odd_hatchの読書ノート

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アガサ・クリスティ「親指のうずき」(ハヤカワ文庫)

 なるほど、クリスティがハードボイルドを書くとこうなるんだ、という感想。本書初出の1968年から12年もたつと、離婚し独立して拳銃をしのばせて街をうろつく女性私立探偵がでてくるものだが、この時代ではまだ独力で暴力に対抗するまでには至らない。それでも、タペンスはオルツィ「紅はこべ」1905年のマルグリートの子孫であって、一人で冒険に立ち向かう。なので、もう60代にあると思われるタペンスも、捜査の途中で頭を殴られ、失神することを余儀なくされ、それを恐れない。

叔母の遺品のひとつである風景画をみたタペンスは、妙な胸騒ぎをおぼえた。描かれている運河の側の人家になぜか見おぼえがあったのだ。夫トミーが止めるのもかまわず、その家を探りあてるため旅に出るがそこには罠が待ち受けていた!おしどり探偵の縦横無尽の活躍を描きだした女史後期の佳作

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  すでにトミーとタペンスは60代。娘のデボラは結婚して家を離れ、夫婦は執事のアーノルドと3人で暮らしている。トミーも半引退状態で、講演や学会発表が主な仕事。タペンスは特老(そんなことばは本書にはでてこない)にいるエイダおばさんを見舞う。隣のランカスター夫人のもっている絵に興味を惹かれる。どこかでみたことのある風景に建物。それにうわごとで言った「家の中に子供の死体がある」が妙に気になる。エイダおばさんが死去したあと、遺品の絵を譲り受け、ランカスター夫人は問題がないのに退去してどこかに行ってしまったのを知る。
 そこでタペンスは記憶をよびさまし、一人で自動車を駆って建物を探しに行く。建物を見つけるまでの長い長い叙述とおしゃべりは割愛して、ようやく見つけたその家は遺品の絵が描かれた後、何人もの人が借り受けては退去していた。現在は無人の部屋に入ると、なぜか人形がおいてある。十数年前には子供の連続殺害事件が起きて未解決でもあった。遺品の絵には睡蓮(ウォーターリリー)号のボートが書き加えられ、建物の近くでリリー・ウォルターズの墓を見つける。
 一方トミーの友人は建物の近辺に窃盗団のアジトがあるとそれとなく伝える。行方不明のタペンスが見つかり、夫婦はふたたび建物を訪れる。

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 トミーとタペンスという諜報部の職員が捜査するので、冒険スパイものになるのであるが、建物を主人公にすると現代の幽霊屋敷ものになる。自分の趣味では後者のストーリーのほうが興味をもつのであるが、カーやその後継者が存分に書いてきたので、まあよろしかろう。建物に秘められた過去の謎を解くのが主題であるが、タペンスの冒険を後ろから覗いていた読者にはひとつの事件におもえたものが、複数の事件の寄り集まりであったというのが趣向。それに背後に秘密組織の暗躍があったというのもこの時期の趣向(1960年代のクリスティ作にはほかにもある。タイトルは明かせないので、秘密の日記に書いておこう)。
 この謎ときはとてもうまいので佳品とおもうが、一方タペンスの活躍は縦横無尽というには冗長に過ぎる。ことに前半のタペンスの冒険において。作品の3分の2に来たところで墓碑を調べるタペンスが昏倒するまでがとても長いので、読むのが辛かった。なので「佳品」とまで評価するのはためらう。
 ハードボイルドと思うのは、主人公タペンスの個性がほとんど感じられないこと。トミーと掛け合いをするのはかつての快活なタペンス。でもひとりで捜査にはいると、カメラアイになって三人称一視点の記録係に徹する。スパイや私立探偵とはそうしたもの。でも若いころのクリスティからはずいぶん乖離している(たとえば「NかMか」とはずいぶん違う)。そういえば、1960年代のクリスティの作品はマープルやポアロの探偵小説でも、彼ら探偵はカメラアイに徹して饒舌さや機敏さを隠すようになった。
 「親指のうずき」はシェイクスピアマクベス」に由来し、不吉な予感がすると親指がうずくというセリフからとった。タペンスが遺品の絵に対する関心をそう説明した。いまなら「私のゴーストがささやくのよ(@攻殻機動隊)」あたりか(それでも、古すぎ!)