odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ウィリアム・シェイクスピア「あらし(テンペスト)」(新潮文庫) プロスペローには同情できないが、心理・内的葛藤は近世のものなので気になる

 ミラノ公とナポリ公を乗せた船が難破し、ほうほうのていで全員が無人島に漂着する。ミラノ公とナポリ公はいっしょにいたが、ミラノ公の息子は行先不明になってしまった。ほかに水夫などの火夫のグループと、酔漢の賄い方が島の別の場所に避難した。船が折れるほどの嵐にもかかわらず、全員が助かったのは不思議この上ないが、実は先に島に漂着していた元ナポリ公の魔術による。弟の奸計により公の職務を奪われ、乳児の娘とともに島に流されていたのだ。この元ナポリ公、プロスペローは一冊の書物を頼りに魔術を会得した。天候を自在に操り、風や水の精たちを手名付け、島の怪物を手下にしていた。プロスペローの望みは王位を簒奪したものへの処罰。風の精を使って、弟やミラノ公に怪異を見せつける。一方、年ごろになった娘は初めて見た男、すなわち弟ナポリ公の息子ファーディナンドに夢中になる。彼ら若者は大人の世代の確執にとらわれずに自然な恋をしている。二人の幸せも願う。
 ベートーヴェンピアノソナタ第17番が「テンペスト」のタイトルを持っていて、劇的で悲愴な曲調だったから、シェイクスピア「あらし(原題は「テンペスト」)」は悲劇かと思い込んでいた。wikiをみたら喜劇扱いだったのね。なるほど。


 サマリーをつくってみたが、どうも平坦で起伏に乏しい。その大きな理由は、元ナポリ公のプロスペローの地位を簒奪した弟アントニーオーと加担したナポリ公アロンゾーが悪のすごみを発揮することなく意気消沈してばかりであるうえ、罰せられないし、改悛した形跡もないから。地上の悪が罰せられないで放置されているのは21世紀の読み手にはものたりない。かわりにプロスペローが厳しく処罰するのは、酔漢の賄い方に道化に島の怪物たちで、かれらは酔って騒いだだけでプロスペローに危害を加えたわけではない。島の怪物にしても、もとは島の支配者。それがプロスペローの魔術で閉じ込められ、愚痴をこぼすばかりになっていたのを解放されて浮かれただけなのだ。21世紀の感覚では彼らマイノリティの処遇には同情せざるを得ない。それにプロスペローに従う風の精エーリアルにしても、プロスペローの魔術で支配下に置かれ数年も奉公したというのに、いつまでも無償労働をさせられる。どうしてもプロスペローの境遇(ほとんど「モンテ・クリスト伯」と同じ)に共感・同情できないのだ。
 とはいえプロスペローに関心がわくのは、この人物は劇中で内的な変容を遂げているところ。もともとは簒奪者への復讐心に凝り固まっていたのが、他者と会うことで他人への共感を持つようになる。すなわち、弟の息子ファーディナンドが娘ミランダと恋仲になるのを見て、ミランダを支配することをやめ、彼らの自立に目を細めるようになる。風の精エーリアルがそろそろ自由にしてくれというと怒っていたのが彼の働きを見てその願いを受け入れる。ナポリ公とミラノ公が無人島に漂着した身の上を嘆き、ファーディナンドが行方知れずになって悲しんでいるのを見て、復讐するのをやめ、故国に返す算段をつくす。
 「あらし(テンペスト)」はシェイクスピアのほとんど最後の作品だが(1611年ころ)、プロスペローの心理・内的葛藤は近世のものだ。嫌な奴で知り合いになりたいとも思わないが、その存在には妙に気をひかれ、彼の考えを知ってみたい。そういう近世のキャラクターがおそらく初めて生まれた。

 この作品にインスパイアされた後世の創作は、上記のベートーヴェンピアノソナタくらいしか知らない。
 これは個人的な印象だが、「テンペスト」は1956年の映画「禁断の惑星」で引用されているとおもう。無人惑星で研究するマッド・サイエンティストと男を見たことのない娘。初めて見た調査船の男性隊員に惹かれ、集団の安定性が崩れる。星の地霊のごとき怪物が現われ(マッド・サイエンティストの支配下にあった抑圧が解放される)、星が壊滅する。こういうプロットとキャラクターに親近性があるのではないか。日本語wikiには映画「禁断の惑星」の関連作品に「テンペスト」が載っていたので、同じように考える人がいるのだろう。