴史は前掲の原田著で補完しよう。
 江戸時代の差別の歴史を読むときに注意しないといけないのは、個人の感情や生活がなかなかでてこないので(資料の不足や生活の違いなどに由来)、その酷さ・悪質さが他人事にみえてしまうこと。今とつながる想像力を持たないと、すでに終わったこととしてみてしまう。

 

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