odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

アガサ・クリスティ「第三の女」(ハヤカワ文庫) third girlはみそっかす、そこにいない女の子くらいの意味。ポワロは足を使った捜査はできないので、高齢のアリアドネに任せるしかない。

 ポワロを訪れたのは、心ここにあらずというようなぼんやりした若い娘。「あたしは殺人をしたのかもしれない」といって、何も相談せずに出て行ってしまった。この娘を、ポワロの友人のアリアドニ・オリヴァが知っていた。なのでポワロは気になり、娘の両親や叔父などを訪ね歩く。まずいことに、娘はロンドンで下宿しているが、この数日家にも下宿にも帰っていない。どこにいるのか。娘のいう殺人はどこであったのか。

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 という具合に、物語は娘の行方を捜すところから始まる。これまでのポワロの冒険では、事件は上流階級の大きな館で起きていて、その周辺の人々は互いにゴシップを交換し合い、事件があった時のことはそれなりに証言できた。ポワロは座っているだけで(ちょっと誇張)、関係者の証言を集めることができ、警察の見つけた証拠品を手にすることができた。しかし、戦後20年もたち(1966年初出)、人々の流動性が高まると、ポワロのやり方ではなにもわからない。なにしろ、ポワロは高齢になり、かつての名声は陰りが出て、娘の両親や叔父とあってもはかばかしい返事を得られず、孫くらいの娘の友人たちとは話をする機会すら得られない。なので、ポワロは、あるいは探偵小説作家のアリアドニはロンドンの下町を歩かなければならない。しかし、彼らの服装は時代遅れで、下町の若者から嘲笑を向けられる(ポワロのひげは特に)。アリアドニは途中でなにものかに頭を殴打されるくらい。
 それくらいに彼らは時代遅れになっていて、その上若い世代(戦中生まれの若者)とは行動様式もモラルも異なる。若者が彼ら高齢者を嫌うように、彼ら高齢者も若者を嫌う。それは若者の派手さ、軽薄さ、マナーの悪さなどの見かけが理由。高齢者の偏見が若者を硬直化させ、証言を得ることができなくなる。
 娘の失踪。そこには不在の父が十数年ぶりに帰還し、実母は死んで(娘は毒殺したかもと恐れている)、継母を連れてきたという背景がある。娘は父の秘書や室内装飾を手掛ける女性らとロンドンで共同生活をしていた。そこの縁で、若い芸術家のグループに出入りして、ある男から結婚を持ち掛けられている。でも、情緒不安定な娘は何ごとも決定できず、自分がいつも頭がふわふわして現実と夢の区別がつかないことを苦にして、そこも抜け出し精神科医のすすめで療養所に入る。そして抜け出し、結婚を求めてきた男が殺されている現場で発見される。全400ページの350ページ目でようやく事件らしい事件が起きるという悠長さ。これは「ゼロ時間へ」の手法だな。
 これだけ事件が進展しないのは、ポワロとアリアドネら上流階級がロンドンの下層階級を調べなければならないから。もし、これがリュー・アーチャー(彼はアメリカ人だけど)のように下層階級に入れる人であったら。この小説ではポワロら老人の偏屈ぶりがめだったが、むしろ若者の苦悩が浮き彫りになったかもしれない。キャラクターと事件があわなくて、きしみがあちこちにある。
 その反映か、最後に見えてきた事件の構図はとても大きい。複数の関係者の思惑が重なっていて、錯綜した事件が起きていた。特に前半は何が事件かわからない状態。アリアドニに起きたことや娘の下宿先の転落事故など、ポワロやアリアドニの捜査中に起きた出来事も、娘と父の家族には関係してないようにみえた出来事もあとでは事件の構図にピタとはまる。こういう技術はとてもうまい。でも、その前の慣れないハードボイルド調の物語に収まり切れない大きさになってしまった。実写のドキュメンタリータッチの映画の最後にアニメが出てくるような違和感。いや、技術は素晴らしいんだ。これはトミーとタペンスの話にしたらよかったかも。
(タイトル「第三の女」はグリーン-リードの「第三の男」を模しているのかなと思ったが、そんなことはなかった。third girlはみそっかす、そこにいない女の子くらいの意味。もちろん事件との関係はおおいにある。)

