odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

香山滋「幼蝶記」(現代教養文庫) 石部金吉の理想の女性像はロリコン趣味で生み出されるアニメのヒロインたちと同じ。

 現代教養文庫で出た選集の第3巻。

海鰻荘奇談1947 ・・・ 巨万の富を持つ博物学者・塚本博士が岬に豪壮な私設水産研究所を作る(これは蜂須賀侯爵をネタにしているな)。そこにはうつぼがたくさん養殖されている。これはまあよいとして、家族関係が複雑。最初の妻・恵美は子供出産直後に駆け落ち。後妻を中国奥地で娶って、研究所に迎えたが、こちらも出産直後に死亡。結果、腹違いの二人の子供(最初の妻の娘・真耶と後妻の息子・五美雄)を育てる。父は娘を嫌い、息子を溺愛するが、息子は父になつかず、娘に惚れた様子。そして真耶の婚約と五美雄の誕生を祝賀するパーティを行った翌朝、二人はウツボ養殖のプールで奇妙な死体で発見される。事件関係者4人がそれぞれ語るという仕組み。
 それから数年。海鰻荘は博士の弟子・富本が管理することになる。ここの研究者となった福本は毎夜、真耶との幻の出会いを楽しむ。しかし肉体を触れ合うことのできないことが不満足であった。そこに富本から海鰻荘解体の話がでる。翌日、富本の奇妙な死体が見つかる。ここでも女性の妄執の強さと計画性が主題。身を滅ぼしながらも復讐の成就に歓喜の嬌声をあげる真耶の美しいこと。

幼蝶記1958 ・・・ 鳥類学者の曽根博のもとに、モンゴル奥地から来た男が荷物を預ける。中には死にかけた蝶が一匹。それを温室に放してから起こる幻想譚。適度にエロティックで、適度に犯罪的。

月ぞ悪魔1959 ・・・ 国際秘密見世物教会なる組織を主催していた老人の回顧談。コンスタンチノープルでにっちもさっちもいかなくなったとき、老婆から娘を預かれ、期限は今のように月が二つみえるとき!という依頼を受ける。ペルシャ娘は美しく、腹話術の話芸で斯界の話題をさらう。娘と別れたくない青年は老婆にわなを仕掛けるが。のちのヴェスヴィオス火山の噴火で幕を閉じる大奇譚。まあ、場所を変えた木下順二「夕鶴」ではある。

北京原人1952 ・・・ 15年戦争中に紛失した北京原人の頭骨他を回収しようと、中国共産党ソ連共産党が暗躍し、そこに日本人研究者が巻き込まれる。舞台は北京北方の寒村からモンゴル国境付近にまで。戦後の混乱時を描き、二重三重の裏切りと罠のかけあい。日本人研究者と若い娘の淡い恋。もっと分量があればよかったのにね。

キキモラ1952 ・・・ 過去のキューバ革命での拷問で狂気の王国に閉じこもった小田切氏。梨江夫人は山中の別荘を買い取り、使用人二人とのさみしい共同生活を送っていた。そこに、16-7歳の小娘キキモラがアルバイト募集に応じて、押しかけてきた。彼女のおかげで陰気な別荘は陽気に満ちていく。しかし別荘の持ち主チャムレー師はキキモラは人の幸福のカギを探り当て、それを破壊することで人を不幸に陥らせる妖精であると見抜く。そこでチャムレー師と梨江夫人のとった策略は。幼女趣味とフランスコント風(クノーとかカミが書きそうな)の味付けが優れた小粋なファンタジー

ガブラ1971 ・・・ 綾古島では不漁が続いていた。業をにやした漁師が海に出ると、目前でジンベエザメが怪物ガブラに変身し、凶暴に暴れまわった。そして今度はエイが怪物モブラとなって決闘を始める。そして海からは奇怪な怪物が跳梁跋扈するようになった。塚本博士はこれが原水爆実験による放射能と海の汚染が原因であり、変異のメカニズムを調査。そして世界中で原水爆廃絶をしなければならないと決意する。著者最後の作品。「ゴジラ(1954年)」によく似たストーリーで、配役で、主題だ。そこに当時の公害問題が反映している。

  


2013/05/09 香山滋「オラン・ペンデクの復讐」(現代教養文庫)


 今度はこの作家の問題点。
 同じ主題が何度も繰り返される。怪物や太古の生物への偏愛が目に付くけど、それよりも彼の描く理想の女性像。清楚にして淫乱。若い肢体に同居する性愛テクニック。恥じらいと誘惑。こういう男の欲望によって造形された女性像。ぶっちゃけ現在のロリコン趣味で生み出されるアニメのヒロインたちと同じ。そういう女性が何度も現れ、男はそれに心奪われ、しかし危機が訪れ・・・という具合。この金太郎飴みたいな小説を続けて読むのは苦しい。
 もう一つは古い文体。大げさで仰々しく、ひとつの文章は長く、しかも改行なしで延々と続く。状況の説明と人物の心理と会話が交互にあらわれ、物語が推進したりうねっていかないものだから、時に退屈。昭和30年代になり、新しい文体の書き手が出てきたとき、この古風な文章では読者は離れていくだろう。たぶん彼が昭和33年ころで筆を止めたのはそこらへんが原因。長らく大蔵省の役人で小説の作法を知ることのないまま、ほとばしるアイデアを紙にたたきつけていった結果なのでしょう。
 「キキモラ」がほとんど唯一の傑作。これはなにかのアンソロジーで再発見されるべき。「美しき山猫」「幼蝶記」「北京原人」が次に読めるもので、それでも現代の読者には厳しいだろうなあ。