2023/02/02 高橋昌明「武士の日本史」(岩波新書)-1 2018年の続き
前2章で歴史的変遷をみてきたが、こんどは武芸や戦闘行為をあきらかにする。自民党、極右、神道系宗教、ネトウヨなどがいう「武士」「武士道」は胡散くさいものだという印象があったが、その通りであることが次々に明らかになる。
第三章 武器と戦闘 ・・・ 武士の装備や戦闘は時代劇・小説や歌舞伎などでイメージを持っているが、同時代の資料を読み込むとまったく異なる様相をしていた。例えば、騎馬で刀を振るうことはほとんどなく、下馬して戦ったとか、細身の華奢な日本刀は戦国時代が終わってからの制作で実際の戦闘では役に立たないとか、戦闘のほとんどは弓の打ち合い(それを楯で防ぐことから「楯突く」という言葉が生まれた)であるとか。刀もずっと短く太かったとか。今の剣道のような竹刀のぶつかり合いも戦闘では発生していない。講談の聞かせ所、劇の見栄えなどをよくするために創作された装備や戦闘があたかも実在したかのように思い込むようになった。
第四章 「武士道」をめぐって――武士の精神史 ・・・ 武士の精神をテキストにするようになったのは江戸時代からとそれほど新しいものではない。それも江戸の平和的に安定した時代で政治が文官によって行われていて、武士は冷遇されていた。そこで戦士としての心構えという特殊な考えを儒教風に洗練させたものである。たとえば山鹿素行や「葉隠」など。道徳で規範にするのは忠義勇となる。前提としての暴力是認、戦争肯定は東アジアの思想とは異質で異様で理解不能。しかし、武士のありかたは古代中世と近世では大きく異なる。とくに社会構造と主従制のあり方が大きく変わったためである。
(中世では降伏や捕虜は恥ではなく、主人を変えることは容認ないし推奨されていた。名利を求めるのが大事で、嘘やだましは容認されていた。死の可能性があるので呪術や験(ゲン)担ぎを好んでいた。倫理礼節からは遠かった。武士は自前の収入源をもっていたが、江戸時代になると給地や俸禄に頼るようになり、道徳観や主従性が変わる。)
第五章 近代日本に生まれた「武士」 ・・・ アメリカの開国要求以後、幕府は軍制改革を試みるが、主従制・身分制が邪魔をする。明治政府は士族特権を廃止(とくに徴兵制と廃刀令によって)するが、士族の多くは官吏・軍人・警官・教師になる。国家に近い職なので名誉意識と定期的な俸禄を得られるところが共通していたため。軍人勅諭、教育勅語などで国民に浸透した「武士道」は日露戦争後に定着する。この時から精神教育が重視され、捕虜を恥とし、自殺を称揚するようになる。おかげで軍の運営が旧式になり、大敗北を喫する。
(新渡戸稲造「武士道」は一種の創作だったという話がでてくる。明治20年代から編纂された「日本戦史」は擬古物語だが、のちのちまで通史とみなされた。桶狭間、長篠、関が原などの記述の誤りはこれに起因するという。)
終章 日本は「武国」か ・・・ 日本を「武国」とみるのは12世紀ころまでさかのぼれるが、蒙古襲来・朝鮮出兵などの「外国脅威」の時期に武国意識が高まる。平安な時代にはそのようにはみない。
(列島が外国から侵略される例はほとんどないのに、「侵略」恐怖をあおると「武国」(ないし「神の国」意識が強化される)。
武士道は、一部の階層にだけ通用する普遍性のない思想で、創られた伝統にすぎない。これがまとめ。それを実際にあったかのように思い込ませて、いのちを軽く見る思想を定着させた。明治維新で武士や士族はなくなったとおもっていたが、彼らが転職した官吏・軍人・警察・教育などに士族の考えが残り、選民であるという優越意識といっしょになって、創作された「武士道」を利用していったわけだ。それが明治政府以降のこの国の為政者の「伝統」になり、WW2の敗戦という国家破壊に帰結した。
自民党や日本会議などが「道徳教育」に固執するのは、武士道教育をしたいから。義務教育での武道もその一環とみなせる。というわけで、右翼その他が武士道を持ち出そうとするとき、強い主従制と生命軽視を要求するものであることで対抗していこう。