odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

加納朋子「いちばん初めにあった海」(角川文庫) 記憶の曖昧な女性のモノローグは夢野久作「ドグラ・マグラ」の変奏

 1996年に出た著者の第4作。それまでは連作短編集だったが、これは独立した中編二編が収められている。

いちばん初めにあった海 ・・・ ある若い女性がアパートで一人暮らし。周囲の傍若無人な人たちの喧騒で生活のリズムはすっかり狂っている。耐えがたい環境から逃れるために引っ越しを考えていて、荷物を片付けている最中にタイトルの本を見つける。そこには「YUKI」を名乗るものから手紙が入っていた。そこには「私も人を殺したことがあるから」と書かれている。そんなことはしたことがないのに。それに読んだことのない本がとても気にかかる。引っ越しを忘れて、若い女性は本と「YUKI」のことを調べる。彼女が思いだすのは、自分には双子の兄がいて、幼児のときに死んでしまい、そのために母に邪見に扱われたこと。その母も高校性の時(今から8年前)に事故で死亡している。それに「私」は関与しているのだろうか。それに友達がいた記憶がない高校生の時に奇妙な転校生(自分が女であることに違和感をもっている)としょっちゅうクスノキの下で話し合いをしていた。卒業式のあともクスノキの下で、また会おうと言い合い、しかし再会することはないと確信している・・・。全編は若い女性の一人称のモノローグ。地の文はとても感受性の高い繊細で正確な描写をしているのに、会話が妙に少ないのは彼女が発話できなくなっているからだった(なので筆談する。スマホもでていない1996年初出)。
 ああ、とここですれっからしの読者である俺がブッキッシュな趣味の琴線に触れたのは、この記憶の曖昧な女性のモノローグは夢野久作「ドグラ・マグラ」の変奏なのであり、記憶を失った犯罪者の記憶を取り戻そうと周辺の人が努力するのは真崎守「キバの紋章」の変奏なのであると得心したからだ(でも作者はぜったいに後者のマンガを読んだことはない。むしろジャブリゾ「シンデレラの罠」アイリッシュ「黒いカーテン」をあげるはずだ)。それがわかったのはもちろん物語の終末にいたって、この混沌を説明する解釈を読んだからであり、それから物語を振り返ってからのことだ。このような「自分探し」ではたいてい自分が怪物であることを発見するのであるが、ここではそのような英雄性を語り手に与えることはしない。その性であれば可能なある能力を行使することがその人をユニークにするわけである。「ドグラ・マグラ」の主人公が鼻持ちならないエリート臭を漂わせているのとは逆に、本作のヒロインはさわやかな気分と若々しい匂いをまとっているのである。そこにいたってヒロインの手元にあった「いちばん初めにあった海」は本であるだけでなく、少なくとも3つの意味をもっていることに気づくのである。ヒロインが空虚を感じていた生活や空間が「いちばん初めにあった海」の象徴を受け入れることで意味ある世界に変容する。喪失と沈滞からの自己回復の過程を描き切った筆力は見事。

 

化石の樹 ・・・ 養子の兄が優秀なので両親に疎まれている青年が植木業のアルバイトをすることになった。親方が入院した時、一冊のノートを手渡される。それは金木犀の巨木のうろに隠されていたノートだった。そこには、ある保育園に育児でネグレクトを受けていた幼児のこと、いやむしろその少女のような母(20歳)のことが書かれていた。こどもを愛せない母は保育園に来るたびに園の屋根裏部屋にこもる。あるとき母は転落して死亡してしまった。ノートを書いた保母は娘が屋根裏部屋にいたのではないかという疑惑をぬぐい切れない。でも真相は明らかにならないので、木のうろにタイムカプセルのようにしまっていたのだ・・・。という二つの話がノートを読み終わったあとにつながる(この構成もまた夢野久作ドグラ・マグラ」の変奏だ)。つながりが強引にみえないのは、ひとえに青年のひとりごとと保母のノートの文体の力。誰かに聞かせようという努力が見える文体が読者を彼・彼女の共犯者にしてしまうのだ(谷崎潤一郎「犯罪小説集」(集英社文庫))。読者は利害関係のない公正な第三者でいられることができなくなり、青年や保母の親密なコミュニティの一員にされてしまう。そういう<内部>にいることで彼・彼女の偏見や見落としや脱落を無視してしまい、最後になって「探偵」役の青年によってひっくり返しを食らうことになる。ここではハッピーエンドがあるので、騙された(いやそうされたのだけど)気分にはならない。ともあれ若い二人に幸あれとは思う。語り手達は声高に主張してはいないが、ここで告発されているのは女性や家庭に無関心な男の存在。食と性を求めて、しかしそれ以外には無関心であることが女性や幼児のようなマイノリティをいかに虐げ辱めているか。ことに「父」になっている人たち。これは子供がいる男だけでなく、職場や地域で「父」のように権勢をふるっている人たちも指している。語り手の青年も最後の強引さはのちに暴力に転化するかもしれない(相手の秘密をただ一人知っているから)ので、注意しないと。

 

 発表誌や単行本の広告で本書はミステリに入れられてしまうのかしら。なるほど物語には謎があり、それを論理的に説明しているので、ミステリにしてもよさそう。でもそれでいいのかという問いが生まれるのは、たいていのミステリにはまず現れない女性の自立や男性告発のテーマがあるから。俺は謎解きよりも、こちらの社会的なテーマのほうが大事だった。なるほど俺のような男性が見逃している女性の視線はこういうものであり、彼女らからは男性は身勝手で幼児性を持っているのだと、俺を恥じ入らせたのだ。
 そのような感想を持つのはひとえに文章の力にあって、男性作家の多くが持っているのは幼児的で独断的な視線と文体なのだなあということだ。最初の中編ではクスノキ、次の中編では金木犀が物語の真ん中にあり、それ自体の存在感とそれに触れた語り手の心情がとても細やかに書かれている。多くの男性ミステリ作家が5行程度で終わらせるところを数ページかけて描写し、その丁寧な観察で語り手の個性や感受性などがありそうなこととして実在感をもって現れてくるのだ。多くのミステリが「キャラが平坦、人形じみている」と批判されるが、この作者ではまったく不満がない。