odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

大江健三郎「孤独な青年の休暇」(新潮社) 「上機嫌」「勇敢な兵士の弟」「幸福な若いギリアク人」豊かな生活をしている若者の孤独と不安を書いた短編集。

 エントリーのタイトルは1960年にでた短編集に倣った。ただし、読んだのは「全作品 I-3」と「全作品 I-4」。それぞれの短編のあとに文庫化情報を追記。いくつかの短編は未収録で、初出誌か「全作品」でないと読めないと思う。タイトルの「孤独な青年の休暇」は全作品にも未収録。「全作品 I-3」には「青年の汚名」「セヴンティーン」も収録されている。それらは別エントリーで。


上機嫌 1959.11 ・・・ おそらく小説家である「わたし」が婚約者の映画女優Kと夏季休暇中(たぶん神戸あたりか?)。崖の近くでピクニックをしていたら、バイク事故を目撃した。ツーリングの仲間と思える若い男に声をかけて、助けるとKはたちまち若い男を連れまわし、「わたし」をほったらかしにする。Kはいつものようにいずれ飽きて帰ってくるものだと思い、「わたし」は麻薬タバコを吸い、オルフェオ神話を題材にするジャズオペラを構想する。若い男は香港に密出国することを計画していて、同志を探している。夏が終わり東京に戻らなければならなくなったとき、Kは若い男と別れる提案をし、彼に自分らの性交を見せつける。帰宅準備の最中、Kはふいに涙を流し、若い男のもとに行き、拳銃自殺を遂げる。このストーリーに牧師が被曝女性を慰めようと苦闘したり、娼婦を連れ込みそこねた米軍兵士に同情したりする話が紛れ込む。「わたし」の夢想していたオルフェオ神話にもとづくオペラ台本がまさに自分に降りかかって、一人ぽっちになる。のちの「叫び声」「個人的な体験」の準備編とでもいえるか。

勇敢な兵士の弟 1960.01 ・・・ 一流会社に就職してフィアンセもいるのにその男は勃起不能で悩んでいる。15年前に特攻で童貞のまま死んだ兄がトラウマになっているのではないか。一家の生き残りの母と霊媒を訪ね、兄の霊を呼ぶ。「俺は童貞のまま死んだ、弟よ、そのまま不能で生きろ」と叫ぶ。意気消沈して帰る青年のもとを霊媒師が追いかける。乾いた笑いしか出ないな。この荒涼さと言ったら。さて、この10年後に三島由紀夫は「英霊の声」なんぞを書いているが、その批判になっているねえ。

後退青年研究所 1960.03 ・・・ 「見るまえに跳べ」(新潮文庫)と「全作品 I-4」に収録。28-9才のアメリカ人社会心理学者が傷ついた学生運動家のインタービューを集めていた。まあ戦後の「転向」研究でもしていたのだろう。学生はよいアルバイトと思っていたが、それほど多くの挫折した運動家がいるわけではなく、次第に件数が減り、本部から叱咤される。所長に泣きつかれたので、捏造の告白を集めたら、所長も本部も喜びました、とさ。捏造の告白は「日本共産党へのスパイになり、査問を受けて、小指を失った」というもの(似た話は大島渚監督「日本の夜と霧」にもある)。語り手は学生アルバイトの「ぼく」20歳。著者の「奇妙なアルバイト」もののひとつ。政治的な若者の不安を描こうとしたが、上滑り。語り手の無責任さが問題を摘出できなかった。

下降生活者 1960.11 ・・・ 「見るまえに跳べ」(新潮文庫)に収録。将来を嘱望された若い文学部助教授。九州の貧困の村から脱出し、家族の紐帯から脱し、都会で上昇する恐悦な欲望をもっている。名誉教授の娘と結婚し、順調な暮らしを送っていたが、突然不安が訪れる。ある路地で男に呼びかけられ、路地で<架空の僕>を演じているとき、心からの安堵を感じ、助教授の暮らしを厭ったらしいものと感じる。その二重生活も秋学期が始まった時に終わる。そして、大学も家族も村も捨て、路地の見張りになる。「遅れてきた青年」の圧縮版。短い分、戯画化され、主題の切実さがどこかにいってしまった。自己懲罰や自己嘲弄の意識は著者の想像するキャラクターに頻出する。

幸福な若いギリアク人 1961.01 ・・・ 北海道のオホーツク海に面した市の製材所で働く20歳の青年。色黒からアメリカ・インディアンと呼ばれていたが、ソ連に密航しようとする若い男に「お前はギリアク人だ」と脅迫される。ギリアク人であることを母は黙っていた。樺太から引き揚げた老人のいる施設に行ってある老人にあう。彼はギリアク人でシャーマンだった。青年は老人から「お前はギリアクの晴れ男」だと告げられる。彼は至福の気分になる。ギリアク人またはギリヤーク人はニヴフと呼ぶのが正しいらしい。アイヌとの関係も微妙だったようだ。
ニヴフ - Wikipedia
この国のマイノリティがアイデンティティに苦しむという話だが、それを十全に書くには、まだほど遠い。若者の空想したおとぎ話。まあ読まれなくてもよいでしょう。

不満足 1962.05 ・・・ 「空の怪物アグイー」(新潮文庫)に収録。

スパルタ教育 1963.02 ・・・ 「空の怪物アグイー」(新潮文庫)に収録。


 20歳で小説を書いたら成功し、就職しないで職業作家になった。10冊くらいの長編、短編集その他を出版する。4年たち、次のところに行こうとする模索の時代。これまでに登場してきた著者に似ているパーソナリティとは異なるタイプのキャラクターを創造したり、第三者の視点で世界を眺めようとしたり、三人称で書いたりとこれまでやってこなかった実験を行う。作家の核は確固としたものとしてあって保持するべきであるが、これまで十分に伸ばしてきたわけではない方向に可能性がないかを探っている。その実験の最たるものが「セヴンティーン」であったわけだが、この短編は別エントリーで。
 いくつか気付くことがあって、
・主人公たちはとても自信がある。現状に不満があっても、自分に力があり、他人は自分の意見や意図に従うべきだという自尊心がある。自信や自尊心の根拠は若さであって、体力もあり、性欲の強さであり、酒や薬に耐えられるというところ。この傲慢な若者の独白は、老年間近になって読むと、ほほえましくもあり、滑稽でもあり。実際、この直後に著者の自信や自尊心がへし折られる事件があり、そのあとの小説の主人公は心折れた憂鬱な人間になる。
・豊かな生活をしていても、不安や恐怖が付きまとう。そのオブセッションはデビュー時から変わらずあり、40代半ばころまでの作品の通奏低音になっている。それはここでも変わらず流れているが、不安や恐怖の対象が漠然としている。観念的な死とか自己破滅や自己破壊のイメージ。それは著者が若い年代にあって、生活や日常の具体をとらえていないからだろうし、原爆や核兵器の問題や被曝者などに出会っていないためだろう(出会いは1963年の夏。「ヒロシマ・ノート」による)。その点では、「上機嫌」に登場する妊娠した被曝女性が小頭児を産むのではないかと恐れているのは、のちを予感させる。
 発表から半世紀をたってから読むと、この時期(著者23-4歳)の模索は芳しい成果をあげなかった。端的には技法が目立って、主題のとらえ方が不十分。物語がねじれるか、あまりに素朴になるか。どうやら模索時代の作品は著者の自己評価も低いようだ。2014年の「自選短篇 (岩波文庫) 」には、まったく収録されていない。