アガサ・クリスティ「親指のうずき」(ハヤカワ文庫) タイトルは「マクベス」由来。タペンスの好奇心は隠したい秘密を暴いて人々を不安にさせる。

 なるほど、クリスティがハードボイルドを書くとこうなるんだ、という感想。本書初出の1968年から12年もたつと、離婚し独立して拳銃をしのばせて街をうろつく女性私立探偵がでてくるものだが、この時代ではまだ独力で暴力に対抗するまでには至らない。それでも、タペンスはオルツィ「紅はこべ」1905年のマルグリートの子孫であって、一人で冒険に立ち向かう。なので、もう60代にあると思われるタペンスも、捜査の途中で頭を殴られ、失神することを余儀なくされ、それを恐れない。

叔母の遺品のひとつである風景画をみたタペンスは、妙な胸騒ぎをおぼえた。描かれている運河の側の人家になぜか見おぼえがあったのだ。夫トミーが止めるのもかまわず、その家を探りあてるため旅に出るがそこには罠が待ち受けていた!おしどり探偵の縦横無尽の活躍を描きだした女史後期の佳作

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  すでにトミーとタペンスは60代。娘のデボラは結婚して家を離れ、夫婦は執事のアーノルドと3人で暮らしている。トミーも半引退状態で、講演や学会発表が主な仕事。タペンスは特老(そんなことばは本書にはでてこない)にいるエイダおばさんを見舞う。隣のランカスター夫人のもっている絵に興味を惹かれる。どこかでみたことのある風景に建物。それにうわごとで言った「家の中に子供の死体がある」が妙に気になる。エイダおばさんが死去したあと、遺品の絵を譲り受け、ランカスター夫人は問題がないのに退去してどこかに行ってしまったのを知る。
 そこでタペンスは記憶をよびさまし、一人で自動車を駆って建物を探しに行く。建物を見つけるまでの長い長い叙述とおしゃべりは割愛して、ようやく見つけたその家は遺品の絵が描かれた後、何人もの人が借り受けては退去していた。現在は無人の部屋に入ると、なぜか人形がおいてある。十数年前には子供の連続殺害事件が起きて未解決でもあった。遺品の絵には睡蓮(ウォーターリリー)号のボートが書き加えられ、建物の近くでリリー・ウォルターズの墓を見つける。
 一方トミーの友人は建物の近辺に窃盗団のアジトがあるとそれとなく伝える。行方不明のタペンスが見つかり、夫婦はふたたび建物を訪れる。

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 トミーとタペンスという諜報部の職員が捜査するので、冒険スパイものになるのであるが、建物を主人公にすると現代の幽霊屋敷ものになる。自分の趣味では後者のストーリーのほうが興味をもつのであるが、カーやその後継者が存分に書いてきたので、まあよろしかろう。建物に秘められた過去の謎を解くのが主題であるが、タペンスの冒険を後ろから覗いていた読者にはひとつの事件におもえたものが、複数の事件の寄り集まりであったというのが趣向。それに背後に秘密組織の暗躍があったというのもこの時期の趣向(1960年代のクリスティ作にはほかにもある。タイトルは明かせないので、秘密の日記に書いておこう)。
 この謎ときはとてもうまいので佳品とおもうが、一方タペンスの活躍は縦横無尽というには冗長に過ぎる。ことに前半のタペンスの冒険において。作品の3分の2に来たところで墓碑を調べるタペンスが昏倒するまでがとても長いので、読むのが辛かった。なので「佳品」とまで評価するのはためらう。
 ハードボイルドと思うのは、主人公タペンスの個性がほとんど感じられないこと。トミーと掛け合いをするのはかつての快活なタペンス。でもひとりで捜査にはいると、カメラアイになって三人称一視点の記録係に徹する。スパイや私立探偵とはそうしたもの。でも若いころのクリスティからはずいぶん乖離している(たとえば「NかMか」とはずいぶん違う)。そういえば、1960年代のクリスティの作品はマープルやポアロの探偵小説でも、彼ら探偵はカメラアイに徹して饒舌さや機敏さを隠すようになった。
 「親指のうずき」はシェイクスピアマクベス」に由来し、不吉な予感がすると親指がうずくというセリフからとった。タペンスが遺品の絵に対する関心をそう説明した。いまなら「私のゴーストがささやくのよ(@攻殻機動隊)」あたりか(それでも、古すぎ!)

