ポワロを訪れたのは、心ここにあらずというようなぼんやりした若い娘。「あたしは殺人をしたのかもしれない」といって、何も相談せずに出て行ってしまった。この娘を、ポワロの友人のアリアドニ・オリヴァが知っていた。なのでポワロは気になり、娘の両親や叔父などを訪ね歩く。まずいことに、娘はロンドンで下宿しているが、この数日家にも下宿にも帰っていない。どこにいるのか。娘のいう殺人はどこであったのか。
という具合に、物語は娘の行方を捜すところから始まる。これまでのポワロの冒険では、事件は上流階級の大きな館で起きていて、その周辺の人々は互いにゴシップを交換し合い、事件があった時のことはそれなりに証言できた。ポワロは座っているだけで(ちょっと誇張)、関係者の証言を集めることができ、警察の見つけた証拠品を手にすることができた。しかし、戦後20年もたち(1966年初出)、人々の流動性が高まると、ポワロのやり方ではなにもわからない。なにしろ、ポワロは高齢になり、かつての名声は陰りが出て、娘の両親や叔父とあってもはかばかしい返事を得られず、孫くらいの娘の友人たちとは話をする機会すら得られない。なので、ポワロは、あるいは探偵小説作家のアリアドニはロンドンの下町を歩かなければならない。しかし、彼らの服装は時代遅れで、下町の若者から嘲笑を向けられる(ポワロのひげは特に)。アリアドニは途中でなにものかに頭を殴打されるくらい。
それくらいに彼らは時代遅れになっていて、その上若い世代(戦中生まれの若者)とは行動様式もモラルも異なる。若者が彼ら高齢者を嫌うように、彼ら高齢者も若者を嫌う。それは若者の派手さ、軽薄さ、マナーの悪さなどの見かけが理由。高齢者の偏見が若者を硬直化させ、証言を得ることができなくなる。
娘の失踪。そこには不在の父が十数年ぶりに帰還し、実母は死んで(娘は毒殺したかもと恐れている)、継母を連れてきたという背景がある。娘は父の秘書や室内装飾を手掛ける女性らとロンドンで共同生活をしていた。そこの縁で、若い芸術家のグループに出入りして、ある男から結婚を持ち掛けられている。でも、情緒不安定な娘は何ごとも決定できず、自分がいつも頭がふわふわして現実と夢の区別がつかないことを苦にして、そこも抜け出し精神科医のすすめで療養所に入る。そして抜け出し、結婚を求めてきた男が殺されている現場で発見される。全400ページの350ページ目でようやく事件らしい事件が起きるという悠長さ。これは「ゼロ時間へ」の手法だな。
これだけ事件が進展しないのは、ポワロとアリアドネら上流階級がロンドンの下層階級を調べなければならないから。もし、これがリュー・アーチャー(彼はアメリカ人だけど)のように下層階級に入れる人であったら。この小説ではポワロら老人の偏屈ぶりがめだったが、むしろ若者の苦悩が浮き彫りになったかもしれない。キャラクターと事件があわなくて、きしみがあちこちにある。
その反映か、最後に見えてきた事件の構図はとても大きい。複数の関係者の思惑が重なっていて、錯綜した事件が起きていた。特に前半は何が事件かわからない状態。アリアドニに起きたことや娘の下宿先の転落事故など、ポワロやアリアドニの捜査中に起きた出来事も、娘と父の家族には関係してないようにみえた出来事もあとでは事件の構図にピタとはまる。こういう技術はとてもうまい。でも、その前の慣れないハードボイルド調の物語に収まり切れない大きさになってしまった。実写のドキュメンタリータッチの映画の最後にアニメが出てくるような違和感。いや、技術は素晴らしいんだ。これはトミーとタペンスの話にしたらよかったかも。
(タイトル「第三の女」はグリーン-リードの「第三の男」を模しているのかなと思ったが、そんなことはなかった。third girlはみそっかす、そこにいない女の子くらいの意味。もちろん事件との関係はおおいにある。)