 

  

アガサ・クリスティ「復讐の女神」(ハヤカワ文庫) マープルはお茶目で世話好きでおしゃべりなおばあちゃんから神話的な「復讐」の実現を確認する形而上的な立場に立っている。

 80歳になったミス・マープル(著者クリスティも同じ年齢)は、リューマチで手がこわばり、きびきびと動くことはかなわない。なにより友人や知り合いはことごとく世を去り、おしゃべりを楽しむ相手はいない。セント・メアリー・ミードで村人を観察する喜びは失われている。大江健三郎「美しいアナベル・リイ」(新潮文庫) と同じ老齢の悲しみと孤独がいや増している。そこに、過去からの手紙が届き、過去の封印が開くのも、大江の同作と同じだ。

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 7年前の「カリブ海の秘密(1964)」事件でいっしょになった大金持ちラフィール氏から、「復讐の女神(ネメシス)」となって犯罪の捜査をしてほしい。でも何の犯罪なのかまったくわからない。受諾して数日後、マープルのもとにイギリスの著名邸宅と庭園巡りの旅のチケットが送られてきた。マープルは誰一人として知る人のいないツアーバスに乗り込む。旅が進んでも、なにもみえてこない。本のページが半分にいたっても、何が事件なのかわからないので、読者もやきもき。
 ツアーの途中で女学校の校長が落石にあい、マープルに謎めいた言葉を残す。ほかにもマープルに接触して話をしてくる人たちがいる。おぼろげにわかってきたのは、10年間にラフィール氏の評判の良くない息子が殺人で収監されている。息子は殺したとされる娘と駆け落ちしてでも結婚するつもりであったのに、何かの理由で止めてしまった。そのあと死体が発見され、息子が有罪とされた。でも、殺された娘の女学校の校長や、結婚式の相談相手になっていた副司祭らは娘はそういうことをしないという。
 この事件の前後にある三姉妹の住む家に招待される。彼女らもまた、ラフィール氏の息子の事件を近くで見聞きしていた人たちだった。過去の事件の情報は彼女らからもたらされる。でも、雲をつかむような状態は変わらない。ラフィール氏はいったい何をマープルに望んでいるのか。
 マープルは動かない/動けない。リュー・アーチャーのように聞き込みにいけないし、クイーンのように警察の情報を横からとることもできない(そもそも刑事的には終わった事件だから)。そのうえ、自分の使命もわからない。それでも、ラフィール氏の手配によって、断片的な情報の持ち手が入れ替わり立ち代わりで話をしに来る。その話と彼女の観察によって、真相に近づく。ああ、と思ったのは、立場は違うがこれはソポクレスの「オイディプス王」ではないか。いや、ラフィール氏が命名したように「復讐の女神(ネメシス)」だ。そこで発見しようとするのは、クリュタイムネストラアガメムノン
 これまでのマープルはお茶目で世話好きでおしゃべりなおばあちゃんだったが、この最後の登場作(「スリーピング・マーダー」が死後に発表されるが、書かれたのは1940年代)では、そのような人間らしいことはほとんど消えている。空気のように偏在する観察者。なので、過去の事件の真犯人と対峙したとき、真相が暴露された犯人がどのように行動するかをわかっていても、止めようとしない。それは彼女は社会の正義にいるのではなく、神話的な「復讐」の実現を確認する形而上的な立場に立っているから。重要なのは行為によって生じた「復讐」を完遂させること。それによって自縄自縛の憑き物から解放させること。解放されれば、生死は意味がない。こういうところも、オイディプス王アガメムノンなどのギリシャ悲劇を思い出させる理由。
 1971年初出。

 

〈追記2023/11/9〉 晩年のクリスティは認知症を患っている可能性があると、文章と文体の研究から指摘された。

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